コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「龐鍾璐」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
1行目: 1行目:
'''龐 鍾璐'''(ほう しょうろ、''Pang Zhonglu''、[[1822年]] - [[1876年]])、[[清]]末の官僚。字は'''宝生'''。[[江蘇省]][[常熟市|常熟県]]塘橋(現在の[[張家港市]]塘橋鎮<ref>[http://www.jbmuseum.com/index.php?m=content&c=index&a=show&catid=88&id=477 博興京博文化芸術博物館 龐鍾璐 行書八言聯]</ref>)出身。
'''龐 鍾璐'''(ほう しょうろ、''Pang Zhonglu''、[[1822年]] - [[1876年]])、[[清]]末の官僚。字は'''宝生'''。[[江蘇省]][[常熟市|常熟県]]塘橋(現在の[[張家港市]]塘橋鎮<ref>[http://www.jbmuseum.com/index.php?m=content&c=index&a=show&catid=88&id=477 博興京博文化芸術博物館 龐鍾璐 行書八言聯]</ref>)出身。


[[1847年]]に[[進士]]になり、編修となった。その後、侍講学士、祭酒、光禄寺卿を歴任し、[[1858年]]に内閣学士・工部侍郎に抜擢された。父の死で郷里に帰ったが、[[江南]]では[[1860年]]に[[太平天国]]軍の攻撃で江南大営が壊滅し、[[蘇州市|蘇州]]・[[常州市|常州]]が陥落した。龐鍾璐は督弁江南団練大臣に任じられ、[[郷勇]]を率いて[[江陰市|江陰]]から常熟に迫ってきた太平天国軍を迎え撃ったが、8月に常熟は陥落した。その後[[上海市|上海]]に赴き、知県の[[劉シュン膏|劉郇膏]]とともに防衛にあたった。[[1861年]]、太平天国軍が[[平湖市|平湖]]から[[金山区 (上海市)|金山]]をうかがうと、郷勇を率いて出撃してこれを破った。その後、[[北京市|北京]]に呼び戻され、再び内閣学士となった。[[1862年]]から礼部侍郎、工部侍郎、吏部侍郎、順天学政を歴任した。[[1867年]]には大学士[[賈楨]]とともに五城団防大臣となって、[[捻軍]]に対する防衛にあたった。[[1870年]]、左都御史・工部尚書代理に抜擢され、[[1871年]]には刑部尚書となった。死後、文格の[[諡号]]が贈られた。
[[1847年]]に[[進士]]になり、編修となった。その後、侍講学士、祭酒、光禄寺卿を歴任し、[[1858年]]に内閣学士・工部侍郎に抜擢された。父の死で郷里に帰ったが、[[江南]]では[[1860年]]に[[太平天国]]軍の攻撃で江南大営が壊滅し、[[蘇州市|蘇州]]・[[常州市|常州]]が陥落した。龐鍾璐は督弁江南団練大臣に任じられ、[[郷勇]]を率いて[[江陰市|江陰]]から常熟に迫ってきた太平天国軍を迎え撃ったが、8月に常熟は陥落した。その後[[上海市|上海]]に赴き、知県の[[劉郇膏]]とともに防衛にあたった。[[1861年]]、太平天国軍が[[平湖市|平湖]]から[[金山区 (上海市)|金山]]をうかがうと、郷勇を率いて出撃してこれを破った。その後、[[北京市|北京]]に呼び戻され、再び内閣学士となった。[[1862年]]から礼部侍郎、工部侍郎、吏部侍郎、順天学政を歴任した。[[1867年]]には大学士[[賈楨]]とともに五城団防大臣となって、[[捻軍]]に対する防衛にあたった。[[1870年]]、左都御史・工部尚書代理に抜擢され、[[1871年]]には刑部尚書となった。死後、文格の[[諡号]]が贈られた。


==著作==
==著作==

2020年8月17日 (月) 05:19時点における版

龐 鍾璐(ほう しょうろ、Pang Zhonglu1822年 - 1876年)、末の官僚。字は宝生江蘇省常熟県塘橋(現在の張家港市塘橋鎮[1])出身。

1847年進士になり、編修となった。その後、侍講学士、祭酒、光禄寺卿を歴任し、1858年に内閣学士・工部侍郎に抜擢された。父の死で郷里に帰ったが、江南では1860年太平天国軍の攻撃で江南大営が壊滅し、蘇州常州が陥落した。龐鍾璐は督弁江南団練大臣に任じられ、郷勇を率いて江陰から常熟に迫ってきた太平天国軍を迎え撃ったが、8月に常熟は陥落した。その後上海に赴き、知県の劉郇膏とともに防衛にあたった。1861年、太平天国軍が平湖から金山をうかがうと、郷勇を率いて出撃してこれを破った。その後、北京に呼び戻され、再び内閣学士となった。1862年から礼部侍郎、工部侍郎、吏部侍郎、順天学政を歴任した。1867年には大学士賈楨とともに五城団防大臣となって、捻軍に対する防衛にあたった。1870年、左都御史・工部尚書代理に抜擢され、1871年には刑部尚書となった。死後、文格の諡号が贈られた。

著作

  • 『読均軒詩賦稿』

脚注

出典

先代
沈桂芬
都察院漢左都御史
1870-1871
次代
李鴻藻
先代
鄭敦謹
刑部漢尚書
1871-1872
次代
桑春栄