「張玄セイ」の版間の差分
改名提案 |
m Bot作業依頼: 邕贛の改名に伴うリンク修正依頼 (張邕) - log |
||
53行目: | 53行目: | ||
[[361年]]4月、宋混は病に倒れた。張玄靚は馬氏と共に自ら彼の下へ詣でると「将軍に万一の不幸があれば、この寡婦と孤児は何を頼みとすべきか!林宗(宋混の子である宋林宗)に将軍を継がせたいと思うが、如何か」と問うた。宋混は「臣の子である林宗は幼弱であり、大任には耐えられません。もし殿下が臣の一門を見捨てておられないのでしたら、弟の澄は臣よりも政治の才能があります。但し、柔弱な所があるので、機事には向いておりません。その時は殿下が策励して彼を動かすとよいでしょう」と告げた。やがて亡くなると、張玄靚は遺言に従い、宋澄を領軍将軍に任じて輔政を委ねた。 |
[[361年]]4月、宋混は病に倒れた。張玄靚は馬氏と共に自ら彼の下へ詣でると「将軍に万一の不幸があれば、この寡婦と孤児は何を頼みとすべきか!林宗(宋混の子である宋林宗)に将軍を継がせたいと思うが、如何か」と問うた。宋混は「臣の子である林宗は幼弱であり、大任には耐えられません。もし殿下が臣の一門を見捨てておられないのでしたら、弟の澄は臣よりも政治の才能があります。但し、柔弱な所があるので、機事には向いておりません。その時は殿下が策励して彼を動かすとよいでしょう」と告げた。やがて亡くなると、張玄靚は遺言に従い、宋澄を領軍将軍に任じて輔政を委ねた。 |
||
9月、右司馬[[ |
9月、右司馬[[張邕]]は宋澄の専政を妬み、挙兵して宋澄を攻撃し、これを誅殺した。さらに、宋氏一族を誅滅した。張玄靚は張邕を中護軍に任じ、叔父の[[張天錫]]を中領軍に任じ、両者に輔政を委ねた。 |
||
=== 張邕の時代 === |
=== 張邕の時代 === |
2020年8月17日 (月) 07:32時点における版
沖公 張玄靚 | |
---|---|
前涼 | |
第8代君主 | |
王朝 | 前涼 |
在位期間 | 355年 - 363年 |
姓・諱 | 張玄靚 |
字 | 元安 |
諡号 | 沖公 |
廟号 | 無 |
生年 | 350年 |
没年 | 363年 |
父 | 張重華 |
母 | 郭氏 |
陵墓 | 平陵 |
年号 |
建興:355年 - 361年 升平:361年 - 363年 |
張 玄靚[1](ちょう げんせい、350年[2] - 363年)は、五胡十六国時代の前涼の第8代君主。字は元安。父は第5代君主張重華。
生涯
君主に擁立
350年、張重華の末子として生まれた。
354年1月、伯父張祚が涼王を称すると、張玄靚は涼武侯[3]に封じられた。
355年7月、宗族である河州刺史張瓘は張祚の誅殺を掲げて挙兵し、8月には驃騎将軍宋混もこれに呼応した。9月、宋混が姑臧に逼迫すると、張瓘の弟である張琚と子の張嵩が内側から呼応し、城門を開いて宋混軍を迎え入れた。 張祚の側近であった領軍将軍趙長・張璹らは禍を恐れて宋混側に寝返えると、馬氏(張玄靚の祖母)を呼び寄せ、張祚を廃して張玄靚を主に立てると宣言した。張祚は入殿してきた宋混らの軍に殺され、趙長らもまた将軍易揣らに捕らえられて殺害された。
その後、宋混・張琚らは張玄靚を正式に君主に立て、持節・大都督・大将軍・護羌校尉・涼州牧・西平侯とした。また、和平の元号を廃してまた西晋の元号である建興43年と号し、その領内に大赦を下した。さらに張祚を庶人の礼で葬り、2人の子を処刑した。
張瓘の時代
張瓘が姑臧に到着すると、張玄靚を推戴して使持節・大都督・大将軍・涼王とし、自らは衛将軍として兵1万を領し、使持節・都督中外諸軍事・尚書令・涼州牧・張掖公・行大将軍事となり、また宋混を尚書僕射として役人の任官・免官を委ねた。
同月、隴西の人である李儼は張玄靚は張瓘の命に従わず、豪族の彭姚を殺害すると、東晋の元号である永和を用いて隴西において自立した。すると、多くの民がこれを歓迎し、李儼の下に集った。張玄靚・張瓘は李儼討伐の為に兵を挙げ、将軍牛覇を派遣した。だが、西平の人である衛綝が郡ごと反乱を起こし、進軍途上の牛覇を攻撃した。これにより、牛覇の軍は潰えてしまい、単騎逃げ帰った。その後、張瓘は弟の張琚に大軍を与えて衛綝を討たせ、これを破った。同時期、西平の人である田旋は酒泉郡太守馬基を擁立し、張瓘に背いて衛綝に呼応した。張瓘は彼らの反乱を知ると、司馬張姚・王国に兵2千を与えて討伐に向かわせた。張姚らは馬基を破り、馬基・田旋の首級を挙げて姑臧へ送った。
356年1月、前秦の征東大将軍・晋王苻柳が参軍閻負・梁殊を使者として前涼へ派遣し、張玄靚へ親書を渡した。閻負らは張瓘に接見すると、脅しをかけて前秦に降伏するよう説いた。張瓘は大いに恐れ、張玄靚に命じて前秦へ使者を派遣させ、藩国となる旨を告げさせた。これにより前涼は前秦の従属化に入り、張玄靚は前秦より爵位を授かった。
同年、右将軍宋熙は天亀観を取り壊して邸宅を為す事を請うたが、張玄靚は認めなかった。
張瓘・張琚の兄弟は強盛であり、自らの勲功・威勢に驕っていた。また、張瓘は猜疑心が強く苛虐な性格であり、賞罰はすべて自らの好みで行い、綱紀などなかった。その為、次第に人心は離れていった。輔国将軍宋混は忠硬な性格であったので、張瓘はその存在を恐れ、弟の宋澄ともども誅殺を目論み、遂には張玄靚を廃立して自ら王に即位しようと目論んだ。
359年6月、張瓘は宋混誅殺の為、兵数万を姑臧に集結させたが、宋混はこれを事前に察知し、宋澄と共に楊和を始めとした壮士40騎余りを率いて南城へ入ると、諸陣営へ向けて「張瓘が造反を企てた。太后の命によりこれを誅殺する」と宣言した。すると、すぐに2千余りの兵が集った。張瓘はこれを知ると、兵を率いて出撃したが、宋混はこれを破った。この時、乱戦の中で張瓘の将軍玄臚は宋混を刺したが、鎧を突き破る事が出来ず、宋混に捕らえられた。これにより、張瓘の部下は戦意喪失してみな降伏し、張瓘と弟の張琚は自殺した。宋混は彼らの一族をみな処刑すると、張玄靚へ入見した。張玄靚は宋混を使持節[4]・都督中外諸軍事・驃騎大将軍[5]・酒泉侯に任じ、張瓘に代わって輔政を委ねた。
宋混・宋澄の時代
宋混は輔政の任に就くと、涼王の称号を廃して涼州牧に戻すよう、張玄靚へ請願した。
361年4月、宋混は病に倒れた。張玄靚は馬氏と共に自ら彼の下へ詣でると「将軍に万一の不幸があれば、この寡婦と孤児は何を頼みとすべきか!林宗(宋混の子である宋林宗)に将軍を継がせたいと思うが、如何か」と問うた。宋混は「臣の子である林宗は幼弱であり、大任には耐えられません。もし殿下が臣の一門を見捨てておられないのでしたら、弟の澄は臣よりも政治の才能があります。但し、柔弱な所があるので、機事には向いておりません。その時は殿下が策励して彼を動かすとよいでしょう」と告げた。やがて亡くなると、張玄靚は遺言に従い、宋澄を領軍将軍に任じて輔政を委ねた。
9月、右司馬張邕は宋澄の専政を妬み、挙兵して宋澄を攻撃し、これを誅殺した。さらに、宋氏一族を誅滅した。張玄靚は張邕を中護軍に任じ、叔父の張天錫を中領軍に任じ、両者に輔政を委ねた。
張邕の時代
張邕は傲慢であり、淫らにして勝手気ままな人物であった。また、馬氏と密通し、徒党を組んで政治を専断し、多くの人を処刑したので、国人はこれを患った。その為、張天錫は腹心である郭増・劉粛・趙白駒と共謀し、張邕暗殺を目論んだ。
11月、張天錫は兵400を伴って入朝し、張邕もまた入朝した。劉粛・趙白駒は刀を鞘から出す準備をしながら張天錫に付き従った。門下において張邕と出くわすと、劉粛が張邕へ斬りかかったが、避けられた。趙白駒もこれに続いたが、失敗した。二人は諦めて張天錫と共に禁中へ入ったので、張邕は逃れる事が出来、反攻に転じると三百余りの兵を率いて宮門を攻撃した。だが、張天錫が屋へ登って張邕の罪を大声で喧伝すると、張邕の兵はみな逃散してしまった。張邕は自殺し、その一族郎党はみな誅殺された。張玄靚は張天錫を使持節・冠軍大将軍・都督中外諸軍事に任じ、輔政を委ねた。
張天錫の時代
12月、建興49年を改め、升平5年として東晋の年号を奉じた。東晋より詔が降り、張玄靚は大都督・隴右諸軍事・涼州刺史・護羌校尉・西平公となった。また、南州を改めて祁連郡とした。
363年8月、馬氏が亡くなった。張玄靚は母の郭氏を尊んで太妃に立てた。
張玄靚はまだ幼く、その性格は仁弱であった。その為、張邕が誅殺されて以降、張天錫が政治を専断していた。郭氏はこれを憎み、大臣張欽らと謀り、張天錫の誅殺を目論んだ。だが、この計画は事前に露見し、張欽らはみな誅殺された。張玄靚はこれを大いに恐れ、位を張天錫へ譲ろうとしたが、張天錫は受けなかった。
最期
同月、右将軍劉粛らは議して、張玄靚が幼沖であり国家は多難である事から、長君が立つべきであると述べ、張天錫へ自立を勧めた。張天錫はこれに同意し、劉粛らに兵を与えて夜のうちに入宮させると、張玄靚を殺害させた。その後、張天錫は張玄靚が急死したと宣言し、張天錫自らが即位した。張玄靚は平陵に葬られ、沖公[6]と諡された。享年14、在位9年であった。東晋の孝武帝より敬悼公と諡された。
怪異譚
- 357年5月、東苑にある丘で突然地面が陥没し、沢となった。また、数丈に渡って火事が発生した。6月、大風が起こり、雷鳴が轟き、辺りが暗闇に包まれた。宮中では水害が発生し、深さ4尺にも及んだ。執法御史杜逸は張瓘へ「こられの変はみなただ事ではありません。お祓いをすべきです」と勧めた。
- 359年6月、大雨が降り、雷鳴が轟き、辺りが暗闇に包まれた。平地では水害により水深6尺に達し、宮中でも4尺に達した。
宗室
父母
兄弟
- 兄:張耀霊
伯父・叔父
年号
元号は当初は西晋のものである建興を使用していたが、361年から東晋の元号である升平を用いた。