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[[北魏]]の南平王府従事中郎・[[趙興郡]][[太守]]の蒋儁の子として生まれた。物静かな性格で、若い頃から天文玄象の学問を好んだ。[[宇文泰]]はかれを信任して、常に側近に控えさせ、顧問として用いた。[[537年]]([[大統]]3年)、[[東魏]]の将軍の[[竇泰]]が西魏への進攻を図り、風陵から[[黄河]]を渡って、[[潼関]]に軍を駐屯させた。宇文泰は軍馬を出して沢で草を食ませた。ときに西南に黄紫の気が太陽を抱擁するように現れた。宇文泰が何の予兆であるか蒋昇に訊ねると、蒋昇は「西南はまだ領有できておりませんので、土を主としております。土は四季の王であり、秦の分かれであります。いま大軍をすでに出して、喜気が下っておりますので、必ずや大慶がありましょう」と答えた。宇文泰が軍を進めて竇泰と戦うと、竇泰を捕らえることができた。この後、河東を下し、弘農を落とし、[[沙苑の戦い]]にも勝利した。このため宇文泰は蒋昇をますます礼遇するようになった。
[[北魏]]の南平王府従事中郎・[[趙興郡]][[太守]]の蒋儁の子として生まれた。物静かな性格で、若い頃から天文玄象の学問を好んだ。[[宇文泰]]はかれを信任して、常に側近に控えさせ、顧問として用いた。[[537年]]([[大統]]3年)、[[東魏]]の将軍の[[竇泰]]が西魏への進攻を図り、風陵から[[黄河]]を渡って、[[潼関]]に軍を駐屯させた。宇文泰は軍馬を出して沢で草を食ませた。ときに西南に黄紫の気が太陽を抱擁するように現れた。宇文泰が何の予兆であるか蒋昇に訊ねると、蒋昇は「西南はまだ領有できておりませんので、土を主としております。土は四季の王であり、秦の分かれであります。いま大軍をすでに出して、喜気が下っておりますので、必ずや大慶がありましょう」と答えた。宇文泰が軍を進めて竇泰と戦うと、竇泰を捕らえることができた。この後、河東を下し、弘農を落とし、[[沙苑の戦い]]にも勝利した。このため宇文泰は蒋昇をますます礼遇するようになった。


[[543年]](大統9年)、東魏の[[北豫州]][[刺史]]の[[高慎|高仲密]]が西魏に降ると、宇文泰が兵を派遣してこれを助けようとした。このことを蒋昇に諮問すると、蒋昇は「春に王が東にあらば、熒惑([[火星]])が井([[ふたご座]])と鬼([[かに座]])の分かれ目にあって、行軍によろしくありません」と答えた。宇文泰は聞き入れず、軍を東に向けたが、[[ボウ山の戦い|邙山の戦い]]に敗れて、撤退した。[[太師]]の[[賀抜勝]]は敗戦に怒って、不吉の言を吐いた蒋昇を処断しようとした。しかし宇文泰は「蒋昇は出戦を諫めてくれたもので、敗戦は自分の責任である」と言って、蒋昇の罪を問わなかった。
[[543年]](大統9年)、東魏の[[北豫州]][[刺史]]の[[高慎|高仲密]]が西魏に降ると、宇文泰が兵を派遣してこれを助けようとした。このことを蒋昇に諮問すると、蒋昇は「春に王が東にあらば、熒惑([[火星]])が井([[ふたご座]])と鬼([[かに座]])の分かれ目にあって、行軍によろしくありません」と答えた。宇文泰は聞き入れず、軍を東に向けたが、[[邙山の戦い]]に敗れて、撤退した。[[太師]]の[[賀抜勝]]は敗戦に怒って、不吉の言を吐いた蒋昇を処断しようとした。しかし宇文泰は「蒋昇は出戦を諫めてくれたもので、敗戦は自分の責任である」と言って、蒋昇の罪を問わなかった。


[[554年]]([[恭帝 (西魏)|恭帝]]元年)、前後の功績により、蒋昇は車騎大将軍・[[儀同三司]]の位を受け、高城県子に封じられた。[[562年]]([[保定 (北周)|保定]]2年)、[[河東郡 (中国)|河東郡]]太守に任じられた。ほどなく入朝して太史中大夫となった。老齢を理由に致仕を願い出て許された。[[定州]]刺史の位を加えられ、家で死去した。
[[554年]]([[恭帝 (西魏)|恭帝]]元年)、前後の功績により、蒋昇は車騎大将軍・[[儀同三司]]の位を受け、高城県子に封じられた。[[562年]]([[保定 (北周)|保定]]2年)、[[河東郡 (中国)|河東郡]]太守に任じられた。ほどなく入朝して太史中大夫となった。老齢を理由に致仕を願い出て許された。[[定州]]刺史の位を加えられ、家で死去した。

2020年8月17日 (月) 05:07時点における最新版

蔣 昇(しょう しょう、生没年不詳)は、中国西魏北周天文家・占術家・官僚は鳳起。本貫楚郡平阿県

経歴

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北魏の南平王府従事中郎・趙興郡太守の蒋儁の子として生まれた。物静かな性格で、若い頃から天文玄象の学問を好んだ。宇文泰はかれを信任して、常に側近に控えさせ、顧問として用いた。537年大統3年)、東魏の将軍の竇泰が西魏への進攻を図り、風陵から黄河を渡って、潼関に軍を駐屯させた。宇文泰は軍馬を出して沢で草を食ませた。ときに西南に黄紫の気が太陽を抱擁するように現れた。宇文泰が何の予兆であるか蒋昇に訊ねると、蒋昇は「西南はまだ領有できておりませんので、土を主としております。土は四季の王であり、秦の分かれであります。いま大軍をすでに出して、喜気が下っておりますので、必ずや大慶がありましょう」と答えた。宇文泰が軍を進めて竇泰と戦うと、竇泰を捕らえることができた。この後、河東を下し、弘農を落とし、沙苑の戦いにも勝利した。このため宇文泰は蒋昇をますます礼遇するようになった。

543年(大統9年)、東魏の北豫州刺史高仲密が西魏に降ると、宇文泰が兵を派遣してこれを助けようとした。このことを蒋昇に諮問すると、蒋昇は「春に王が東にあらば、熒惑(火星)が井(ふたご座)と鬼(かに座)の分かれ目にあって、行軍によろしくありません」と答えた。宇文泰は聞き入れず、軍を東に向けたが、邙山の戦いに敗れて、撤退した。太師賀抜勝は敗戦に怒って、不吉の言を吐いた蒋昇を処断しようとした。しかし宇文泰は「蒋昇は出戦を諫めてくれたもので、敗戦は自分の責任である」と言って、蒋昇の罪を問わなかった。

554年恭帝元年)、前後の功績により、蒋昇は車騎大将軍・儀同三司の位を受け、高城県子に封じられた。562年保定2年)、河東郡太守に任じられた。ほどなく入朝して太史中大夫となった。老齢を理由に致仕を願い出て許された。定州刺史の位を加えられ、家で死去した。

伝記資料

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