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[[359年]]6月、輔国将軍宋混は忠硬な性格であったので、張瓘はその存在を恐れて誅殺を目論んだが、宋混はこれを事前に察知し、2千余りの兵を従えて挙兵した。張瓘は兵を率いて出撃したが、宋混はこれを破ると、張瓘の部下は戦意喪失してみな降伏し、張瓘と弟の張琚は自殺した。宋混は彼らの一族をみな処刑すると、張玄靚へ入見した。張玄靚は宋混を使持節<ref>『晋書』には仮節とある</ref>・都督中外諸軍事・驃騎大将軍<ref>『晋書』には車騎大将軍とある</ref>・酒泉侯に任じ、張瓘に代わって輔政を委ねた。[[361年]]4月、宋混は病に倒れてやがて亡くなると、弟の宋澄が代わって輔政の任に就いた。 |
[[359年]]6月、輔国将軍宋混は忠硬な性格であったので、張瓘はその存在を恐れて誅殺を目論んだが、宋混はこれを事前に察知し、2千余りの兵を従えて挙兵した。張瓘は兵を率いて出撃したが、宋混はこれを破ると、張瓘の部下は戦意喪失してみな降伏し、張瓘と弟の張琚は自殺した。宋混は彼らの一族をみな処刑すると、張玄靚へ入見した。張玄靚は宋混を使持節<ref>『晋書』には仮節とある</ref>・都督中外諸軍事・驃騎大将軍<ref>『晋書』には車騎大将軍とある</ref>・酒泉侯に任じ、張瓘に代わって輔政を委ねた。[[361年]]4月、宋混は病に倒れてやがて亡くなると、弟の宋澄が代わって輔政の任に就いた。 |
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9月、右司馬[[張邕]]は宋澄の専政を妬み、挙兵して宋澄を誅殺し、宋氏一族を誅滅した。張玄靚は張邕と叔父の[[張天錫]]に輔政を委ねた。張邕は傲慢であり、淫らにして勝手気ままな人物であった。また、馬氏と密通し、徒党を組んで政治を専断し、多くの人を処刑したので、国人はこれを患った。その為、張天錫は腹心である[[郭増]]・[[劉粛]]・[[趙白駒]]と共謀し、張邕暗殺を目論んだ。 |
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11月、張天錫は兵400を伴って入朝すると、張邕を暗殺しようとしたが失敗した。その為、張邕は反攻に転じると三百余りの兵を率いて宮門を攻撃したが、張天錫が屋へ登って張邕の罪を大声で喧伝すると、張邕の兵はみな逃散してしまった。張邕は自殺し、その一族郎党はみな誅殺された。張玄靚は張天錫を使持節・冠軍大将軍・都督中外諸軍事に任じ、輔政を委ねた。張玄靚はまだ幼くその性格は仁弱であったので、張邕が誅殺されて以降は張天錫が政治を専断するようになった。 |
11月、張天錫は兵400を伴って入朝すると、張邕を暗殺しようとしたが失敗した。その為、張邕は反攻に転じると三百余りの兵を率いて宮門を攻撃したが、張天錫が屋へ登って張邕の罪を大声で喧伝すると、張邕の兵はみな逃散してしまった。張邕は自殺し、その一族郎党はみな誅殺された。張玄靚は張天錫を使持節・冠軍大将軍・都督中外諸軍事に任じ、輔政を委ねた。張玄靚はまだ幼くその性格は仁弱であったので、張邕が誅殺されて以降は張天錫が政治を専断するようになった。 |
2020年8月17日 (月) 07:32時点における版
前涼(ぜんりょう、拼音:Qiánliáng、301年 - 376年)は、中国の五胡十六国時代に漢族の張軌によって建てられた国。建国年については諸説ある(詳細は後述)。同時代に涼を国号とする国が複数あるため、最初期に建てられたこの国を前涼と呼んで区別している。
歴史
建国期
張軌の時代
前涼の創建者張軌は涼州においては名門の家柄であった。その家系は代々孝廉に推挙され、儒学を専攻していたことで著名であり、張軌自身もまたその才能と人望で世間の評判であった。10歳の時に叔父の官位を継いで洛陽へ入ると、やがて太子舎人・散騎常侍など役職を歴任し、朝廷の権力者張華からもその見識を高く評価された。
八王の乱により洛陽が乱れると、張軌は難を避けて涼州に帰ろうと考え、朝廷へ上表して涼州刺史の地位を求めた。彼は公卿大臣からも高評価を得ていたので、301年にこの要求は認められ、涼州刺史・護羌校尉に任じられ、姑臧に赴任した。
当時、涼州では鮮卑の反乱により強盗略奪行為が横行していたが、張軌は着任するとすぐさまこれらの討伐に当たり、その威名は涼州に轟いた。
また、地元の豪族である宋配・陰充・氾瑗・陰澹らを左右の謀主として抜擢し、涼州9郡の貴族の子弟5百人らを迎え入れるなどし、地位の安定に努めた。また、学校設立を積極的に推し進め、一般の者からも広く人材を抜擢するなど、政務に力を注いだ。また、絹布を基準として銭と交易する制度を定め、銭は大いに流通し、涼州の民はその恩恵を被った。さらに、治所である姑臧城を大規模に改修している。
304年、河間王司馬顒・成都王司馬穎らの専横により洛陽が乱れると、張軌は3千の兵を洛陽へ派遣して恵帝の護衛に当たらせた。
305年6月、隴西郡太守韓稚が秦州刺史張輔を殺害して乱を為すと、張軌は中督護軍氾瑗に討伐を命じ、同時に使者を派遣して韓稚に降伏を諭すと、韓稚は降伏を受け入れた[1]。同年、司馬宋配を派遣して鮮卑の若羅抜能の反乱を鎮圧した。これらにより張軌の威徳はさらに知れ渡った。
この時期、張軌は安西将軍・安楽郷侯に任じられ、食邑千戸を加えられた。
308年2月、張軌は中風を患って会話が不自由となったので、息子の張茂に州事を代行させるようになった。
涼州の豪族である張越は密かに張軌から刺史の地位を奪い取ろうと謀り、兄の酒泉郡太守張鎮・尚書侍郎曹祛と共に水面下で画策した。そして、長安や洛陽へ使者を派遣し、張軌が重病であることを訴えて新しい涼州刺史を派遣するよう上表すると共に、張軌の免官を呼びかける旨の檄文を各郡へ送った。だが。張軌の長史王融・参軍孟暢らは逆に張越らの討伐を呼びかける檄文を近隣の地に回し、さらに張軌は長子の中督護張寔に張越らの討伐を命じた。張寔は南進すると曹祛を敗走させ、張鎮は降伏して張寔に謝罪した。
朝廷は張越らの上表を認めようとしていたが、長安を鎮守する南陽王司馬模や武威郡太守張琠らは張軌が貶められていると訴え、刺史交代を思いとどまるよう請願した。懐帝はこれらを認め、詔を下して張軌を慰労すると共に、曹祛らの討伐を命じた。張軌はこの詔書を受け取ると、州内に大赦を下すと共に、張寔に尹員・宋配らを率いさせて再び曹祛討伐を命じた。張寔は破羌において曹祛と交戦すると、これを破って曹祛を討ち取った。曹祛戦死を知った張越は大いに恐れて逃走し、涼州の騒動は鎮まった。
308年4月、趙・魏の地を荒らしまわっていた王弥が洛陽へ襲来すると、張軌は北宮純・張纂・馬魴・陰濬らに洛陽救援を命じた。北宮純らは涼州軍を率いて王弥を撃破し、さらに河東に進出してきた漢(前趙)の撫軍将軍劉聡を破った。洛陽では彼らは救国の英雄として称えられ、懐帝もまた張軌の忠誠を称賛した。
当時、中国は全国各地で乱が発生しており、諸侯の多くは朝廷の命を軽んじていたが、張軌はしばしば使者を派遣して朝貢を行い、兵士・租税・武具・土地の名産品などを朝廷へ送り届けたので、大いに称賛を受けた。また、漢軍の攻勢により洛陽の物資・食糧が不足すると、即座に朝廷へ馬5百匹・布3万匹を献上するなど、貢献を絶やす事はなかった。彼は生涯に渡って晋朝には忠義を尽くしていた。
310年11月、漢の軍勢が洛陽に襲来すると、張軌は再び北宮純・張斐・郭敷らに精鋭5千を与えて洛陽を救援させた。だが、洛陽は持ちこたえられず陥落し、懐帝を始め皇室・官吏も捕虜となってしまった。これにより、河南から涼州へ避難する者が相次ぐようになったので、張軌は武威郡を分割して武興郡を置き、さらに西平郡を分けて晋興郡を置き、避難民を居住させた。
312年9月、宋配・左督護陰預を派遣して対抗勢力の秦州刺史裴苞を討ち、張寔を派遣して西平で乱を為していた王淑・麹儒らを誅殺した。
313年、懐帝が殺害されると、長安を守る秦王司馬鄴(後の愍帝)がその位を継いだ。漢の中山王劉曜が北地を侵略して長安に迫ると、張軌は参軍麹陶を派遣して長安を防衛させた。
314年2月、愍帝より詔が下り、西平郡公に封じられた。この時期、既に老齢に差し掛かっていた事から、子の張寔を副刺史に任じた。
5月、張軌は病に倒れ、間もなく亡くなった。子の張寔が後を継いだ。
張寔の時代
10月、愍帝より詔が下り、持節・都督涼州諸軍事・西中郎将・涼州刺史・領護羌校尉に任じられ、西平公に封じられ、父を継ぐことを認められた。
315年10月、前涼国内において『皇帝行璽』と刻まれた印璽が見つかり、群臣はみな張寔が皇帝に昇る兆しとして喜んだが、張寔は臣下の持つ物ではないとして、愍帝の下へ送り届けた。
316年4月、張寔は国中に命を下し、官吏・百姓の中で張寔自身の過失を指摘した者に布絹・羊・筐篚・穀物を与えると宣言した。
同年、張寔は督護王該を長安へ派遣し、地方の珍品・名馬・経史・書物といった諸郡の貢物を献上した。8月、漢(前趙)の中山公劉曜が長安に襲来すると、張寔は救援の為に再び王該を派遣した。愍帝は張寔の忠誠を称賛し、都督陝西諸軍事に任じた。
この時、度重なる劉曜軍の侵攻により長安は完全に孤立しており、食料不足となった長安では人同士が食らい合い、多くの死者が出る有様であった。11月、愍帝は遂に前趙に降伏すると、その前夜に前涼へ使者を派遣して詔書を届けさせ、琅邪王司馬睿を助けて共に国難に立ち向かうよう張寔へ告げた。
317年1月、張寔は前趙征伐の兵を興し、太府司馬韓璞・滅寇将軍田斉・撫戎将軍張閬・前鋒督護陰預に歩騎1万を率いさせ、東へ派遣した。韓璞は南安にまで軍を進めたが、諸々の羌族により進路を阻まれ、百日余りに渡って対峙した。張閬が救援に到来すると、挟撃して敵軍を大破したが、これ以上進軍を継続出来る状態では無く、やむなく引き返した。
愍帝が崩御したという報が届くと、張寔は天下に檄文を送って司馬睿を天子に推戴するよう呼びかけ、さらに建康へ使者を派遣し、司馬睿へ尊位に即くよう勧めた。司馬睿は同年の内に即位して大興と改元したが、張寔は引き続き西晋の年号である建興を用い、東晋の年号を奉じなかった。その意図は不明であるが、東晋への従属を拒んで自立を宣言する行為とも取れる。
319年1月、上邽に割拠する南陽王司馬保は晋王を自称して自立し、さらに前涼へ使者を派遣して張寔を征西大将軍・儀同三司に任じた。318年頃より司馬保は安定郡太守焦嵩・討虜将軍陳安らと対立し、幾度も攻撃を受けるようになり、張寔は軽車将軍竇濤・韓璞・宋毅らに幾度も救援させていた。司馬保は前趙からも攻撃を受けると、進退窮まって張寔のいる涼州へ逃走しようとした。だが、張寔は宗室の中でも声望がある司馬保を迎え入れる事で、人心が自分から移ってしまうことを恐れ、配下の陰鑒(陰澹の弟)を派遣して司馬保の到来を阻んだ。間もなく司馬保が亡くなると、彼の配下の者はみな逃走し、涼州に身を寄せる者が1万人余りに及んだ。
320年、天梯山に住む劉弘は邪道の術に長け、庶民を惑わして千人余りの信者を集めており、張寔の周囲にも彼を崇拝する者がいた。劉弘は自らの信者である帳下閻渉・牙門の趙卬と結託し、張寔を殺して自ら君主になろうとした。閻渉らは凶器を懐に隠して張寔の屋敷に侵入すると、張寔は就寝中に襲撃を受けて殺害された。張寔の子である張駿はまだ幼かったので、弟の張茂が後を継いで平西将軍・涼州牧の任を受けた。張茂は劉弘を姑臧城の市街に引きずり出して車裂きの刑に処し、張寔殺害の実行犯である閻渉及びその徒党数百人余りを誅殺した。
張茂の時代
322年12月、張茂は韓璞を派遣して隴西・南安を攻略し、秦州を設置した[2]。
323年8月、前趙の皇帝劉曜が28万の兵を率いて涼州へ襲来し、将軍劉咸が冀城の韓璞を攻撃し、呼延寔が桑壁の寧羌護軍陰鑒を攻撃した。さらに、自らは2河上に駐軍して百里余りに及ぶ陣を築いた。これにより、張茂が配置した黄河沿いの守備兵は恐れ慄き、潰走してしまった。さらに、翟楷・石琮らは県令を追放して県城ごと劉曜に呼応したので、河西は大いに震撼した。張茂は自ら出兵して石頭に拠り、参軍陳珍を平虜将軍に任じて韓璞の救援に向かわせた。陳珍は氐・羌の衆を徴発して劉曜に対峙すると、これを撃破して南安を奪還した。その後、張茂は劉曜へ使者を送り、自ら劉曜の臣下と称して馬・牛・羊や珍宝を献上した。これにより、劉曜は軍を撤退させ、張茂を侍中・都督涼南北秦梁益巴漢隴右西域雑夷匈奴諸軍事・太師・涼州牧に任じ、さらに涼王に封じ、九錫を与えた[3]。こうして名目上は前趙の藩国となった。
涼州の豪族賈模は張寔の妻の弟に当たり、西土を圧倒する程の権勢を有していた。その為、張茂は彼を招き寄せて誅殺した。これにより、権勢を持つ豪族は声を潜めて隠居するようになり、張茂の威厳は涼州に広く行き渡るようになった。
324年5月、張茂は病に倒れ、間もなくこの世を去った。張駿が後を継いだ。
全盛期
張駿の時代
張駿は使持節・大都督・大将軍・涼州牧・領護羌校尉・西平公となり、領内に大赦を下した。前趙から使者が到来し、張駿を上大将軍・涼州牧・涼王に任じた。前涼は前趙に従属してはいたものの、引き続き西晋の元号である建興12年(西晋自体は建興5年に崩壊している)を称し、さらに東晋とも関係を保っていた。
324年12月、枹罕を統治していた辛晏は張駿に従うのを拒み、枹罕ごと反旗を翻したが、翌年2月には降伏した。
326年12月、前趙の襲来を恐れ、将軍宋輯・魏纂に将兵を率いさせて隴西・南安の民2千家余りを姑臧に移した。また、成漢と修好を結ぶ為に使者を成都へ派遣し、これ以降も使者を往来させるようになった。また、333年には成漢の藩国を称している。
327年5月、前趙が後趙に大敗したとの報が入ると、張駿は前趙より受けた官爵を廃し、武威郡太守竇濤・金城郡太守張閬・武興郡太守辛岩・揚烈将軍宋輯・韓璞らに前趙の秦州諸郡を攻略するよう命じた。劉曜は子の南陽王劉胤を派遣して迎撃を命じ、狄道城に駐屯させた。7月、韓璞・辛岩は沃干嶺において劉胤と対峙した。10月、70日余りに渡って対峙するうちに軍糧が底を尽き、韓璞は辛岩を派遣して金城から食糧を輸送させようとした。劉胤は冠軍将軍呼延那奚に兵三千を与えて糧道を絶たせ、劉胤自らは騎兵3千率いて沃干嶺を襲撃して辛岩を破った。さらに韓璞の陣営に逼迫すると、韓璞軍は潰走してしまった。劉胤は勝ちに乗じて追撃し、河を渡ると令居を攻略し、さらに振武まで進出した。河西の民は大いに動揺し、張閬・辛晏は数万の兵を従えて前趙に降伏した。こうして張駿は河南の地を失陥した。
330年5月、前趙が滅亡すると、張駿は軍を派遣して再び河南の地を支配下に入れ、狄道まで至った所で武街・石門・候和・漒川・甘松に五屯護軍を置き、後趙との国境とした。6月、後趙が鴻臚孟毅を派遣し、張駿を征西大将軍・涼州牧に任じ、九錫[4]を加えた。張駿は長史馬詵を使者として入貢させ、後趙の臣を称した。
333年、東晋へ使者を派遣し表を奉じた。東晋からもまた使者が到来するようになり、張駿は東晋の臣を称したものの、未だに西晋の元号を継続し、その統治には服さなかった。334年2月、東晋朝廷は張駿を大将軍・都督陝西雍秦涼州諸軍事に任じる印綬を授けた。この時期、梁州・涼州の交通が開けるようになったので、前涼は毎年東晋朝廷へ使者を送るようになった。
335年12月、張駿は西胡校尉・沙州刺史楊宣に兵を与えて西域へ派遣し、流沙を越えて亀茲・鄯善を討伐させた。配下の将軍張植が軍の前峰となって進軍すると、向かうところの国々はみな降伏し、姑臧へ朝貢するようになった。12月、鄯善王元孟[5]が娘を献上してくると、これを美人と称し、賓遐観を建てて住まわせた。また、焉耆・車師前部・于闐王は共に使者を派遣して方物を貢いできた。
339年10月、右長史任処を領国子祭酒[6]に任じ、辟雍・明堂を建立させ、礼を行わせた。
340年10月、後趙君主石虎は前涼へ軍を侵攻させると、張駿は将軍謝艾に迎撃を命じた。謝艾は出撃すると河西において大戦を繰り広げ、後趙軍を撃破した。
345年12月、西域にある焉耆へ侵攻し、これを降した。
この年[7]、張駿は武威を始めとした11郡[8]をもって涼州とし、興晋を始めとする8郡[9]をもって河州[10]とし、敦煌を始めとする3郡[11]と西域都護・戊己校尉・玉門大護軍の3営をもって沙州とした。張駿自身は大都督・大将軍・仮涼王・督摂三州と称し、車服・旌旗は全て君王を模した様式とした。百官を設置すると、官号や府邸もまた君王に擬し、名称だけは区别した。始めて祭酒・郎中・大夫・舎人・謁者などの官を置き、官僚はみな張駿に対して臣を名乗った。
346年5月、張駿は病に罹り、やがてこの世を去った。
張重華の時代
6月、群臣は張重華に後を継がせ、使持節・大都督・大将軍・太尉・護羌校尉・涼州牧・西平公・仮涼王を称させた。張重華は領内に大赦を下した。貧窮な者を憐れみ、租税を軽減し、関税を除き、園囿を省いた。さらに、後趙君主石虎に使者を派遣して表を奉じ、従属する姿勢を示した。
同年、張駿の死を好機と見た石虎は、涼州刺史麻秋・将軍王擢・孫伏都らを前涼へ侵攻させた。王擢は武街を攻略して護軍曹権・胡宣を捕らえ、七千家を超える民を雍州へ強制移住させた。さらに、麻秋・孫伏都は金城を攻略し、太守張沖を降伏させた。涼州は大混乱に陥り、前涼の民は恐怖におののいた。張重華は国内の兵を総動員し、征南将軍裴恒を総大将にして後趙軍を迎撃させた。裴恒は出撃すると、広武まで進んで砦を築いたものの、敵の勢いを恐れて戦おうとしなかった。
張重華は主簿謝艾を中堅将軍に任じ、五千の兵卒を与えて麻秋の迎撃を命じた。謝艾が兵を率いて振武から出陣すると、迎え撃って来た後趙軍を散々に打ち破り、将軍綦毋安を始めとして五千を超える首級を挙げた。これにより後趙軍は退却した。
その後、金城・大夏は再び麻秋の攻略を受けて陥落した。
347年4月、麻秋が8万の兵を率いて枹罕へ襲来すると、守将である寧戎校尉常據は城を固守した。麻秋は幾重にも城を包囲し、雲梯を揃えて地下道を掘り、四方八方から同時に攻めたが、城中の将兵はこれをうまく御し、麻秋軍数万を討ち取った。
石虎は将軍劉渾に2万の兵を与え、麻秋の援軍として派遣した。晋昌郡太守郎坦は後趙に寝返ろうと目論み、麻秋と内通して後趙兵千人余りを城の西北の一角へ引き入れた。常據は諸将を指揮してこれを拒み、白兵戦を繰り広げて敵軍を退却させた。さらに、攻城戦の道具も焼き払い、後趙軍を大夏まで退却させた。
石虎は征西将軍石寧に并州・司州の兵2万余りを与えて麻秋の後続とし、前涼征伐を継続させた。これを聞くと、前涼の将軍宋秦は2万戸を率いて降伏した。張重華は謝艾を使持節・軍師将軍に任じ、3万の兵を与えて臨河まで進軍させた。麻秋は3千の精鋭兵に命じて突撃させたが、謝艾は別将張瑁を別道から麻秋軍の背後へ回り込ませ、奇襲を仕掛けた。これにより軍は混乱して後退し、謝艾は勢いに乗って麻秋軍を大いに破り、杜勲・汲魚の2将を討ち取って1万3千の兵を捕らえた。麻秋自身は単騎で大夏まで逃げ帰った。
5月、麻秋・石寧らが再び襲来し、12万の軍勢で河南へ駐屯した。劉寧・王擢は晋興・広武・武街を攻略し、洪池嶺を越えて曲柳まで進撃した。張重華は将軍牛旋に迎撃を命じたが、牛旋は枹罕まで退いて交戦しようとしなかったので、姑臧の民は大いに動揺した。張重華は謝艾を使持節・都督征討諸軍事・行衛将軍に、索遐を軍正将軍に任じ、2万の軍勢を与えて敵軍を防がせた。謝艾らは出撃すると敵軍の侵攻を阻み、その間に別将の楊康が沙阜において劉寧を撃破し、金城まで退却させた。
7月、石虎は孫伏都・劉渾の両将に2万の兵を与え、麻秋と合流させた。麻秋らは進軍して河を渡ると、金城の北へ長最城を築いた。謝艾は神鳥に陣を布くと、迎え撃って来た王擢を打ち破り、敵軍を河南まで押し返した。8月、謝艾はさらに進撃して麻秋と交戦し、これを撃破した。遂に麻秋は金城まで撤退した。その後、斯骨真が1万を超える集落を従えて反乱を起こすと、謝艾は姑臧へ帰還する途上であったが、すぐさま討伐に向かった。そして尽くを平定すると、千人余りを斬首して2千8百の兵を捕えた。また、牛・羊併せて10万頭余りを奪った。
9月、麻秋はまたも前涼へ侵攻すると、将軍張瑁を撃破し、3千人余りの首級を挙げた。枹罕護軍李逵は大いに恐れ、7千の兵を従えて麻秋に降伏した。これにより、黄河以南の氐族・羌族は尽く後趙の傘下に入った。
10月、東晋の侍御史兪帰が涼州へ到来し、張重華を侍中・大都督・隴右関中諸軍事・大将軍・涼州刺史[12]に任じ、西平公に封じる旨を告げた。これにより、張重華の官爵は自称ではなく、正式なものとなった。だが、張重華は涼王の爵位を望んでおり、兪帰が姑臧へ到着した折に詔を貰うよう要請したが、認められなかった。
348年、張重華は強敵を立て続けに破ったことから、次第に政務を怠るようになり、賓客に接することも少なくなった。張重華はしばしば左右の寵臣へ銭帛を下賜し、また群小なる者との賭博や遊戯を好んだ。これにより、政治は荒廃するようになった。
352年11月[13]、後趙の西中郎将王擢は隴上に屯していたが、前秦の丞相苻雄に敗れたので、衆を率いて前涼に亡命してきた。張重華は彼を甚だ厚遇し、征虜将軍・秦州刺史に任じて仮節を与えた。
353年2月[14]、張弘・宋脩に歩騎1万5千を与えて王擢に合流させ、共に前秦を討伐させた。苻雄・衛大将軍苻菁が龍黎においてこれを迎え撃ち、前涼軍は大敗を喫して1万2千を失い、張弘・宋脩は捕らえられて長安へ送られた。王擢は秦州を放棄して姑臧に撤退した。5月、張重華はまた王擢に2万の兵を与え、前秦領の上邽へ侵攻させた。秦州の郡県は多くが王擢に呼応し、王擢は苻願を撃破して長安まで撤退させた。
その後、張重華は東晋へ使者を派遣して戦勝報告を行った。7月、東晋より使者が到来し、張重華を涼州牧に任じた。
10月、張重華は病を患うようになると、当時まだ10歳であった子の張耀霊を世子に立て、領内へ大赦を下した。
張重華の庶兄である長寧侯張祚は、武芸に秀でて政治の才能を有していたが、密かに国を乱そうと考えていた。その為、張重華の寵臣であった趙長・尉緝らと結びつきを強め、異性兄弟となった。都尉常據は張祚を危険視して朝廷の外へ出すよう勧めたが、張重華は激怒して取り合わなかった[15]。
また、張重華は功臣である謝艾を寵遇していたが、側近はこれを疎ましく思って讒言を繰り返したので、張重華は彼を酒泉郡太守に左遷してしまった。謝艾は張重華へ上疎し「長寧侯祚と趙長らは将に乱を為すでしょう。これを放逐すべきです」と述べたが、聞き入れられなかった。
11月、張重華の病はさらに篤くなった。張重華は謝艾を呼び戻そうと思い、衛将軍・監中外諸軍事に任じて張耀霊の輔政を命じる勅書を自ら書いたが、張祚・趙長がこれを秘匿して発表しなかった。間もなく張重華は平章殿においてこの世を去った。張耀霊が後を継ぎ、大司馬・大将軍・護羌校尉・涼州刺史・涼州牧・西平公を称した。趙長らは張重華の遺詔を捏造し、張祚を使持節[16]・都督中外諸軍事・撫軍大将軍[17]に任じて、張耀霊の輔政を委ねた。
内訌・衰退期
張祚の時代
12月、右長史趙長らは、幼い張耀霊に代わって張祚を立てる事を建議した。張重華の母である馬氏はこれを認め、張耀霊は廃されて涼寧侯に降格となり、代わって張祚が大都督・大将軍・涼州牧・涼公となった。
張祚は即位して以降、淫暴となって道徳にも従わなくなり、閤内にいる媵・妾や、張駿・張重華の子女で嫁いでいない者を尽く犯したという。
354年1月、尉緝・趙長らの勧めに従い、謙光殿において王位[18]に即いた。百官を配置し、年号を建興42年から和平元年と改元した。文武百官には爵一級を加え、歴代君主に王号を追諡し、子の張泰和を太子に立てた。また、功臣である謝艾を殺害した。尚書馬岌は王位に即く事に反対して固く諫めると、張祚は彼を処罰して罷免した。さらに郎中丁其が諫言すると、激怒して斬り殺した。
同年、将軍和昊に兵を与えて南山に割拠する驪靬戎の討伐を命じたが、和昊は大敗して帰還した。
3月、東晋の太尉桓温が前秦へ侵攻すると、張祚は桓温が前涼まで襲来するのではないかと恐れ、敦煌に遷都しようと考えた。だが、桓温が撤退した事により取りやめた。また王擢が桓温に協力して反抗するのではないかと憂慮し、密かに人を派遣して王擢を暗殺させようとしたが、事前に発覚してしまい失敗した。10月、平東将軍秦州刺史牛覇・司兵張芳に兵3千を与えて王擢を討伐させた。11月、牛覇らはこれを破り、王擢を前秦へ敗走させた。
355年7月、河州刺史張瓘は枹罕において強大な兵力を有しており、張祚はこれを疎ましく思っていた。その為、枹罕の守備を張掖郡太守索孚に交代するよう命じ、側近の将軍易揣・張玲には密かに張瓘討伐を命じた。張瓘はこれを察知すると、索孚を殺害して張祚討伐の兵を挙げ、州郡に檄を飛ばして張耀霊の復位を呼びかけた。この時、易揣・張玲の軍は河を渡り始めていたが、張瓘は頃合いを見計らって奇襲し、これを撃ち破った。易揣らは単騎で逃亡を図ったが、張瓘は追撃を仕掛けた。この事実が姑臧に届くと、城内は大混乱に陥った。
8月、驃騎将軍宋混は1万人余りの兵を纏め上げると、張瓘に呼応して姑臧へ進軍した。張瓘らが張耀霊の復位を掲げている事を知ると、張祚は配下の楊秋胡を派遣して張耀霊を殺害させた。9月、宋混が姑臧に逼迫すると、張瓘の弟である張琚と子の張嵩は数百人をかき集め、城内から宋混に呼応した。これにより張祚の衆は四散してしまい、張琚らは城門を開いて宋混軍を迎え入れた。張祚の側近であった領軍将軍趙長・張璹らは禍を恐れて宋混側に寝返り、張祚を廃して張玄靚を主に立てると宣言し、罪を免れようとした。宋混らが入殿を果たすと、張祚は万秋閣へ逃れようとしたが、厨士徐黒により殺された。宋混らは張祚を晒し首にして内外に示し、その屍を道端に曝した。趙長らもまた兵を率いて入殿してきた将軍易揣らに殺害された。張祚は庶人の礼で葬られ、2人の子も処刑された。
張玄靚の時代
宋混・張琚らは張玄靚を正式に君主に立て、和平の元号を廃してまた西晋の元号である建興43年と号した。その後、張瓘が姑臧に到着すると、張玄靚を推戴して使持節・大都督・大将軍・涼王とし、自らは衛将軍・使持節・都督中外諸軍事・尚書令・涼州牧・張掖公・行大将軍事となり、また宋混を尚書僕射として役人の任官・免官を委ねた。
同月、隴西の人である李儼は張玄靚や張瓘の命に従わず、豪族の彭姚を殺害すると、東晋の元号である永和を用いて隴西において自立した。すると、多くの民がこれを歓迎し、李儼の下に集った。張玄靚・張瓘は李儼討伐の為に兵を挙げ、将軍牛覇を派遣した。だが、西平の人である衛綝が郡ごと反乱を起こし、進軍途上の牛覇を攻撃した。これにより、牛覇の軍は潰えてしまい、単騎逃げ帰った。その後、張瓘は弟の張琚に大軍を与えて衛綝を討たせ、これを破った。同時期、西平の人である田旋は酒泉郡太守馬基を擁立し、張瓘に背いて衛綝に呼応した。張瓘は彼らの反乱を知ると、司馬張姚・王国に兵2千を与えて討伐に向かわせた。張姚らは馬基を破り、馬基・田旋の首級を挙げて姑臧へ送った。
356年1月、前秦の征東大将軍・晋王苻柳が参軍閻負・梁殊を使者として前涼へ派遣し、脅しをかけて降伏するよう説いた。張瓘は大いに恐れ、張玄靚に命じて前秦へ使者を派遣させ、藩国となる旨を告げさせた。これにより前涼は前秦の従属化に入り、張玄靚は前秦より爵位を授かった。
張瓘は猜疑心が強く苛虐な性格であり、賞罰はすべて自らの好みで行い、綱紀などなかった。その為、次第に人心は離れていった。また、彼は張玄靚を廃立して自ら王に即位しようと目論んでいたという。
359年6月、輔国将軍宋混は忠硬な性格であったので、張瓘はその存在を恐れて誅殺を目論んだが、宋混はこれを事前に察知し、2千余りの兵を従えて挙兵した。張瓘は兵を率いて出撃したが、宋混はこれを破ると、張瓘の部下は戦意喪失してみな降伏し、張瓘と弟の張琚は自殺した。宋混は彼らの一族をみな処刑すると、張玄靚へ入見した。張玄靚は宋混を使持節[19]・都督中外諸軍事・驃騎大将軍[20]・酒泉侯に任じ、張瓘に代わって輔政を委ねた。361年4月、宋混は病に倒れてやがて亡くなると、弟の宋澄が代わって輔政の任に就いた。
9月、右司馬張邕は宋澄の専政を妬み、挙兵して宋澄を誅殺し、宋氏一族を誅滅した。張玄靚は張邕と叔父の張天錫に輔政を委ねた。張邕は傲慢であり、淫らにして勝手気ままな人物であった。また、馬氏と密通し、徒党を組んで政治を専断し、多くの人を処刑したので、国人はこれを患った。その為、張天錫は腹心である郭増・劉粛・趙白駒と共謀し、張邕暗殺を目論んだ。
11月、張天錫は兵400を伴って入朝すると、張邕を暗殺しようとしたが失敗した。その為、張邕は反攻に転じると三百余りの兵を率いて宮門を攻撃したが、張天錫が屋へ登って張邕の罪を大声で喧伝すると、張邕の兵はみな逃散してしまった。張邕は自殺し、その一族郎党はみな誅殺された。張玄靚は張天錫を使持節・冠軍大将軍・都督中外諸軍事に任じ、輔政を委ねた。張玄靚はまだ幼くその性格は仁弱であったので、張邕が誅殺されて以降は張天錫が政治を専断するようになった。
12月、建興49年を改め、升平5年として東晋の年号を奉じた。東晋より詔が降り、張玄靚は大都督・隴右諸軍事・涼州刺史・護羌校尉・西平公となった。
363年8月、張玄靚の母である郭氏は張天錫の専横を憎み、大臣張欽らと謀って張天錫の誅殺を目論んだ。だが、この計画は事前に露見し、張欽らはみな誅殺された。同月、右将軍劉粛らが張天錫へ自立を勧めると、張天錫はこれに同意し、劉粛らに兵を与えて夜のうちに入宮させると、張玄靚を殺害させた。その後、張天錫は張玄靚が急死したと宣言し、張天錫自らが即位した。
滅亡期
張天錫の時代
張天錫は自ら使持節・大都督・大将軍・護羌校尉・涼州牧・西平公・涼王[21]を号し、東晋に使者を派遣してその命を請うた。364年2月[22]、東晋より詔が下り、張天錫は大将軍・大都督・隴右関中諸軍事・護羌校尉・涼州刺史に任じられ、西平公に封じられた。6月、前秦君主苻堅は大鴻臚を使者として前涼に派遣し、張天錫は大将軍・涼州牧・西平公に任じられた。366年10月、張天錫は前秦へ使者を派遣し、国交の断絶を通達した。
張天錫は即位して以降、音楽や酒・女に溺れて政治を省みる事が無かった。また、驕り昂って夜遅くまで遊び惚けていた。
365年1月、張天錫は元日にも関わらず、寵臣とだらしなく飲み騒ぎ、群臣からの朝賀を受けなかった。また、永訓宮に留まって朝廷にも顔を出す事がなかった。從事中郎張慮は棺を担いで決死を覚悟してその振る舞いを諫め、朝政を観るように請うたが、張天錫は従わなかった。少府長史紀瑞もまた上疏し、その時政について諫めたが、張天錫は聞き入れなかった。
367年3月、張天錫は隴西に割拠する李儼討伐の兵を挙げると、前将軍楊遹を金城に進ませ、征東将軍常據を左南に進ませ、游撃将軍張統を白土に進ませ、張天錫自らは3万を率いて倉松に拠った。
4月、張天錫は大夏・武始の2郡を攻略し、さらに常據は葵谷において李儼軍を撃破した。張天錫はさらに軍を進めて左南に駐屯すると、李儼は恐れて枹罕まで後退すると、前秦へ使者を派遣して救援を請うた。苻堅は前将軍楊安・輔国将軍王猛に李儼救援を命じた。王猛・楊安が枹罕へ進むと、楊遹は大敗を喫して1万7千の兵を失った。その後、枹罕城下において張天錫は王猛と睨み合いの状態となった。王猛は張天錫へ書簡を送って撤退を勧めると、張天錫はこれに応じて軍を撤退させた。その後、王猛は李儼を捕らえて枹罕を陥落させた。当時、前秦は強盛であり、これ以降も毎年のように侵攻を受けて、兵を動かさない年はなかったという。
370年、東晋より再び使者が到来し、張天錫は都督隴右関中諸軍事・大将軍・涼州牧に任じられ、西平公に封じられた。
371年4月、苻堅は以前捕らえていた陰拠と兵士5千を前涼に返還し、梁殊・閻負に送らせた。この時、王猛は張天錫へ書を送って威圧し、前秦の傘下に入るよう仕向けた。この書を見た張天錫は大いに恐れ、苻堅に謝罪して称藩を告げる使者を派遣した。苻堅はこれを認め、張天錫を使持節・都督河右諸軍事・驃騎大将軍・開府儀同三司・涼州刺史に任じ、西平公に封じた。
12月、張天錫は苻堅が前涼征伐に来るのではないかと疑い、東晋へ使者を派遣して大司馬桓温に書を献じ、372年の夏[23]に上邽に集結して共に前秦を討つ事を誓い合った。
373年1月、世子の張大懐を廃嫡して高昌公に封じ、寵愛していた焦氏の子である張大豫を代わって世子に立てた。
梁景・劉粛はともに豪族の家柄であり、幼少期より張天錫と親しかった。また、張天錫が張邕を誅殺した時、劉粛・梁景は大いに勲功を挙げたので、張天錫の養子に迎え入れられた。これにより衆人はみな大いに憤怒したという。従兄弟である従事中郎張憲はこれを頑なに諫めたが、張天錫は聞き入れなかった。
376年7月、苻堅は武衛将軍苟萇・左将軍毛盛・中書令梁熙・歩兵校尉姚萇らに13万の兵を与え、前涼征伐を命じた。さらに、秦州刺史苟池・河州刺史李弁・涼州刺史王統に命じ、三州の兵をもって後続とした。また、閻負・梁殊を前涼に派遣し、張天錫へ長安に入朝するよう勧めさせた。だが、張天錫は使者二人を殺害すると、龍驤将軍馬建に2万の兵を与えて前秦軍を迎え撃たせた。
8月、梁熙・姚萇・王統・李弁は清石津から河を渡って河会城へ侵攻すると、河会城を守る驍烈将軍梁済は前秦へ降伏した。苟萇は石城津から渡河すると、梁熙らと共に纒縮城を攻め、これもまた陥落した。馬建は大いに恐れ、清塞まで撤退した。張天錫は征東将軍常據へ3万の兵を与えて洪池へ派遣し、自らもまた5万の軍で金昌城へ出征した。
苟萇は姚萇に兵3千を与えて先鋒とすると、馬建は1万の兵を率いて姚萇らを防いだが、大敗を喫して前秦へ降伏してしまった。これにより、他の前涼兵は逃散してしまった。さらに、苟萇が洪池に進むと、常據は迎え撃つも敗れて戦死し、さらに軍司席仂もまた戦死した。前秦軍は清塞へ進むと、張天錫は司兵趙充哲・中衛将軍史景に勇軍5万を与えて迎撃させたが、赤岸において趙充哲は姚萇に敗北を喫した。これにより3万8千の兵を失って趙充哲は戦死し、史景もまた陣没した。張天錫は大いに恐れ、自ら城を出撃したが、留守となった城内で反乱が起こったので、やむなく数千騎を率いて姑臧へ撤退した。前秦軍が姑臧まで進軍すると、張天錫は降伏を決断し、自らを縛り上げて棺を伴い、苟萇の軍門に降った。苟萇はその戒めを解いて棺材を焼き払うと、張天錫を長安へ送還した。これにより、涼州の郡県はみな前秦へ降伏した。こうして前涼は滅亡した。9月、張天錫は長安に到着すると、帰義侯に封じられ、前秦の臣下となった。
383年11月、苻堅が淝水の戦いで大敗を喫すると、これに従軍していた張天錫は陣営を脱出して東晋へ逃れた。彼は国を失って捕虜となったことから、東晋の朝士より謗られ、やがて精神を病んで生気を失い、406年にこの世を去った。
張天錫の世子の張大豫は前秦滅亡後は河西に逃れ、再起を図って呂光と涼州を争ったが、敗れて殺された。
建国年について
前涼の歴代君主は、その治世において明確に独立を標榜する事がほぼ無いに等しかった。基本的に西晋・東晋の臣下としての立場を貫き、時には前趙・後趙・前秦といった中原を支配していた王朝にも従属し、半独立国または属国のような立場にあった。形式的には他国に服属しながらも実質的には独立しているという微妙な国家体制が築かれており、何をもって建国と定義づけるのかが非常に難しい為、その成立時期については諸説ある。
- 一般的には301年に張軌が涼州刺史として姑臧に着任した事をもって前涼の建国としているが、張軌は一貫して西晋の臣下の立場を貫いており、官爵を自称する事も一切無く、与えられた爵位も西平公に過ぎない。ただ、張氏の涼州統治が張軌の涼州着任から始まった事を重要視し、建国年と定義づけられる事が多い。
- 317年には東晋が樹立したが、張寔は東晋の年号を奉じずに西晋の年号である建興を引き続き使用した。これは東晋の臣下としての立場を否定し、独立勢力であることを示したともとれるので、これをもって建国年とする事もある。ただ、張寔は司馬睿の皇帝即位にも協力しており、東晋との関係が断絶していたわけでは無い。
- 320年に張茂が永元という独自の年号を立てた事をもって建国年とする説もある。ただ、この年号は宋代の龔穎が著した『運暦図』など一部書物に記載があるのみであり、晋書・資治通鑑・十六国春秋ではいずれも西晋の年号である建興を継続して使用している事になっており、事実であるかは不明である。
- 323年には前趙に称藩し、張茂は涼王に封じられている。前趙からの封号とはいえ、前涼君主が王位を得るのはこれが初である。ただ、東晋とも引き続き関係を保っている。
- 張駿の時代になると、群臣より王と称されるのが半ば慣例化するようになり、345年には仮涼王を自称した。東晋に配慮して仮としているものの、王位を自称するのは前涼政権において初の事である。張駿は車服・旌旗を全て君王を模した様式とし、百官を設置するなど、国家としての制度を整備している。
- 354年1月には張祚は正式に涼王[24]を自称し、建興から独自の年号である和平と改めた。厳密な定義でいうならば、この年が前涼の建国となる。ただ、355年9月に張祚が死んで張玄靚が後を継ぐと、和平から再び西晋の元号である建興に改めており、完全な独立状態は2年に満たず終焉した。また、361年には建興から東晋の年号である升平と改め、東晋の臣下としての立場を明確にしている。ただ、滅亡まで涼王の称号は廃さなかったともいわれる[25]。
歴代の前涼君主
代 | 姓・諱 | 廟号・諡号 | 在位 | 続柄 | 生前の官爵 | |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 張軌 | 武公 | 西晋からの諡号は武穆公。張祚の時代に太祖武王と追諡された。 | 301 – 314年 | 張温の子 | 西晋の涼州刺史(301)、後に西平公(314) |
2 | 張寔 | 昭公 | 東晋からの諡号は元公。張祚の時代に高祖昭王[26]と追諡された。 | 314 – 320年 | 張軌の長子 | 西晋の涼州刺史・西平公(314)。 |
3 | 張茂 | 成公 | 前趙からの諡号は成烈王。張祚の時代に太宗成王と追諡された。 | 320 – 324年 | 張軌の次子 | 西晋の涼州牧を自称(320)。前趙の涼州牧・涼王(323)。 |
4 | 張駿 | 文公 | 東晋からの諡号は忠成公。張祚の時代に世祖文王と追諡された。 | 324 – 346年 | 張寔の子 | 涼州牧・西平公を自称(324)。前趙の涼州牧・涼王(324)、後に撤廃(327)。 東晋の涼州牧を自称(327)、後に正式に涼州刺史・西平公(333年)。仮涼王を自称(345)。 |
5 | 張重華 | 桓公[27] | 東晋からの諡号は敬烈公。張祚の時代に闕祖[28]桓王と追諡された。 | 346 – 353年 | 張駿の次子 | 涼州牧・西平公・仮涼王を自称(346)。東晋の涼州刺史・西平公(347)、後に涼州牧(353)。 |
6 | 張耀霊 | 哀公 | 353年 | 張重華の次子 | 涼州刺史・涼州牧・西平公を自称(353)。 | |
7 | 張祚 | - | 当初庶人の礼で葬られたが、張天錫の時代に威王と追諡された。 | 353 – 355年 | 張駿の庶長子 | 涼州牧・涼公を自称(353)。後に涼王[24]を自称(354)。 |
8 | 張玄靚 | 沖公[29] | 東晋からの諡号は敬悼公。 | 355 – 363年 | 張重華の末子 | 涼王を自称(355)。前秦の爵位を授かる(356)。東晋の涼州刺史・西平公(361)。 |
9 | 張天錫 | - | 東晋からの諡号は悼公。 | 363 – 376年 | 張駿の末子 | 涼州牧・西平公・涼王[25]を自称(363)。東晋の涼州刺史・西平公(364)。 前秦の涼州牧・西平公(364)、後に撤廃(366)。その後再び前秦の涼州刺史・西平公(371)。 滅亡後、前秦の帰義侯(376)。東晋に帰順後、金紫光禄大夫(383)。桓楚の涼州刺史(403)。 |
元号
- 建興(317年-354年、355年-361年):西晋の愍帝の年号を継続して使用。
- 永安(317年-320年):張寔の時代に使用されたとも。
- 永元(320年-324年):張茂の時代に使用されたとも。
- 太元(324年-346年):張駿の時代に使用されたとも。
- 永楽(346年-353年):張重華の時代に使用されたとも。
- 太始(355年-361年):張玄靚の時代に使用されたとも。
永安等の年号は一部史書にその記載があるが、実在したかは不明である。国内では永安等の年号が使用され、対外的には建興の年号を使用したのではないかともいわれる。
脚注
- ^ 『晋書』では307年の出来事と記載されている。
- ^ 『晋書』では321年11月の出来事と記載されている。
- ^ 『晋書』では322年の出来事と記載されている。
- ^ 五錫とも
- ^ 元礼とも
- ^ 『資治通鑑』では345年に涼王を称した際に始めて祭酒を設置したとあり、矛盾が生じている
- ^ 『十六国春秋』では335年の出来事と記載されている
- ^ 武威・武興・西平・張掖・酒泉・建康・西海・西郡・湟河・晋興・広武
- ^ 金城・興晋・武始・南安・永晋・大夏・武城・漢中
- ^ 『晋書』によると、東境六郡を分割して河州を置いたと記載される
- ^ 敦煌・晋昌・高昌
- ^ 『晋書』では仮節・護羌校尉・涼州刺史に任じたとある
- ^ 『十六国春秋』では351年12月とする
- ^ 『十六国春秋』では352年2月とする
- ^ その一方、『晋書』巻29『五行下』や『十六国春秋』によると、張重華は張祚殺害を目論んでいたと記されている
- ^ 『晋書』には持節とある
- ^ 『晋書』には撫軍将軍とある
- ^ 『晋書』には帝位に即いたとある
- ^ 『晋書』には仮節とある
- ^ 『晋書』には車騎大将軍とある
- ^ 『晋書』には涼王を名乗ったとは記されていない
- ^ 『晋書』には366年の出来事とする
- ^ 『晋書』には371年の夏と、『十六国春秋』には376年の夏とする
- ^ a b 『晋書』には涼帝と記載される
- ^ a b 『晋書』には張天錫が涼王を名乗ったとは記載されていない
- ^ 『十六国春秋』には、明王とも記載される
- ^ 『晋書』によると、まず昭公と諡され、すぐに桓公と改められたと記載される
- ^ 『十六国春秋』には、世宗とも記載される
- ^ 『十六国春秋』には、沖王と記載される
参考文献
関連項目
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