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爾朱天光が[[洛陽]]に赴くと、李弼は[[侯莫陳悦]]の下で大都督となり、通直散騎常侍を加えられた。[[532年]]、[[清水郡]][[太守]]に任じられ、[[恒州]]大中正となった。まもなく[[南秦州]][[刺史]]に任じられた。[[534年]]、侯莫陳悦が賀抜岳を殺害すると、李弼は軍を隴上にとどめた。[[宇文泰]]が平涼から進軍して侯莫陳悦を討とうとした。李弼は侯莫陳悦に武装解除して謝罪するよう勧めたが、聞き入れられなかった。侯莫陳悦の敗北は必至とみて、李弼はひそかに宇文泰と連絡した。侯莫陳悦は[[秦州]]を放棄して、南方の険阻な土地に拠るべく移動しようとしたが、李弼は侯莫陳悦の部下たちを扇動して逆に秦州へと向かわせた。李弼は部下たちを率いて宇文泰に降伏し、侯莫陳悦は孤立して敗れた。宇文泰の命により李弼は本官のまま[[原州]]に駐屯した。まもなく秦州刺史に任じられた。 |
爾朱天光が[[洛陽]]に赴くと、李弼は[[侯莫陳悦]]の下で大都督となり、通直散騎常侍を加えられた。[[532年]]、[[清水郡]][[太守]]に任じられ、[[恒州]]大中正となった。まもなく[[南秦州]][[刺史]]に任じられた。[[534年]]、侯莫陳悦が賀抜岳を殺害すると、李弼は軍を隴上にとどめた。[[宇文泰]]が平涼から進軍して侯莫陳悦を討とうとした。李弼は侯莫陳悦に武装解除して謝罪するよう勧めたが、聞き入れられなかった。侯莫陳悦の敗北は必至とみて、李弼はひそかに宇文泰と連絡した。侯莫陳悦は[[秦州]]を放棄して、南方の険阻な土地に拠るべく移動しようとしたが、李弼は侯莫陳悦の部下たちを扇動して逆に秦州へと向かわせた。李弼は部下たちを率いて宇文泰に降伏し、侯莫陳悦は孤立して敗れた。宇文泰の命により李弼は本官のまま[[原州]]に駐屯した。まもなく秦州刺史に任じられた。 |
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宇文泰が兵を率いて東方に向かうと、李弼は大都督となり、右軍を率いて、[[潼関]]と迴洛城を攻撃し勝利した。[[535年]]、西魏の[[文帝 (西魏)|文帝]]が即位すると、儀同三司・[[雍州]]刺史に進んだ。まもなくさらに驃騎大将軍・開府儀同三司に進んだ。[[537年]]、[[東魏]]の[[竇泰]]と戦って先鋒に立ち、戦功が多く、宇文泰の乗馬と竇泰の着ていた甲を賜った。また弘農平定に従った。東魏の[[高歓]]と[[沙苑の戦い|沙苑]]で戦ったとき、李弼は西魏軍の右軍にあり、左軍が東魏軍に圧されて後退すると、李弼は麾下の60騎を率いて東魏軍を横断するように突撃し、このために東魏軍は分断され、西魏側が勝利をえた。功績により特進に任ぜられ、趙郡公の爵位を受けた。また[[賀抜勝]]とともに河東を攻め落とし、汾州・絳州を落とした。[[538年]]、宇文泰の下で洛陽を攻撃し、先鋒に立った。ときに東魏の将の莫多婁貸文が数千を率いて穀城に入った。李弼は麾下の軍士に大音響を上げさせ、柴を引きずらせて塵を巻き上げながら接近させた。莫多婁貸文は西魏の大軍がやってきたと錯覚して逃走した。李弼はこれを追撃して、莫多婁貸文を斬り、首を本軍に届けた。翌日、宇文泰の下で高歓と河橋で戦い、身体に7カ所の傷を負いながら敵陣に深入りし、捕らえられた。李弼は重傷のふりをして地に倒れこみ、監視者の油断している隙をみて躍りあがって馬を奪うと、西方に馬を駆けさせて脱出した。[[539年]]、[[司空]]に転じた。[[540年]]、東魏の[[侯景]]が[[荊州]]に入ると、李弼は[[独孤信]]とともに防御にあたり、侯景を撤退させた。[[543年]]、[[ |
宇文泰が兵を率いて東方に向かうと、李弼は大都督となり、右軍を率いて、[[潼関]]と迴洛城を攻撃し勝利した。[[535年]]、西魏の[[文帝 (西魏)|文帝]]が即位すると、儀同三司・[[雍州]]刺史に進んだ。まもなくさらに驃騎大将軍・開府儀同三司に進んだ。[[537年]]、[[東魏]]の[[竇泰]]と戦って先鋒に立ち、戦功が多く、宇文泰の乗馬と竇泰の着ていた甲を賜った。また弘農平定に従った。東魏の[[高歓]]と[[沙苑の戦い|沙苑]]で戦ったとき、李弼は西魏軍の右軍にあり、左軍が東魏軍に圧されて後退すると、李弼は麾下の60騎を率いて東魏軍を横断するように突撃し、このために東魏軍は分断され、西魏側が勝利をえた。功績により特進に任ぜられ、趙郡公の爵位を受けた。また[[賀抜勝]]とともに河東を攻め落とし、汾州・絳州を落とした。[[538年]]、宇文泰の下で洛陽を攻撃し、先鋒に立った。ときに東魏の将の莫多婁貸文が数千を率いて穀城に入った。李弼は麾下の軍士に大音響を上げさせ、柴を引きずらせて塵を巻き上げながら接近させた。莫多婁貸文は西魏の大軍がやってきたと錯覚して逃走した。李弼はこれを追撃して、莫多婁貸文を斬り、首を本軍に届けた。翌日、宇文泰の下で高歓と河橋で戦い、身体に7カ所の傷を負いながら敵陣に深入りし、捕らえられた。李弼は重傷のふりをして地に倒れこみ、監視者の油断している隙をみて躍りあがって馬を奪うと、西方に馬を駆けさせて脱出した。[[539年]]、[[司空]]に転じた。[[540年]]、東魏の[[侯景]]が[[荊州]]に入ると、李弼は[[独孤信]]とともに防御にあたり、侯景を撤退させた。[[543年]]、[[邙山の戦い]]に出陣し、[[太尉]]に転じた。[[547年]]、侯景が河南の六州をもって西魏につくと、東魏の[[韓軌]]が侯景を潁川に包囲した。宇文泰は侯景への援軍として李弼を向かわせた。李弼が到着すると、韓軌は撤退した。[[王思政]]が潁川に入ると、李弼は帰還した。[[548年]]、北の[[稽胡]]が叛くと、李弼はこれを平定した。[[太保]]に転じ、柱国大将軍を加えられた。[[552年]]、徒河氏の姓を受けた。宇文泰が西巡すると、李弼は留守を守った。六官が建てられると、[[太傅]]・[[大司徒]]に任じられた。[[柔然]]が[[突厥]]の圧迫を受けて西魏に服従すると、李弼は前軍を率いて迎えた。[[宇文護]]が政権を握ると、[[于謹]]と李弼らが参議となった。[[北周]]の[[孝閔帝]]が即位すると、[[太師]]に任じられ、趙国公に進んだ。[[557年]]10月、在職のまま64歳で死去した。[[諡]]を武といい、魏国公に追封された。 |
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== 子女 == |
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2020年8月17日 (月) 05:04時点における版
李 弼(り ひつ、494年 - 557年)は、中国の西魏の軍人。八柱国の1人。字は景和。本貫は遼東郡襄平県。
経歴
北魏の太中大夫の李永の子として生まれた。528年、爾朱天光に召されて別将となり、その下で関中に入って、赤水蜀を破った。功績により征虜将軍に任じられ、石門県伯に封じられた。また賀抜岳とともに万俟醜奴・万俟道洛・王慶雲らを討ち、みな撃破した。李弼は常に軍の先鋒に立って戦い、「李将軍の前に当たる者なし」と恐れられた。
爾朱天光が洛陽に赴くと、李弼は侯莫陳悦の下で大都督となり、通直散騎常侍を加えられた。532年、清水郡太守に任じられ、恒州大中正となった。まもなく南秦州刺史に任じられた。534年、侯莫陳悦が賀抜岳を殺害すると、李弼は軍を隴上にとどめた。宇文泰が平涼から進軍して侯莫陳悦を討とうとした。李弼は侯莫陳悦に武装解除して謝罪するよう勧めたが、聞き入れられなかった。侯莫陳悦の敗北は必至とみて、李弼はひそかに宇文泰と連絡した。侯莫陳悦は秦州を放棄して、南方の険阻な土地に拠るべく移動しようとしたが、李弼は侯莫陳悦の部下たちを扇動して逆に秦州へと向かわせた。李弼は部下たちを率いて宇文泰に降伏し、侯莫陳悦は孤立して敗れた。宇文泰の命により李弼は本官のまま原州に駐屯した。まもなく秦州刺史に任じられた。
宇文泰が兵を率いて東方に向かうと、李弼は大都督となり、右軍を率いて、潼関と迴洛城を攻撃し勝利した。535年、西魏の文帝が即位すると、儀同三司・雍州刺史に進んだ。まもなくさらに驃騎大将軍・開府儀同三司に進んだ。537年、東魏の竇泰と戦って先鋒に立ち、戦功が多く、宇文泰の乗馬と竇泰の着ていた甲を賜った。また弘農平定に従った。東魏の高歓と沙苑で戦ったとき、李弼は西魏軍の右軍にあり、左軍が東魏軍に圧されて後退すると、李弼は麾下の60騎を率いて東魏軍を横断するように突撃し、このために東魏軍は分断され、西魏側が勝利をえた。功績により特進に任ぜられ、趙郡公の爵位を受けた。また賀抜勝とともに河東を攻め落とし、汾州・絳州を落とした。538年、宇文泰の下で洛陽を攻撃し、先鋒に立った。ときに東魏の将の莫多婁貸文が数千を率いて穀城に入った。李弼は麾下の軍士に大音響を上げさせ、柴を引きずらせて塵を巻き上げながら接近させた。莫多婁貸文は西魏の大軍がやってきたと錯覚して逃走した。李弼はこれを追撃して、莫多婁貸文を斬り、首を本軍に届けた。翌日、宇文泰の下で高歓と河橋で戦い、身体に7カ所の傷を負いながら敵陣に深入りし、捕らえられた。李弼は重傷のふりをして地に倒れこみ、監視者の油断している隙をみて躍りあがって馬を奪うと、西方に馬を駆けさせて脱出した。539年、司空に転じた。540年、東魏の侯景が荊州に入ると、李弼は独孤信とともに防御にあたり、侯景を撤退させた。543年、邙山の戦いに出陣し、太尉に転じた。547年、侯景が河南の六州をもって西魏につくと、東魏の韓軌が侯景を潁川に包囲した。宇文泰は侯景への援軍として李弼を向かわせた。李弼が到着すると、韓軌は撤退した。王思政が潁川に入ると、李弼は帰還した。548年、北の稽胡が叛くと、李弼はこれを平定した。太保に転じ、柱国大将軍を加えられた。552年、徒河氏の姓を受けた。宇文泰が西巡すると、李弼は留守を守った。六官が建てられると、太傅・大司徒に任じられた。柔然が突厥の圧迫を受けて西魏に服従すると、李弼は前軍を率いて迎えた。宇文護が政権を握ると、于謹と李弼らが参議となった。北周の孝閔帝が即位すると、太師に任じられ、趙国公に進んだ。557年10月、在職のまま64歳で死去した。諡を武といい、魏国公に追封された。