「陳栄」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし |
m Bot作業依頼: 邳郗郯郴などの改名に伴うリンク修正依頼 (郴州市) - log |
||
1行目: | 1行目: | ||
'''陳 栄'''(ちん えい、''Chen Rong''、? - [[1864年]])は、[[太平天国の乱]]の指導者の一人。 |
'''陳 栄'''(ちん えい、''Chen Rong''、? - [[1864年]])は、[[太平天国の乱]]の指導者の一人。 |
||
[[広東省]][[肇慶市|肇慶]]出身。[[天地会]]のメンバーで、[[1854年]]に蜂起して、府城と[[高要市|高要県]]を占拠して、[[羅定市|羅定州]]に西進した。その後[[広州市|広州]]包囲に失敗して北上した[[何禄]]・[[陳金釭]]・[[周春]]らと合流し、[[韶関市|韶州]]を包囲したが攻略できなかった。[[1855年]]、[[湖南省]]に入り、7月に何禄とともに[[ |
[[広東省]][[肇慶市|肇慶]]出身。[[天地会]]のメンバーで、[[1854年]]に蜂起して、府城と[[高要市|高要県]]を占拠して、[[羅定市|羅定州]]に西進した。その後[[広州市|広州]]包囲に失敗して北上した[[何禄]]・[[陳金釭]]・[[周春]]らと合流し、[[韶関市|韶州]]を包囲したが攻略できなかった。[[1855年]]、[[湖南省]]に入り、7月に何禄とともに[[郴州市|郴州]]を攻略、9月には周春とともに[[茶陵県|茶陵州]]を攻略した。11月に[[江西省]]に入り、翌年に[[吉安市|吉安]]を[[太平天国]]軍とともに攻め落とした。太平天国軍に加入した天地会軍は「花旗」と呼ばれ、翼王[[石達開]]の部隊に属した。 |
||
[[1857年]]、石達開の[[南京市|天京]]離脱に従い、江西省・[[浙江省]]・[[福建省]]・湖南省・[[広西省]]を転戦した。[[1860年]]、[[譚星]]・[[林彩新]]・周春・[[李鴻昭]]らとともに石達開軍を離脱した。広東省[[連州市|連州]]で「殿左隊前精忠先鋒」を名乗り、広東省・江西省・湖南省の境界を転戦した。[[1861年]]、江西省で太平天国の侍王[[李世賢]]軍に出会い、李世賢に従って[[浙江省]]に入り、[[義烏市|義烏]]を攻略して崇天安となった。[[1862年]]、感王に封じられた。その後、江西省・[[安徽省]]を転戦したが、1864年7月に浙江省孝豊で捕らえられ処刑された。 |
[[1857年]]、石達開の[[南京市|天京]]離脱に従い、江西省・[[浙江省]]・[[福建省]]・湖南省・[[広西省]]を転戦した。[[1860年]]、[[譚星]]・[[林彩新]]・周春・[[李鴻昭]]らとともに石達開軍を離脱した。広東省[[連州市|連州]]で「殿左隊前精忠先鋒」を名乗り、広東省・江西省・湖南省の境界を転戦した。[[1861年]]、江西省で太平天国の侍王[[李世賢]]軍に出会い、李世賢に従って[[浙江省]]に入り、[[義烏市|義烏]]を攻略して崇天安となった。[[1862年]]、感王に封じられた。その後、江西省・[[安徽省]]を転戦したが、1864年7月に浙江省孝豊で捕らえられ処刑された。 |
2020年8月17日 (月) 05:31時点における版
陳 栄(ちん えい、Chen Rong、? - 1864年)は、太平天国の乱の指導者の一人。
広東省肇慶出身。天地会のメンバーで、1854年に蜂起して、府城と高要県を占拠して、羅定州に西進した。その後広州包囲に失敗して北上した何禄・陳金釭・周春らと合流し、韶州を包囲したが攻略できなかった。1855年、湖南省に入り、7月に何禄とともに郴州を攻略、9月には周春とともに茶陵州を攻略した。11月に江西省に入り、翌年に吉安を太平天国軍とともに攻め落とした。太平天国軍に加入した天地会軍は「花旗」と呼ばれ、翼王石達開の部隊に属した。
1857年、石達開の天京離脱に従い、江西省・浙江省・福建省・湖南省・広西省を転戦した。1860年、譚星・林彩新・周春・李鴻昭らとともに石達開軍を離脱した。広東省連州で「殿左隊前精忠先鋒」を名乗り、広東省・江西省・湖南省の境界を転戦した。1861年、江西省で太平天国の侍王李世賢軍に出会い、李世賢に従って浙江省に入り、義烏を攻略して崇天安となった。1862年、感王に封じられた。その後、江西省・安徽省を転戦したが、1864年7月に浙江省孝豊で捕らえられ処刑された。
参考文献
- 郭穀生・史式編『太平天国大辞典』中国社会科学出版社
- 『中国歴史大辞典・清史(下)』上海辞書出版社