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賀蘭初真の子として生まれた。賀蘭祥の属する賀蘭氏(賀氏)は、[[陰山山脈|陰山]]の北麓にある賀蘭山を原住地として、[[道武帝]]の母の献明皇后を出すなど[[拓跋氏]]と姻戚関係を結び、[[北魏]]の建国に功績を挙げている一族である<ref>賀蘭氏の出自は、[[東胡]]あるいは[[鮮卑]]、[[テュルク系民族|テュルク系]][[高車]]などの諸説があるが、定かではない。</ref>。
賀蘭初真の子として生まれた。賀蘭祥の属する賀蘭氏(賀氏)は、[[陰山山脈|陰山]]の北麓にある賀蘭山を原住地として、[[道武帝]]の母の献明皇后を出すなど[[拓跋氏]]と姻戚関係を結び、[[北魏]]の建国に功績を挙げている一族である<ref>賀蘭氏の出自は、[[東胡]]あるいは[[鮮卑]]、[[テュルク系民族|テュルク系]][[高車]]などの諸説があるが、定かではない。</ref>。


[[527年]]、賀蘭祥は11歳で孤児となり、[[武川県|武川鎮]]で成長して、姻戚にあたる[[宇文泰]]と親交を結んだ。軍旅にあっても、常に儒士と語らい、経書を手放さなかった。宇文泰が[[関中]]に入ったとき、賀蘭祥は[[宇文護]]とともに[[太原市|晋陽]]にあり、後に晋陽から平涼に入った。[[533年]]、17歳で奉朝請となり、威烈将軍の位を加えられた。まもなく[[都督]]に抜擢され、常に宇文泰の幕下にあった。[[534年]]、宇文泰の下で[[侯莫陳悦]]を討ち、また[[孝武帝 (北魏)|孝武帝]]を関中に迎えた。前後の功により、撫夷県伯に封ぜられた。[[潼関]]に対する攻撃に従い、[[東魏]]の将の薛長孺を捕らえた。また回洛城を攻め落とした。凱旋すると、左右直長に任ぜられ、爵位は公に進んだ。[[537年]]、儀同の[[于謹]]の下で楊氏壁を攻め、賀蘭祥は先頭に立ってこれを落とした。右衛将軍に転じ、持節・征虜将軍を加えられた。[[沙苑の戦い]]のときには、賀蘭祥は[[長安]]の留守を命じられた。まもなく鎮西将軍となった。[[538年]]、軍を率いて[[河橋・ボウ山の戦い|河橋]]で戦い、功績により使持節・大都督を加えられた。[[542年]]、車騎大将軍・儀同三司・散騎常侍に転じた。[[543年]]、宇文泰の下で東魏軍と[[邙山の戦い|邙山]]で戦い、驃騎大将軍・[[開府儀同三司]]に進み、[[侍中]]を加えられた。
[[527年]]、賀蘭祥は11歳で孤児となり、[[武川県|武川鎮]]で成長して、姻戚にあたる[[宇文泰]]と親交を結んだ。軍旅にあっても、常に儒士と語らい、経書を手放さなかった。宇文泰が[[関中]]に入ったとき、賀蘭祥は[[宇文護]]とともに[[太原市|晋陽]]にあり、後に晋陽から平涼に入った。[[533年]]、17歳で奉朝請となり、威烈将軍の位を加えられた。まもなく[[都督]]に抜擢され、常に宇文泰の幕下にあった。[[534年]]、宇文泰の下で[[侯莫陳悦]]を討ち、また[[孝武帝 (北魏)|孝武帝]]を関中に迎えた。前後の功により、撫夷県伯に封ぜられた。[[潼関]]に対する攻撃に従い、[[東魏]]の将の薛長孺を捕らえた。また回洛城を攻め落とした。凱旋すると、左右直長に任ぜられ、爵位は公に進んだ。[[537年]]、儀同の[[于謹]]の下で楊氏壁を攻め、賀蘭祥は先頭に立ってこれを落とした。右衛将軍に転じ、持節・征虜将軍を加えられた。[[沙苑の戦い]]のときには、賀蘭祥は[[長安]]の留守を命じられた。まもなく鎮西将軍となった。[[538年]]、軍を率いて[[河橋・山の戦い|河橋]]で戦い、功績により使持節・大都督を加えられた。[[542年]]、車騎大将軍・儀同三司・散騎常侍に転じた。[[543年]]、宇文泰の下で東魏軍と[[邙山の戦い|邙山]]で戦い、驃騎大将軍・[[開府儀同三司]]に進み、[[侍中]]を加えられた。


[[548年]]、都督三荊二襄二広南雍平信隨江二郢析十五州諸軍事・荊州刺史に任ぜられ、博陵郡公に進んだ。荊州にあって善政で知られ、民情を安定させ、流民を定住させ、周辺の少数民族を帰順させた。また古墓の盗掘の風習をやめさせた。公私にわたって贈答を受けとらず、[[梁 (南朝)|梁]]の岳陽王[[蕭詧]]が竹屏風や経書・史書を贈ってきたときも、役所に届けて取らなかった。宇文泰は後にこのことを聞いて、それらの贈物を賀蘭祥に与えた。
[[548年]]、都督三荊二襄二広南雍平信隨江二郢析十五州諸軍事・荊州刺史に任ぜられ、博陵郡公に進んだ。荊州にあって善政で知られ、民情を安定させ、流民を定住させ、周辺の少数民族を帰順させた。また古墓の盗掘の風習をやめさせた。公私にわたって贈答を受けとらず、[[梁 (南朝)|梁]]の岳陽王[[蕭詧]]が竹屏風や経書・史書を贈ってきたときも、役所に届けて取らなかった。宇文泰は後にこのことを聞いて、それらの贈物を賀蘭祥に与えた。

2020年8月17日 (月) 05:08時点における版

賀蘭 祥(がらん しょう、517年 - 564年)は、中国西魏北周軍人は盛楽。本貫代郡

経歴

賀蘭初真の子として生まれた。賀蘭祥の属する賀蘭氏(賀氏)は、陰山の北麓にある賀蘭山を原住地として、道武帝の母の献明皇后を出すなど拓跋氏と姻戚関係を結び、北魏の建国に功績を挙げている一族である[1]

527年、賀蘭祥は11歳で孤児となり、武川鎮で成長して、姻戚にあたる宇文泰と親交を結んだ。軍旅にあっても、常に儒士と語らい、経書を手放さなかった。宇文泰が関中に入ったとき、賀蘭祥は宇文護とともに晋陽にあり、後に晋陽から平涼に入った。533年、17歳で奉朝請となり、威烈将軍の位を加えられた。まもなく都督に抜擢され、常に宇文泰の幕下にあった。534年、宇文泰の下で侯莫陳悦を討ち、また孝武帝を関中に迎えた。前後の功により、撫夷県伯に封ぜられた。潼関に対する攻撃に従い、東魏の将の薛長孺を捕らえた。また回洛城を攻め落とした。凱旋すると、左右直長に任ぜられ、爵位は公に進んだ。537年、儀同の于謹の下で楊氏壁を攻め、賀蘭祥は先頭に立ってこれを落とした。右衛将軍に転じ、持節・征虜将軍を加えられた。沙苑の戦いのときには、賀蘭祥は長安の留守を命じられた。まもなく鎮西将軍となった。538年、軍を率いて河橋で戦い、功績により使持節・大都督を加えられた。542年、車騎大将軍・儀同三司・散騎常侍に転じた。543年、宇文泰の下で東魏軍と邙山で戦い、驃騎大将軍・開府儀同三司に進み、侍中を加えられた。

548年、都督三荊二襄二広南雍平信隨江二郢析十五州諸軍事・荊州刺史に任ぜられ、博陵郡公に進んだ。荊州にあって善政で知られ、民情を安定させ、流民を定住させ、周辺の少数民族を帰順させた。また古墓の盗掘の風習をやめさせた。公私にわたって贈答を受けとらず、の岳陽王蕭詧が竹屏風や経書・史書を贈ってきたときも、役所に届けて取らなかった。宇文泰は後にこのことを聞いて、それらの贈物を賀蘭祥に与えた。

550年大将軍に任ぜられた。富平堰の建造をおこない、水路を開いて灌漑し、民用として利益を上げた。553年、行華州事をつとめた。後に華州を同州に改めると、賀蘭祥は同州刺史となった。まもなく尚書左僕射に任ぜられた。556年、六官が建てられると、小司馬に任ぜられた。557年、北周の孝閔帝が即位すると、賀蘭祥は柱国の位に進み、大司馬に転じた。賀蘭祥は宇文護の政権を支えて、軍事や国事に助言を与えた。趙貴が処刑され、孝閔帝が廃位されるにあたっても、賀蘭祥の力が大であった。

559年吐谷渾が涼州に侵入すると、賀蘭祥は宇文貴とともに兵を率いてこれを攻撃した。吐谷渾の広定王・鍾留王らと戦い、これを撃破した。洮陽・洪和の2城を抜き、その地を洮州とした。凱旋すると、涼国公に進んだ。

564年、享年48で死去した。使持節・太師・同岐等十二州諸軍事・同州刺史の位を贈られた。は景といった。開皇初年、さらに上柱国の位を追贈された。

7人の子があり、賀蘭敬・賀蘭譲・賀蘭璨・賀蘭師・賀蘭寛の名が知られた。

脚注

  1. ^ 賀蘭氏の出自は、東胡あるいは鮮卑テュルク系高車などの諸説があるが、定かではない。

伝記資料