コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「南寧道」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
 
35行目: 35行目:


==沿革==
==沿革==
[[1913年]]([[中華民国暦|民国]]2年)、'''邕南道'''としてに設置。観察使は[[武鳴県]](武縁県より改称)に置かれ、下部に南寧、隆安、扶南、武鳴、永淳、横県、賓陽、上林、那馬、上思の10県及び土忠の1州、果化、帰徳の2土州、定羅、都陽、安定、古零、興隆、旧城、白山、遷隆峒の8土司を管轄した<ref>『政府広報』第504号 1913年9月29日</ref>。[[1914年]](民国3年)5月に'''南寧道'''と改称、観察使も道尹と改められ、治所は[[ヨウ寧区|邕寧県]](南寧県より改称)に移された。[[1915年]](民国4年)8月に都安、隆山、果徳(果化土州・帰徳土州より改編)の3県、[[1916年]](民国5年)9月に綏淥県(土忠州より改編)が新設された。[[1926年]](民国15年)に廃止されている。
[[1913年]]([[中華民国暦|民国]]2年)、'''邕南道'''としてに設置。観察使は[[武鳴県]](武縁県より改称)に置かれ、下部に南寧、隆安、扶南、武鳴、永淳、横県、賓陽、上林、那馬、上思の10県及び土忠の1州、果化、帰徳の2土州、定羅、都陽、安定、古零、興隆、旧城、白山、遷隆峒の8土司を管轄した<ref>『政府広報』第504号 1913年9月29日</ref>。[[1914年]](民国3年)5月に'''南寧道'''と改称、観察使も道尹と改められ、治所は[[寧区|邕寧県]](南寧県より改称)に移された。[[1915年]](民国4年)8月に都安、隆山、果徳(果化土州・帰徳土州より改編)の3県、[[1916年]](民国5年)9月に綏淥県(土忠州より改編)が新設された。[[1926年]](民国15年)に廃止されている。


==行政区画==
==行政区画==
52行目: 52行目:
**[[扶綏県|扶南県]]
**[[扶綏県|扶南県]]
**[[武鳴県]]
**[[武鳴県]]
**[[ヨウ寧区|邕寧県]]
**[[寧区|邕寧県]]
**[[隆安県]]
**[[隆安県]]
**[[隆山県]]
**[[隆山県]]

2020年8月17日 (月) 07:29時点における最新版

中華民国 広西省省 南寧道
1913年 - 1926年
簡体字 南宁
繁体字 南寧
拼音 Nánníng
カタカナ転記 ナンニン
国家 中華民国
広西省
行政級別
政府所在地 武鳴県
建置 1913年
廃止 1926年 
面積
- 総面積 km²
人口

南寧道(なんねい-どう)は中華民国北京政府により設置された広西省の道。

沿革

[編集]

1913年民国2年)、邕南道としてに設置。観察使は武鳴県(武縁県より改称)に置かれ、下部に南寧、隆安、扶南、武鳴、永淳、横県、賓陽、上林、那馬、上思の10県及び土忠の1州、果化、帰徳の2土州、定羅、都陽、安定、古零、興隆、旧城、白山、遷隆峒の8土司を管轄した[1]1914年(民国3年)5月に南寧道と改称、観察使も道尹と改められ、治所は邕寧県(南寧県より改称)に移された。1915年(民国4年)8月に都安、隆山、果徳(果化土州・帰徳土州より改編)の3県、1916年(民国5年)9月に綏淥県(土忠州より改編)が新設された。1926年(民国15年)に廃止されている。

行政区画

[編集]

廃止直前下部の14県、8土司を管轄した。(50音順)


脚注

[編集]
  1. ^ 『政府広報』第504号 1913年9月29日