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「司馬毗」の版間の差分

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その後、洛陽にいた近侍の龍驤将軍・何倫、李惲らが司馬越の未亡人である裴氏に同伴して、項城に向かって司馬越の喪を伏せて、東海王世子である司馬毗を喪主として項城を出発し、東海国に帰還した。
その後、洛陽にいた近侍の龍驤将軍・何倫、李惲らが司馬越の未亡人である裴氏に同伴して、項城に向かって司馬越の喪を伏せて、東海王世子である司馬毗を喪主として項城を出発し、東海国に帰還した。


しかし、その途中で[[前趙]]の武将である[[石勒]]([[後趙]]の高祖)に挟撃されて、まずは王衍が司馬氏の諸侯王とともに束縛された。その後に司馬毗と裴氏は捕らえられ、何倫、李惲と王衍らは殺害された<ref>『[[資治通鑑]]』によると、何倫と李惲らは石勒と戦って洧倉で大敗した。何倫は[[州市|下邳県]]に逃れ、李惲は[[広宗県]]に逃れた。裴妃は人にさらわれ、各地を転々とした揚句に[[長江]]を渡った。元帝は彼女を称えて、自分の3男の司馬沖を東海王に封じたと、記述されている。</ref>。以降の司馬毗の動向は不詳である。
しかし、その途中で[[前趙]]の武将である[[石勒]]([[後趙]]の高祖)に挟撃されて、まずは王衍が司馬氏の諸侯王とともに束縛された。その後に司馬毗と裴氏は捕らえられ、何倫、李惲と王衍らは殺害された<ref>『[[資治通鑑]]』によると、何倫と李惲らは石勒と戦って洧倉で大敗した。何倫は[[州市|下邳県]]に逃れ、李惲は[[広宗県]]に逃れた。裴妃は人にさらわれ、各地を転々とした揚句に[[長江]]を渡った。元帝は彼女を称えて、自分の3男の司馬沖を東海王に封じたと、記述されている。</ref>。以降の司馬毗の動向は不詳である。


[[東晋]]を興した[[元帝 (東晋)|元帝]]は、自身の子である[[司馬沖]]を族父の司馬毗の後嗣として、東海王に封じた。
[[東晋]]を興した[[元帝 (東晋)|元帝]]は、自身の子である[[司馬沖]]を族父の司馬毗の後嗣として、東海王に封じた。

2020年8月17日 (月) 05:01時点における版

司馬 毗(しば ひ、生没年不詳)は、西晋)の宗室。東海孝献王の司馬越の子。

概要

彼の出生の事項は、詳しくは述べられていない。朝廷から鎮軍将軍に任じられており、その配下に鎮軍長史周顗がいた。

311年正月に懐帝苟晞に父を密かに葬らせる密命を出したため、父は洛陽を離れて項城にむかった。間もなく父司馬越は苟晞を敗走させるも、3月に懐帝は各地にいる太守などに司馬越を討伐させる勅命を下した。これを聞いた司馬越は項城で憤死した。まずは太尉王衍が、司馬氏の諸侯王とともに東進した。

その後、洛陽にいた近侍の龍驤将軍・何倫、李惲らが司馬越の未亡人である裴氏に同伴して、項城に向かって司馬越の喪を伏せて、東海王世子である司馬毗を喪主として項城を出発し、東海国に帰還した。

しかし、その途中で前趙の武将である石勒後趙の高祖)に挟撃されて、まずは王衍が司馬氏の諸侯王とともに束縛された。その後に司馬毗と裴氏は捕らえられ、何倫、李惲と王衍らは殺害された[1]。以降の司馬毗の動向は不詳である。

東晋を興した元帝は、自身の子である司馬沖を族父の司馬毗の後嗣として、東海王に封じた。

脚注

  1. ^ 資治通鑑』によると、何倫と李惲らは石勒と戦って洧倉で大敗した。何倫は下邳県に逃れ、李惲は広宗県に逃れた。裴妃は人にさらわれ、各地を転々とした揚句に長江を渡った。元帝は彼女を称えて、自分の3男の司馬沖を東海王に封じたと、記述されている。

伝記資料