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「綦毋懐文」の版間の差分

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== 経歴と逸話 ==
== 経歴と逸話 ==
出身は知られていない。道術をもって[[高歓]]に仕えた。[[543年]]([[武定 (東魏)|武定]]元年)、[[ボウ山の戦い|邙山の戦い]]が起こった。ときに[[東魏]]軍の旗幟はすべて赤であり、[[西魏]]軍はすべて黒であった。そこで懐文は[[五行思想|五行相剋の説]]に基づいて、「赤は火色で、黒は水色です。水は火を滅ぼすことができるので、赤をもって黒に対するのはよろしくありません。土は水に勝つので、黄に改めるべきです」と高歓に勧めた。そこで高歓は旗幟を「河陽幡」と呼ばれる赭黄のものに改めた。
出身は知られていない。道術をもって[[高歓]]に仕えた。[[543年]]([[武定 (東魏)|武定]]元年)、[[邙山の戦い]]が起こった。ときに[[東魏]]軍の旗幟はすべて赤であり、[[西魏]]軍はすべて黒であった。そこで懐文は[[五行思想|五行相剋の説]]に基づいて、「赤は火色で、黒は水色です。水は火を滅ぼすことができるので、赤をもって黒に対するのはよろしくありません。土は水に勝つので、黄に改めるべきです」と高歓に勧めた。そこで高歓は旗幟を「河陽幡」と呼ばれる赭黄のものに改めた。


また懐文は'''宿鉄刀'''を造った。柔らかい地金を重ねて焼き入れし、数度繰り返して硬くした。軟鉄を刀背にして、家畜の尿を浴びせ、家畜の脂で焼きを入れた。完成した刀は鎧の重ね30枚を斬ったといわれる。
また懐文は'''宿鉄刀'''を造った。柔らかい地金を重ねて焼き入れし、数度繰り返して硬くした。軟鉄を刀背にして、家畜の尿を浴びせ、家畜の脂で焼きを入れた。完成した刀は鎧の重ね30枚を斬ったといわれる。

2020年8月17日 (月) 05:07時点における版

綦毋 懐文(きぶ かいぶん、生没年不詳)は、中国南北朝時代の刀匠・官僚綦母懐文(きぼ かいぶん)とも書かれる[1]襄国沙河の人。刀剣鍛造における灌鋼法の発明者。

経歴と逸話

出身は知られていない。道術をもって高歓に仕えた。543年武定元年)、邙山の戦いが起こった。ときに東魏軍の旗幟はすべて赤であり、西魏軍はすべて黒であった。そこで懐文は五行相剋の説に基づいて、「赤は火色で、黒は水色です。水は火を滅ぼすことができるので、赤をもって黒に対するのはよろしくありません。土は水に勝つので、黄に改めるべきです」と高歓に勧めた。そこで高歓は旗幟を「河陽幡」と呼ばれる赭黄のものに改めた。

また懐文は宿鉄刀を造った。柔らかい地金を重ねて焼き入れし、数度繰り返して硬くした。軟鉄を刀背にして、家畜の尿を浴びせ、家畜の脂で焼きを入れた。完成した刀は鎧の重ね30枚を斬ったといわれる。

また懐文は算術を得意とし、晋陽の館で棗の樹の実の数を概算してみせたことがあった。

懐文は官にあっては西河郡太守をつとめ、信州刺史に上った。また『魏書』十志の編纂にあたって、修史に名を連ねた[2]

伝記資料

脚註

  1. ^ 『北斉書』巻44・李鉉伝。
  2. ^ 『魏書』前上十志啓