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[[広東省]][[順徳区|順徳]]出身。天地会に参加し、[[1854年]]に[[東莞市|東莞]]で蜂起し、県城を占領した。さらに[[恵州市|恵州]]・[[増城市|増城]]の天地会も蜂起し、何禄が首領に推された。何禄は[[広州市|広州]]を攻撃し、半年間包囲したが陥落させることができずに[[1855年]]に撤退した。
[[広東省]][[順徳区|順徳]]出身。天地会に参加し、[[1854年]]に[[東莞市|東莞]]で蜂起し、県城を占領した。さらに[[恵州市|恵州]]・[[増城市|増城]]の天地会も蜂起し、何禄が首領に推された。何禄は[[広州市|広州]]を攻撃し、半年間包囲したが陥落させることができずに[[1855年]]に撤退した。


その後、[[湖南省]]に入り、[[チン州市|郴州]]を占領した。[[許香桂]]・[[許月桂]]・[[焦玉晶]]ら数千人が呼応し、[[桂陽県|桂陽]]と[[茶陵県|茶陵]]も占領した。こうして北は[[長沙市|長沙]]、東は[[江西省]]へ進出する構えをみせた。しかし[[王チン|王錱]]と[[劉長佑]]率いる清軍の反撃で桂陽と茶陵が陥落し、郴州は十数万の[[団練]]に包囲されて孤立した。何禄は郴州を脱出したものの[[宜章県|宜章]]で戦死した。
その後、[[湖南省]]に入り、[[州市|郴州]]を占領した。[[許香桂]]・[[許月桂]]・[[焦玉晶]]ら数千人が呼応し、[[桂陽県|桂陽]]と[[茶陵県|茶陵]]も占領した。こうして北は[[長沙市|長沙]]、東は[[江西省]]へ進出する構えをみせた。しかし[[王チン|王錱]]と[[劉長佑]]率いる清軍の反撃で桂陽と茶陵が陥落し、郴州は十数万の[[団練]]に包囲されて孤立した。何禄は郴州を脱出したものの[[宜章県|宜章]]で戦死した。


==参考文献==
==参考文献==

2020年8月17日 (月) 05:30時点における最新版

何 禄(か ろく、He Lu、? - 1856年)、末の天地会の蜂起の指導者の一人。

広東省順徳出身。天地会に参加し、1854年東莞で蜂起し、県城を占領した。さらに恵州増城の天地会も蜂起し、何禄が首領に推された。何禄は広州を攻撃し、半年間包囲したが陥落させることができずに1855年に撤退した。

その後、湖南省に入り、郴州を占領した。許香桂許月桂焦玉晶ら数千人が呼応し、桂陽茶陵も占領した。こうして北は長沙、東は江西省へ進出する構えをみせた。しかし王錱劉長佑率いる清軍の反撃で桂陽と茶陵が陥落し、郴州は十数万の団練に包囲されて孤立した。何禄は郴州を脱出したものの宜章で戦死した。

参考文献

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  • 羅爾綱『太平天国史』中華書局