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同郷人と婚約していたが、14歳のときに水辺で働いていた際、[[雍州]][[刺史]]の蕭衍に見初められ、金環をもらって妾となった。蕭衍の本妻の[[郗徽]]は令光に厳しく、奴婢のように扱ったが、令光は真面目に働いた。 |
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[[500年]]([[永元 (南朝斉)|永元]]2年)、[[蕭衍]]が起兵した際、令光は最初の男子(蕭統)の出産を控えていたため、雍州の州城にとどまった。[[501年]]([[中興 (南朝斉)|中興]]元年)、[[建康 (都城)|建康]]が平定されると、建康に入った。[[502年]]([[天監]]元年)5月、貴人となるよう奏上されたが、受けなかった。同年8月、貴嬪となり、顕陽殿に居住した。 |
2020年8月17日 (月) 05:23時点における版
丁令光(てい れいこう、485年 - 526年)は、南朝梁の武帝蕭衍の貴嬪(側室)。昭明太子蕭統や簡文帝の母。本貫は譙国。
経歴
貧農の丁仲遷の娘として樊城で生まれた。生まれたときに神光の怪異があり、紫煙が部屋に満ちたため、「光」と名づけられたと伝えられる。
同郷人と婚約していたが、14歳のときに水辺で働いていた際、雍州刺史の蕭衍に見初められ、金環をもらって妾となった。蕭衍の本妻の郗徽は令光に厳しく、奴婢のように扱ったが、令光は真面目に働いた。
500年(永元2年)、蕭衍が起兵した際、令光は最初の男子(蕭統)の出産を控えていたため、雍州の州城にとどまった。501年(中興元年)、建康が平定されると、建康に入った。502年(天監元年)5月、貴人となるよう奏上されたが、受けなかった。同年8月、貴嬪となり、顕陽殿に居住した。
仏教を篤く信じる蕭衍のために菜食の膳を勧め、受戒の日には宮殿の前に甘露が降ったとされる。
526年(普通7年)11月、死去した。東宮臨雲殿で通夜がおこなわれた。享年は42。諡は穆といった。簡文帝が即位すると、穆太后の諡号が贈られて追尊された。