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「楊纂 (北周)」の版間の差分

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北魏の北道都督・朔州鎮将の[[楊安仁]]の子として生まれた。若くして軍隊に入り、騎射を得意とした。[[531年]]、信都で[[高歓]]の起兵に従い、軍功により安西将軍・武州刺史となった。功績のわりに賞与の薄いのに不満を持った。[[535年]]、[[西魏]]が建国されると、楊纂は間道を通って西魏に帰順した。征南将軍・大都督となり、永興県侯に封ぜられ、通直散騎常侍の位を加えられた。
北魏の北道都督・朔州鎮将の[[楊安仁]]の子として生まれた。若くして軍隊に入り、騎射を得意とした。[[531年]]、信都で[[高歓]]の起兵に従い、軍功により安西将軍・武州刺史となった。功績のわりに賞与の薄いのに不満を持った。[[535年]]、[[西魏]]が建国されると、楊纂は間道を通って西魏に帰順した。征南将軍・大都督となり、永興県侯に封ぜられ、通直散騎常侍の位を加えられた。


宇文泰の下で[[洛陽]]の包囲を解き、[[河橋・ボウ山の戦い|河橋の戦い]]や[[邙山の戦い]]では先頭に立って戦った。使持節・車騎大将軍・[[儀同三司]]・散騎常侍となり、驃騎大将軍・[[開府儀同三司]]に進み、[[侍中]]を加えられ、[[爵位]]は[[公]]に進んだ。莫胡盧氏の姓を賜った。まもなく[[岐州]][[刺史]]に任ぜられた。[[557年]]、北周が建国されると、爵位は宋熙郡公に進んだ。[[561年]]、位は[[大将軍]]に進み、隴東郡公に改封され、[[隴州]]刺史に任ぜられた。[[563年]]、随国公[[楊忠]]の下で東征に従軍し、[[并州]]までいたって帰還した。[[571年]]、柱国大将軍に進み、[[華州 (陝西省)|華州]]刺史に転じた。
宇文泰の下で[[洛陽]]の包囲を解き、[[河橋・山の戦い|河橋の戦い]]や[[邙山の戦い]]では先頭に立って戦った。使持節・車騎大将軍・[[儀同三司]]・散騎常侍となり、驃騎大将軍・[[開府儀同三司]]に進み、[[侍中]]を加えられ、[[爵位]]は[[公]]に進んだ。莫胡盧氏の姓を賜った。まもなく[[岐州]][[刺史]]に任ぜられた。[[557年]]、北周が建国されると、爵位は宋熙郡公に進んだ。[[561年]]、位は[[大将軍]]に進み、隴東郡公に改封され、[[隴州]]刺史に任ぜられた。[[563年]]、随国公[[楊忠]]の下で東征に従軍し、[[并州]]までいたって帰還した。[[571年]]、柱国大将軍に進み、[[華州 (陝西省)|華州]]刺史に転じた。


楊纂は文字を知らなかったが、前後して刺史職をつとめ、信義を押したて、その思いやりのため官吏になつかれた。[[578年]]、華州で死去した。享年は67。
楊纂は文字を知らなかったが、前後して刺史職をつとめ、信義を押したて、その思いやりのため官吏になつかれた。[[578年]]、華州で死去した。享年は67。

2020年8月17日 (月) 05:09時点における最新版

楊 纂(よう さん、512年 - 578年)は、中国北魏から北周にかけての軍人政治家本貫広寧郡

経歴

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北魏の北道都督・朔州鎮将の楊安仁の子として生まれた。若くして軍隊に入り、騎射を得意とした。531年、信都で高歓の起兵に従い、軍功により安西将軍・武州刺史となった。功績のわりに賞与の薄いのに不満を持った。535年西魏が建国されると、楊纂は間道を通って西魏に帰順した。征南将軍・大都督となり、永興県侯に封ぜられ、通直散騎常侍の位を加えられた。

宇文泰の下で洛陽の包囲を解き、河橋の戦い邙山の戦いでは先頭に立って戦った。使持節・車騎大将軍・儀同三司・散騎常侍となり、驃騎大将軍・開府儀同三司に進み、侍中を加えられ、爵位に進んだ。莫胡盧氏の姓を賜った。まもなく岐州刺史に任ぜられた。557年、北周が建国されると、爵位は宋熙郡公に進んだ。561年、位は大将軍に進み、隴東郡公に改封され、隴州刺史に任ぜられた。563年、随国公楊忠の下で東征に従軍し、并州までいたって帰還した。571年、柱国大将軍に進み、華州刺史に転じた。

楊纂は文字を知らなかったが、前後して刺史職をつとめ、信義を押したて、その思いやりのため官吏になつかれた。578年、華州で死去した。享年は67。

子の楊睿が後を嗣ぎ、上柱国・漁陽郡公となった。

伝記資料

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