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「叱列平」の版間の差分

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代々にわたって酋帥をつとめた家柄に生まれた。容貌にすぐれ、ひげが美しく、騎射を得意とした。第一領民酋長・臨江伯の位を継いだ。[[523年]]、[[破六韓抜陵]]が乱を起こし、[[柔然]]の残党が馬邑に侵入すると、叱列平は軍を率いて、戦功を挙げ、別将に任ぜられた。後に牧子の乱が起こり、劉胡崙・斛律可那律らが叛くと、叱列平は[[都督]]となって、劉胡崙らを討ち平げた。[[528年]]、武衛将軍に任ぜられた。[[爾朱栄]]に従って[[葛栄]]を破り、[[元顥]]を平定し、中軍都督・右衛将軍に転じ、廮陶県伯に封ぜられた。[[530年]]、爾朱栄が死ぬと、叱列平は爾朱栄の妻や[[爾朱世隆]]らとともに北に逃れた。長広王[[元曄]]が即位すると、右衛将軍に任ぜられ、京畿大都督を加えられた。
代々にわたって酋帥をつとめた家柄に生まれた。容貌にすぐれ、ひげが美しく、騎射を得意とした。第一領民酋長・臨江伯の位を継いだ。[[523年]]、[[破六韓抜陵]]が乱を起こし、[[柔然]]の残党が馬邑に侵入すると、叱列平は軍を率いて、戦功を挙げ、別将に任ぜられた。後に牧子の乱が起こり、劉胡崙・斛律可那律らが叛くと、叱列平は[[都督]]となって、劉胡崙らを討ち平げた。[[528年]]、武衛将軍に任ぜられた。[[爾朱栄]]に従って[[葛栄]]を破り、[[元顥]]を平定し、中軍都督・右衛将軍に転じ、廮陶県伯に封ぜられた。[[530年]]、爾朱栄が死ぬと、叱列平は爾朱栄の妻や[[爾朱世隆]]らとともに北に逃れた。長広王[[元曄]]が即位すると、右衛将軍に任ぜられ、京畿大都督を加えられた。


[[531年]]、[[高歓]]が信都で起兵すると、叱列平は高歓に帰順した。[[532年]]、[[鄴]]に対する攻撃に従い、韓陵で爾朱氏を討った。[[爾朱仲遠]]が敗走すると、叱列平は東郡大行台となった。[[爾朱兆]]を討ち、また[[婁昭]]の下で樊子鵠を平定した。使持節・華州[[刺史]]に任ぜられた。[[543年]]、[[高慎|高仲密]]が乱を起こすと、叱列平は高歓の下で[[ボウ山の戦い|邙山]]に戦い、[[宇文泰]]を破った。廓州刺史に任ぜられた。[[547年]]、儀同三司の位を加えられ、河陽に駐屯した。[[550年]]、爵位を侯に進めた。北斉が建てられると、兗州刺史に任ぜられ、間もなく開府を加えられ、臨洮県子の別封を受けた。[[552年]]、諸将とともに南征し、陽平郡を落とした。[[陳 (南朝)|陳]]軍が広陵を包囲したが、叱列平は河南の諸軍を率いて救援に赴き、陳軍が撤退したので、帰還した。[[554年]]夏、51歳で兗州に死去した。都督瀛滄幽三州諸軍事・瀛州刺史・中書監の位を追贈され、[[諡]]を荘恵といった。子の叱列孝中が後を嗣いだ。
[[531年]]、[[高歓]]が信都で起兵すると、叱列平は高歓に帰順した。[[532年]]、[[鄴]]に対する攻撃に従い、韓陵で爾朱氏を討った。[[爾朱仲遠]]が敗走すると、叱列平は東郡大行台となった。[[爾朱兆]]を討ち、また[[婁昭]]の下で樊子鵠を平定した。使持節・華州[[刺史]]に任ぜられた。[[543年]]、[[高慎|高仲密]]が乱を起こすと、叱列平は高歓の下で[[山の戦い|邙山]]に戦い、[[宇文泰]]を破った。廓州刺史に任ぜられた。[[547年]]、儀同三司の位を加えられ、河陽に駐屯した。[[550年]]、爵位を侯に進めた。北斉が建てられると、兗州刺史に任ぜられ、間もなく開府を加えられ、臨洮県子の別封を受けた。[[552年]]、諸将とともに南征し、陽平郡を落とした。[[陳 (南朝)|陳]]軍が広陵を包囲したが、叱列平は河南の諸軍を率いて救援に赴き、陳軍が撤退したので、帰還した。[[554年]]夏、51歳で兗州に死去した。都督瀛滄幽三州諸軍事・瀛州刺史・中書監の位を追贈され、[[諡]]を荘恵といった。子の叱列孝中が後を嗣いだ。


== 伝記資料 ==
== 伝記資料 ==

2020年8月17日 (月) 05:04時点における版

叱列 平(しつれつ へい、504年 - 554年)は、中国東魏北斉の軍人。は殺鬼。本貫代郡

経歴

代々にわたって酋帥をつとめた家柄に生まれた。容貌にすぐれ、ひげが美しく、騎射を得意とした。第一領民酋長・臨江伯の位を継いだ。523年破六韓抜陵が乱を起こし、柔然の残党が馬邑に侵入すると、叱列平は軍を率いて、戦功を挙げ、別将に任ぜられた。後に牧子の乱が起こり、劉胡崙・斛律可那律らが叛くと、叱列平は都督となって、劉胡崙らを討ち平げた。528年、武衛将軍に任ぜられた。爾朱栄に従って葛栄を破り、元顥を平定し、中軍都督・右衛将軍に転じ、廮陶県伯に封ぜられた。530年、爾朱栄が死ぬと、叱列平は爾朱栄の妻や爾朱世隆らとともに北に逃れた。長広王元曄が即位すると、右衛将軍に任ぜられ、京畿大都督を加えられた。

531年高歓が信都で起兵すると、叱列平は高歓に帰順した。532年に対する攻撃に従い、韓陵で爾朱氏を討った。爾朱仲遠が敗走すると、叱列平は東郡大行台となった。爾朱兆を討ち、また婁昭の下で樊子鵠を平定した。使持節・華州刺史に任ぜられた。543年高仲密が乱を起こすと、叱列平は高歓の下で邙山に戦い、宇文泰を破った。廓州刺史に任ぜられた。547年、儀同三司の位を加えられ、河陽に駐屯した。550年、爵位を侯に進めた。北斉が建てられると、兗州刺史に任ぜられ、間もなく開府を加えられ、臨洮県子の別封を受けた。552年、諸将とともに南征し、陽平郡を落とした。軍が広陵を包囲したが、叱列平は河南の諸軍を率いて救援に赴き、陳軍が撤退したので、帰還した。554年夏、51歳で兗州に死去した。都督瀛滄幽三州諸軍事・瀛州刺史・中書監の位を追贈され、を荘恵といった。子の叱列孝中が後を嗣いだ。

伝記資料