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「宋顕」の版間の差分

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==経歴==
==経歴==
はじめ[[爾朱栄]]に仕えて軍主となり、抜擢されて長流参軍となった。[[永安 (北魏)|永安]]年間、前軍・襄垣太守に任ぜられ、記室参軍に転じた。[[元顥]]の平定に従い、平東将軍を加えられた。爾朱栄の死後、[[爾朱世隆]]らが[[洛陽]]に向かうと、宋顕は再び襄垣太守となった。[[531年]]、使持節・征北将軍・晋州刺史に転じた。後に[[高歓]]に帰順し、行台右丞となった。樊子鵠が兗州に拠って叛くと、前の西兗州刺史の乙弗瑗([[乙弗皇后]]の父)や譙郡太守の辛景威が五梁に拠って、樊子鵠に呼応した。宋顕は行西兗州事となり、軍を率いて乙弗瑗を斬り、辛景威を遁走させた。その後に西兗州刺史に任ぜられた。ときに梁州刺史の鹿永吉が梁州に拠って叛き、[[西魏]]が博陵王元約と趙郡王元景神を派遣して鹿永吉を迎えさせようとした。宋顕は西兗州の兵馬を率いて西魏軍を迎え撃ち、元約らを斬り、左衛将軍の[[斛律平]]と大梁で合流した。儀同三司に任ぜられた。[[538年]]8月、[[河橋・ボウ山の戦い|河橋の戦い]]で、敵中に深入りして、陣没した。司空公の位を追贈された。
はじめ[[爾朱栄]]に仕えて軍主となり、抜擢されて長流参軍となった。[[永安 (北魏)|永安]]年間、前軍・襄垣太守に任ぜられ、記室参軍に転じた。[[元顥]]の平定に従い、平東将軍を加えられた。爾朱栄の死後、[[爾朱世隆]]らが[[洛陽]]に向かうと、宋顕は再び襄垣太守となった。[[531年]]、使持節・征北将軍・晋州刺史に転じた。後に[[高歓]]に帰順し、行台右丞となった。樊子鵠が兗州に拠って叛くと、前の西兗州刺史の乙弗瑗([[乙弗皇后]]の父)や譙郡太守の辛景威が五梁に拠って、樊子鵠に呼応した。宋顕は行西兗州事となり、軍を率いて乙弗瑗を斬り、辛景威を遁走させた。その後に西兗州刺史に任ぜられた。ときに梁州刺史の鹿永吉が梁州に拠って叛き、[[西魏]]が博陵王元約と趙郡王元景神を派遣して鹿永吉を迎えさせようとした。宋顕は西兗州の兵馬を率いて西魏軍を迎え撃ち、元約らを斬り、左衛将軍の[[斛律平]]と大梁で合流した。儀同三司に任ぜられた。[[538年]]8月、[[河橋・山の戦い|河橋の戦い]]で、敵中に深入りして、陣没した。司空公の位を追贈された。


== 伝記資料 ==
== 伝記資料 ==

2020年8月17日 (月) 05:07時点における版

宋 顕(そう けん、生年不詳 - 538年)は、中国東魏軍人は仲華。本貫敦煌郡效穀県

経歴

はじめ爾朱栄に仕えて軍主となり、抜擢されて長流参軍となった。永安年間、前軍・襄垣太守に任ぜられ、記室参軍に転じた。元顥の平定に従い、平東将軍を加えられた。爾朱栄の死後、爾朱世隆らが洛陽に向かうと、宋顕は再び襄垣太守となった。531年、使持節・征北将軍・晋州刺史に転じた。後に高歓に帰順し、行台右丞となった。樊子鵠が兗州に拠って叛くと、前の西兗州刺史の乙弗瑗(乙弗皇后の父)や譙郡太守の辛景威が五梁に拠って、樊子鵠に呼応した。宋顕は行西兗州事となり、軍を率いて乙弗瑗を斬り、辛景威を遁走させた。その後に西兗州刺史に任ぜられた。ときに梁州刺史の鹿永吉が梁州に拠って叛き、西魏が博陵王元約と趙郡王元景神を派遣して鹿永吉を迎えさせようとした。宋顕は西兗州の兵馬を率いて西魏軍を迎え撃ち、元約らを斬り、左衛将軍の斛律平と大梁で合流した。儀同三司に任ぜられた。538年8月、河橋の戦いで、敵中に深入りして、陣没した。司空公の位を追贈された。

伝記資料