コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「李ヒョウ」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
 
5行目: 5行目:
[[北魏]]の太中大夫の李永の子として生まれた。身長は5[[尺]]に満たなかったが、性格は果断で、胆気があった。若くして[[爾朱栄]]に仕えた。[[528年]]、兼別将として従軍して[[元顥]]を破り、討逆将軍に任ぜられた。[[530年]]、爾朱栄が殺害されると、李檦は[[爾朱世隆]]に従って[[河北]]に逃れた。[[爾朱兆]]に従って再び入洛した。淝城郡男の爵位を受け、都督に転じた。[[531年]]、[[元樹]]が[[梁 (南朝)|梁]]から入国して譙城に拠ると、李檦は行台の樊子鵠に従って元樹を撃破し、右将軍に転じた。
[[北魏]]の太中大夫の李永の子として生まれた。身長は5[[尺]]に満たなかったが、性格は果断で、胆気があった。若くして[[爾朱栄]]に仕えた。[[528年]]、兼別将として従軍して[[元顥]]を破り、討逆将軍に任ぜられた。[[530年]]、爾朱栄が殺害されると、李檦は[[爾朱世隆]]に従って[[河北]]に逃れた。[[爾朱兆]]に従って再び入洛した。淝城郡男の爵位を受け、都督に転じた。[[531年]]、[[元樹]]が[[梁 (南朝)|梁]]から入国して譙城に拠ると、李檦は行台の樊子鵠に従って元樹を撃破し、右将軍に転じた。


[[534年]]、[[孝武帝 (北魏)|孝武帝]]が[[関中]]に入ると、李檦は大都督の[[元斌之]]の下で従軍し、[[高歓]]と成皋で戦った。敗れて、元斌之とともに梁に逃れた。梁の[[蕭衍|武帝]]により賓客として遇されたが、後に逃げ帰った。[[535年]]、西魏の[[文帝 (西魏)|文帝]]が立つと、撫軍将軍に任ぜられ、晋陽県子に進んだ。まもなく[[宇文泰]]の下で帳内都督となった。従軍して弘農を落とし、沙苑で[[東魏]]軍を破った。短躯のため、馬に乗ると鞍と甲のあいだに身が隠れるほどであり、小児と侮られたが、果敢な戦いぶりで戦果を挙げて宇文泰を感嘆させた。功績により爵位は公に進んだ。まもなく[[宇文貴]]に従って潁川で東魏の将の任祥・[[堯雄]]らと戦い、これを破った。長安に召し出されて太子中庶子となった。[[543年]]、[[ボウ山の戦い|邙山の戦い]]に出陣し、持節・大都督に転じた。[[547年]]、車騎大将軍・儀同三司に任ぜられた。李弼の下で[[稽胡]]を討ち、功績により[[幽州]][[刺史]]に任ぜられた。[[549年]]、驃騎大将軍・[[開府儀同三司]]に上った。[[552年]]、[[趙貴]]の下で[[柔然]]を討ち、功績第一として封山県公に改封された。[[557年]]、北周の[[孝閔帝]]が即位すると、[[大将軍]]に進んだ。[[559年]]、[[豆盧寧]]の下で[[稽胡]]を討ち、勝利をおさめて凱旋した。汝南郡公に進んだ。総管延綏丹三州諸軍事・延州刺史として出向した。[[564年]]、延州で死去した。恒朔等五州刺史の位を追贈された。
[[534年]]、[[孝武帝 (北魏)|孝武帝]]が[[関中]]に入ると、李檦は大都督の[[元斌之]]の下で従軍し、[[高歓]]と成皋で戦った。敗れて、元斌之とともに梁に逃れた。梁の[[蕭衍|武帝]]により賓客として遇されたが、後に逃げ帰った。[[535年]]、西魏の[[文帝 (西魏)|文帝]]が立つと、撫軍将軍に任ぜられ、晋陽県子に進んだ。まもなく[[宇文泰]]の下で帳内都督となった。従軍して弘農を落とし、沙苑で[[東魏]]軍を破った。短躯のため、馬に乗ると鞍と甲のあいだに身が隠れるほどであり、小児と侮られたが、果敢な戦いぶりで戦果を挙げて宇文泰を感嘆させた。功績により爵位は公に進んだ。まもなく[[宇文貴]]に従って潁川で東魏の将の任祥・[[堯雄]]らと戦い、これを破った。長安に召し出されて太子中庶子となった。[[543年]]、[[邙山の戦い]]に出陣し、持節・大都督に転じた。[[547年]]、車騎大将軍・儀同三司に任ぜられた。李弼の下で[[稽胡]]を討ち、功績により[[幽州]][[刺史]]に任ぜられた。[[549年]]、驃騎大将軍・[[開府儀同三司]]に上った。[[552年]]、[[趙貴]]の下で[[柔然]]を討ち、功績第一として封山県公に改封された。[[557年]]、北周の[[孝閔帝]]が即位すると、[[大将軍]]に進んだ。[[559年]]、[[豆盧寧]]の下で[[稽胡]]を討ち、勝利をおさめて凱旋した。汝南郡公に進んだ。総管延綏丹三州諸軍事・延州刺史として出向した。[[564年]]、延州で死去した。恒朔等五州刺史の位を追贈された。


子がなく、李弼の子の[[李椿]]が後を嗣いだ。
子がなく、李弼の子の[[李椿]]が後を嗣いだ。

2020年8月17日 (月) 05:04時点における最新版

李 檦(り ひょう、? - 564年)は、中国西魏から北周にかけての武人。李弼の弟。は霊傑。本貫遼東郡襄平県

経歴

[編集]

北魏の太中大夫の李永の子として生まれた。身長は5に満たなかったが、性格は果断で、胆気があった。若くして爾朱栄に仕えた。528年、兼別将として従軍して元顥を破り、討逆将軍に任ぜられた。530年、爾朱栄が殺害されると、李檦は爾朱世隆に従って河北に逃れた。爾朱兆に従って再び入洛した。淝城郡男の爵位を受け、都督に転じた。531年元樹から入国して譙城に拠ると、李檦は行台の樊子鵠に従って元樹を撃破し、右将軍に転じた。

534年孝武帝関中に入ると、李檦は大都督の元斌之の下で従軍し、高歓と成皋で戦った。敗れて、元斌之とともに梁に逃れた。梁の武帝により賓客として遇されたが、後に逃げ帰った。535年、西魏の文帝が立つと、撫軍将軍に任ぜられ、晋陽県子に進んだ。まもなく宇文泰の下で帳内都督となった。従軍して弘農を落とし、沙苑で東魏軍を破った。短躯のため、馬に乗ると鞍と甲のあいだに身が隠れるほどであり、小児と侮られたが、果敢な戦いぶりで戦果を挙げて宇文泰を感嘆させた。功績により爵位は公に進んだ。まもなく宇文貴に従って潁川で東魏の将の任祥・堯雄らと戦い、これを破った。長安に召し出されて太子中庶子となった。543年邙山の戦いに出陣し、持節・大都督に転じた。547年、車騎大将軍・儀同三司に任ぜられた。李弼の下で稽胡を討ち、功績により幽州刺史に任ぜられた。549年、驃騎大将軍・開府儀同三司に上った。552年趙貴の下で柔然を討ち、功績第一として封山県公に改封された。557年、北周の孝閔帝が即位すると、大将軍に進んだ。559年豆盧寧の下で稽胡を討ち、勝利をおさめて凱旋した。汝南郡公に進んだ。総管延綏丹三州諸軍事・延州刺史として出向した。564年、延州で死去した。恒朔等五州刺史の位を追贈された。

子がなく、李弼の子の李椿が後を嗣いだ。

伝記資料

[編集]