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[[北魏]]の泰州刺史の[[侯欣]]の子として生まれた。[[正光]]年間、[[奉朝請]]を初任とした。[[六鎮の乱]]が起こると、侯植は家財を散じて兵を集め、乱の鎮圧にあたった。功により統軍となり、清河郡守に転じた。後に[[賀抜岳]]に従って[[万俟醜奴]]らを討ち、義州刺史に任ぜられた。
[[北魏]]の泰州刺史の[[侯欣]]の子として生まれた。[[正光]]年間、[[奉朝請]]を初任とした。[[六鎮の乱]]が起こると、侯植は家財を散じて兵を集め、乱の鎮圧にあたった。功により統軍となり、清河郡守に転じた。後に[[賀抜岳]]に従って[[万俟醜奴]]らを討ち、義州刺史に任ぜられた。


[[534年]]、[[孝武帝 (北魏)|孝武帝]]に従って[[関中]]に入った。[[535年]]、[[驃騎将軍]]・[[都督]]に任ぜられ、侯伏侯氏の姓を受けた。[[宇文泰]]の下で[[沙苑の戦い]]や[[河橋・ボウ山の戦い|河橋の戦い]]に参加し、大都督に進み、左光禄大夫を加えられた。[[涼州]][[刺史]]の宇文仲和が涼州で乱を起こすと、侯植は[[独孤信]]の下でこれを討ち、車騎大将軍・[[儀同三司]]に任ぜられ、肥城県公に封ぜられた。賀屯の姓を受けた。[[554年]]、[[于謹]]の下で[[荊州区|江陵]]を平定し、驃騎大将軍・[[開府儀同三司]]に進んだ。[[556年]]、六官が建てられると、司倉下大夫に任ぜられた。[[557年]]、北周の[[孝閔帝]]が即位すると、爵位は郡公に進んだ。
[[534年]]、[[孝武帝 (北魏)|孝武帝]]に従って[[関中]]に入った。[[535年]]、[[驃騎将軍]]・[[都督]]に任ぜられ、侯伏侯氏の姓を受けた。[[宇文泰]]の下で[[沙苑の戦い]]や[[河橋・山の戦い|河橋の戦い]]に参加し、大都督に進み、左光禄大夫を加えられた。[[涼州]][[刺史]]の宇文仲和が涼州で乱を起こすと、侯植は[[独孤信]]の下でこれを討ち、車騎大将軍・[[儀同三司]]に任ぜられ、肥城県公に封ぜられた。賀屯の姓を受けた。[[554年]]、[[于謹]]の下で[[荊州区|江陵]]を平定し、驃騎大将軍・[[開府儀同三司]]に進んだ。[[556年]]、六官が建てられると、司倉下大夫に任ぜられた。[[557年]]、北周の[[孝閔帝]]が即位すると、爵位は郡公に進んだ。


[[宇文護]]の執政の下で、侯植の従兄の侯龍恩は宇文護に親任されていた。宇文護が[[趙貴]]を殺すと、北周の宿将たちの多くは不安を抱いた。侯植は宇文護から距離を置くように侯龍恩に忠告したが、聞き入れられなかった。また侯植は[[伊尹]]や[[周公旦]]の故事を引いて輔臣としての分を守るよう宇文護に進言した。宇文護は侯植の侯龍恩に対する発言を聞き知って、侯植を忌み嫌った。侯植は禍の免れないことを恐れて、憂死した。[[大将軍]]・平揚光三州諸軍事・[[平州 (河北省)|平州]]刺史の位を追贈され、[[諡]]を節といった。
[[宇文護]]の執政の下で、侯植の従兄の侯龍恩は宇文護に親任されていた。宇文護が[[趙貴]]を殺すと、北周の宿将たちの多くは不安を抱いた。侯植は宇文護から距離を置くように侯龍恩に忠告したが、聞き入れられなかった。また侯植は[[伊尹]]や[[周公旦]]の故事を引いて輔臣としての分を守るよう宇文護に進言した。宇文護は侯植の侯龍恩に対する発言を聞き知って、侯植を忌み嫌った。侯植は禍の免れないことを恐れて、憂死した。[[大将軍]]・平揚光三州諸軍事・[[平州 (河北省)|平州]]刺史の位を追贈され、[[諡]]を節といった。

2020年8月17日 (月) 05:09時点における版

侯 植(こう しょく、生没年不詳)は、中国西魏北周軍人は仁幹。本貫上谷郡

経歴

北魏の泰州刺史の侯欣の子として生まれた。正光年間、奉朝請を初任とした。六鎮の乱が起こると、侯植は家財を散じて兵を集め、乱の鎮圧にあたった。功により統軍となり、清河郡守に転じた。後に賀抜岳に従って万俟醜奴らを討ち、義州刺史に任ぜられた。

534年孝武帝に従って関中に入った。535年驃騎将軍都督に任ぜられ、侯伏侯氏の姓を受けた。宇文泰の下で沙苑の戦い河橋の戦いに参加し、大都督に進み、左光禄大夫を加えられた。涼州刺史の宇文仲和が涼州で乱を起こすと、侯植は独孤信の下でこれを討ち、車騎大将軍・儀同三司に任ぜられ、肥城県公に封ぜられた。賀屯の姓を受けた。554年于謹の下で江陵を平定し、驃騎大将軍・開府儀同三司に進んだ。556年、六官が建てられると、司倉下大夫に任ぜられた。557年、北周の孝閔帝が即位すると、爵位は郡公に進んだ。

宇文護の執政の下で、侯植の従兄の侯龍恩は宇文護に親任されていた。宇文護が趙貴を殺すと、北周の宿将たちの多くは不安を抱いた。侯植は宇文護から距離を置くように侯龍恩に忠告したが、聞き入れられなかった。また侯植は伊尹周公旦の故事を引いて輔臣としての分を守るよう宇文護に進言した。宇文護は侯植の侯龍恩に対する発言を聞き知って、侯植を忌み嫌った。侯植は禍の免れないことを恐れて、憂死した。大将軍・平揚光三州諸軍事・平州刺史の位を追贈され、を節といった。

子の侯定が後を嗣ぎ、車騎大将軍・儀同三司に上った。宇文護が誅殺されると、侯龍恩とその弟の侯万寿は殺された。

伝記資料