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[[北魏]]の河州四面大都督の[[辛生]]の子として生まれた。はじめ[[賀抜岳]]の西征に従って功績を挙げ、仮の輔国将軍・都督となった。[[534年]]、[[宇文泰]]が賀抜岳の部衆を引き継ぐと、辛威は召されて帳内となった。まもなく羽林監に任ぜられ、白土県伯に封ぜられた。[[孝武帝 (北魏)|孝武帝]]を迎え、回洛城を攻撃するのに、功績は最上とされた。[[535年]]、西魏が建国されると、寧遠将軍に任ぜられた。通直散騎常侍に累進し、爵位は侯に進んだ。従軍して[[竇泰]]を捕らえ、弘農を奪回し、[[沙苑の戦い|沙苑]]に戦い、いずれも先鋒として活躍した。前後の功により、撫軍将軍・銀青光禄大夫の位を受けた。[[于謹]]の下で襄城を落とした。また[[独孤信]]に従って[[洛陽]]に入り、[[河橋・邙山の戦い|河橋の戦い]]に参加し、持節を加えられ、爵位は公に進んだ。[[539年]]、揚州刺史に任ぜられ、大都督を加えられた。[[547年]]、車騎大将軍・儀同三司となり、驃騎大将軍・開府儀同三司に転じ、普屯氏の姓を受け、敷州刺史として出向した。河州刺史に転じ、河州大中正をつとめた。 |
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[[557年]]、北周の[[孝閔帝]]が即位すると、[[大将軍]]に任ぜられ、爵位は枹罕郡公に進んだ。[[北斉]]の[[司馬消難]]が北周に帰順してくると、辛威と[[達奚武]]が応接にあたった。[[561年]]、兵を率いて丹州の胡族の乱を討ち、これを撃破した。[[563年]]、達奚武とともに陽関を攻撃して、これを落とした。[[564年]]、[[尉遅迥]]の下で洛陽を包囲し、帰還すると小司馬に任ぜられた。[[566年]]、位は柱国に進んだ。再び行軍総管となって、綏州・銀州などの胡族の乱を討ち、これらを平定した。[[571年]]、斉王[[宇文憲]]の東征に従い、伏龍など5城を落とした。[[572年]]、大司寇に任ぜられた。[[574年]]、少傅に転じ、寧州総管として出向した。[[578年]]、位は上柱国に進んだ。[[580年]]、宿国公に進み、再び少傅となった。その年の冬、69歳で死去した。 |
[[557年]]、北周の[[孝閔帝]]が即位すると、[[大将軍]]に任ぜられ、爵位は枹罕郡公に進んだ。[[北斉]]の[[司馬消難]]が北周に帰順してくると、辛威と[[達奚武]]が応接にあたった。[[561年]]、兵を率いて丹州の胡族の乱を討ち、これを撃破した。[[563年]]、達奚武とともに陽関を攻撃して、これを落とした。[[564年]]、[[尉遅迥]]の下で洛陽を包囲し、帰還すると小司馬に任ぜられた。[[566年]]、位は柱国に進んだ。再び行軍総管となって、綏州・銀州などの胡族の乱を討ち、これらを平定した。[[571年]]、斉王[[宇文憲]]の東征に従い、伏龍など5城を落とした。[[572年]]、大司寇に任ぜられた。[[574年]]、少傅に転じ、寧州総管として出向した。[[578年]]、位は上柱国に進んだ。[[580年]]、宿国公に進み、再び少傅となった。その年の冬、69歳で死去した。 |
2020年8月17日 (月) 05:08時点における版
辛 威(しん い、512年 - 580年)は、中国の西魏・北周の軍人。本貫は隴西郡狄道県。
経歴
北魏の河州四面大都督の辛生の子として生まれた。はじめ賀抜岳の西征に従って功績を挙げ、仮の輔国将軍・都督となった。534年、宇文泰が賀抜岳の部衆を引き継ぐと、辛威は召されて帳内となった。まもなく羽林監に任ぜられ、白土県伯に封ぜられた。孝武帝を迎え、回洛城を攻撃するのに、功績は最上とされた。535年、西魏が建国されると、寧遠将軍に任ぜられた。通直散騎常侍に累進し、爵位は侯に進んだ。従軍して竇泰を捕らえ、弘農を奪回し、沙苑に戦い、いずれも先鋒として活躍した。前後の功により、撫軍将軍・銀青光禄大夫の位を受けた。于謹の下で襄城を落とした。また独孤信に従って洛陽に入り、河橋の戦いに参加し、持節を加えられ、爵位は公に進んだ。539年、揚州刺史に任ぜられ、大都督を加えられた。547年、車騎大将軍・儀同三司となり、驃騎大将軍・開府儀同三司に転じ、普屯氏の姓を受け、敷州刺史として出向した。河州刺史に転じ、河州大中正をつとめた。
557年、北周の孝閔帝が即位すると、大将軍に任ぜられ、爵位は枹罕郡公に進んだ。北斉の司馬消難が北周に帰順してくると、辛威と達奚武が応接にあたった。561年、兵を率いて丹州の胡族の乱を討ち、これを撃破した。563年、達奚武とともに陽関を攻撃して、これを落とした。564年、尉遅迥の下で洛陽を包囲し、帰還すると小司馬に任ぜられた。566年、位は柱国に進んだ。再び行軍総管となって、綏州・銀州などの胡族の乱を討ち、これらを平定した。571年、斉王宇文憲の東征に従い、伏龍など5城を落とした。572年、大司寇に任ぜられた。574年、少傅に転じ、寧州総管として出向した。578年、位は上柱国に進んだ。580年、宿国公に進み、再び少傅となった。その年の冬、69歳で死去した。
子の辛永達が後を嗣ぎ、儀同大将軍に上った。