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== 経歴 ==
== 経歴 ==
陳興孫の子として生まれた。若くして勇敢で侠気があり、容貌魁偉で、同輩の尊敬を集めた。[[534年]]([[永熙 (北魏)|永熙]]3年)、[[孝武帝 (北魏)|孝武帝]]が[[関中]]に入ると、陳忻は辟悪山で少年数十人を集めて、[[東魏]]に対して起兵した。[[535年]]([[大統]]元年)、西魏の持節・伏波将軍・羽林監・立義大都督に任じられ、覇城県男の爵位を受けた。[[537年]](大統3年)、[[宇文泰]]が弘農を奪回し、東魏の[[揚州 (古代)|揚州]][[刺史]]の段琛が城を放棄して逃走した。陳忻は兵を率いて九曲道で東魏軍を迎え撃ち、新安県令の張祗を捕らえた。このため行新安県事をつとめた。[[独孤信]]が[[洛陽]]に入ると、陳忻は[[李延孫]]を先鋒に推挙し、自身は金墉城を守備した。[[538年]](大統4年)、洛陽を失陥すると、関中に帰還し、再び行新安県事をつとめた。東魏が牛道恒を[[熊州 (河南省)|陽州]]刺史として派遣すると、陳忻は兵を率いて牛道恒を撃破し、爵位は子爵に進んだ。崤東の諸将に従って伊水・洛水の間を転戦し、功績を挙げた。[[543年]](大統9年)、[[李遠]]とともに[[高慎|高仲密]]を迎え、[[ボウ山の戦い|邙山の戦い]]に参戦した。西魏軍が敗れて関中に帰還すると、陳忻は[[韓雄]]らとともに山を拠点に東魏の3城を落とし、その[[金門郡]][[太守]]の方台洛を斬った。まもなく行宜陽郡事として赴任した。東魏が劉瓫生を金門郡太守として派遣してくると、陳忻は劉瓫生を斬った。鎮遠将軍・[[魏郡]]太守に任じられた。まもなく使持節・平東将軍・[[顕州]]刺史に任じられた。[[544年]](大統10年)、東魏の[[侯景]]が九曲城を築くと、陳忻はこれを迎え撃って、東魏の宜陽郡太守の趙嵩や金門郡太守の楽敬賓を捕らえた。[[547年]](大統13年)、李遠の下で九曲城を落とし、都督に任じられた。東魏の将の爾朱渾願が騎兵3000を率いて宜陽に来攻すると、陳忻は西魏の諸将とともにこれを迎え撃って撃退した。[[549年]](大統15年)、宜陽郡太守に任じられ、大都督・撫軍将軍の位を加えられた。[[550年]](大統16年)、車騎大将軍・[[儀同三司]]・散騎常侍の位に進んだ。[[北斉]]の将の東方老と石泉で戦って撃破した。
陳興孫の子として生まれた。若くして勇敢で侠気があり、容貌魁偉で、同輩の尊敬を集めた。[[534年]]([[永熙 (北魏)|永熙]]3年)、[[孝武帝 (北魏)|孝武帝]]が[[関中]]に入ると、陳忻は辟悪山で少年数十人を集めて、[[東魏]]に対して起兵した。[[535年]]([[大統]]元年)、西魏の持節・伏波将軍・羽林監・立義大都督に任じられ、覇城県男の爵位を受けた。[[537年]](大統3年)、[[宇文泰]]が弘農を奪回し、東魏の[[揚州 (古代)|揚州]][[刺史]]の段琛が城を放棄して逃走した。陳忻は兵を率いて九曲道で東魏軍を迎え撃ち、新安県令の張祗を捕らえた。このため行新安県事をつとめた。[[独孤信]]が[[洛陽]]に入ると、陳忻は[[李延孫]]を先鋒に推挙し、自身は金墉城を守備した。[[538年]](大統4年)、洛陽を失陥すると、関中に帰還し、再び行新安県事をつとめた。東魏が牛道恒を[[熊州 (河南省)|陽州]]刺史として派遣すると、陳忻は兵を率いて牛道恒を撃破し、爵位は子爵に進んだ。崤東の諸将に従って伊水・洛水の間を転戦し、功績を挙げた。[[543年]](大統9年)、[[李遠]]とともに[[高慎|高仲密]]を迎え、[[邙山の戦い]]に参戦した。西魏軍が敗れて関中に帰還すると、陳忻は[[韓雄]]らとともに山を拠点に東魏の3城を落とし、その[[金門郡]][[太守]]の方台洛を斬った。まもなく行宜陽郡事として赴任した。東魏が劉瓫生を金門郡太守として派遣してくると、陳忻は劉瓫生を斬った。鎮遠将軍・[[魏郡]]太守に任じられた。まもなく使持節・平東将軍・[[顕州]]刺史に任じられた。[[544年]](大統10年)、東魏の[[侯景]]が九曲城を築くと、陳忻はこれを迎え撃って、東魏の宜陽郡太守の趙嵩や金門郡太守の楽敬賓を捕らえた。[[547年]](大統13年)、李遠の下で九曲城を落とし、都督に任じられた。東魏の将の爾朱渾願が騎兵3000を率いて宜陽に来攻すると、陳忻は西魏の諸将とともにこれを迎え撃って撃退した。[[549年]](大統15年)、宜陽郡太守に任じられ、大都督・撫軍将軍の位を加えられた。[[550年]](大統16年)、車騎大将軍・[[儀同三司]]・散騎常侍の位に進んだ。[[北斉]]の将の東方老と石泉で戦って撃破した。


[[554年]]([[恭帝 (西魏)|魏恭帝]]元年)、開府の斛斯璉らとともに北斉の将の[[段韶]]と九曲で戦って撃破した。[[555年]](恭帝2年)、驃騎大将軍・[[開府儀同三司]]の位に進み、[[侍中]]を加えられた。この年、宜陽邑大中正となり、尉遅氏の姓を賜った。北斉の[[商州|洛州]]刺史の[[独孤永業]]と対峙し、韓雄らと連携して間諜をめぐらして北斉の動静をうかがい、北斉軍の来攻のあるたびにこれを撃退した。
[[554年]]([[恭帝 (西魏)|魏恭帝]]元年)、開府の斛斯璉らとともに北斉の将の[[段韶]]と九曲で戦って撃破した。[[555年]](恭帝2年)、驃騎大将軍・[[開府儀同三司]]の位に進み、[[侍中]]を加えられた。この年、宜陽邑大中正となり、尉遅氏の姓を賜った。北斉の[[商州|洛州]]刺史の[[独孤永業]]と対峙し、韓雄らと連携して間諜をめぐらして北斉の動静をうかがい、北斉軍の来攻のあるたびにこれを撃退した。

2020年8月17日 (月) 05:06時点における最新版

陳 忻(ちん きん、? - 566年)は、西魏北周軍人は永怡。本貫宜陽郡

経歴

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陳興孫の子として生まれた。若くして勇敢で侠気があり、容貌魁偉で、同輩の尊敬を集めた。534年永熙3年)、孝武帝関中に入ると、陳忻は辟悪山で少年数十人を集めて、東魏に対して起兵した。535年大統元年)、西魏の持節・伏波将軍・羽林監・立義大都督に任じられ、覇城県男の爵位を受けた。537年(大統3年)、宇文泰が弘農を奪回し、東魏の揚州刺史の段琛が城を放棄して逃走した。陳忻は兵を率いて九曲道で東魏軍を迎え撃ち、新安県令の張祗を捕らえた。このため行新安県事をつとめた。独孤信洛陽に入ると、陳忻は李延孫を先鋒に推挙し、自身は金墉城を守備した。538年(大統4年)、洛陽を失陥すると、関中に帰還し、再び行新安県事をつとめた。東魏が牛道恒を陽州刺史として派遣すると、陳忻は兵を率いて牛道恒を撃破し、爵位は子爵に進んだ。崤東の諸将に従って伊水・洛水の間を転戦し、功績を挙げた。543年(大統9年)、李遠とともに高仲密を迎え、邙山の戦いに参戦した。西魏軍が敗れて関中に帰還すると、陳忻は韓雄らとともに山を拠点に東魏の3城を落とし、その金門郡太守の方台洛を斬った。まもなく行宜陽郡事として赴任した。東魏が劉瓫生を金門郡太守として派遣してくると、陳忻は劉瓫生を斬った。鎮遠将軍・魏郡太守に任じられた。まもなく使持節・平東将軍・顕州刺史に任じられた。544年(大統10年)、東魏の侯景が九曲城を築くと、陳忻はこれを迎え撃って、東魏の宜陽郡太守の趙嵩や金門郡太守の楽敬賓を捕らえた。547年(大統13年)、李遠の下で九曲城を落とし、都督に任じられた。東魏の将の爾朱渾願が騎兵3000を率いて宜陽に来攻すると、陳忻は西魏の諸将とともにこれを迎え撃って撃退した。549年(大統15年)、宜陽郡太守に任じられ、大都督・撫軍将軍の位を加えられた。550年(大統16年)、車騎大将軍・儀同三司・散騎常侍の位に進んだ。北斉の将の東方老と石泉で戦って撃破した。

554年魏恭帝元年)、開府の斛斯璉らとともに北斉の将の段韶と九曲で戦って撃破した。555年(恭帝2年)、驃騎大将軍・開府儀同三司の位に進み、侍中を加えられた。この年、宜陽邑大中正となり、尉遅氏の姓を賜った。北斉の洛州刺史の独孤永業と対峙し、韓雄らと連携して間諜をめぐらして北斉の動静をうかがい、北斉軍の来攻のあるたびにこれを撃退した。

557年孝閔帝元年)、北周が建国されると、陳忻は入朝して爵位は伯に進み、さらに許昌県公に進んだ。559年武成元年)、熊州刺史に任じられた。また開府の勅勒慶とともに北斉の将の王鸞嵩を撃破した。そのまま柱国の陸通の下で石泉城を奪回した。566年天和元年)、在官のまま死去した。

子の陳万敵が後を嗣いだ。

伝記資料

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