「酈炎」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
m Bot作業依頼: 酈・鄣などの改名に伴うリンク修正依頼 (酈食其) - log |
|||
4行目: | 4行目: | ||
== 経歴 == |
== 経歴 == |
||
[[前漢]]初期の[[ |
[[前漢]]初期の[[酈食其]]の後裔とされる。親孝行で、文才があり、音律を解し、弁論は流れるように早く、かれの展開する理論は多くの人を感服させた。[[霊帝 (漢)|霊帝]]のとき、州や郡が召しだそうとしたが、いずれも応じなかった。 |
||
かれの作品に「見志詩」2首や「遺令書」があった。 |
かれの作品に「見志詩」2首や「遺令書」があった。 |
2020年8月17日 (月) 03:32時点における版
酈炎(れき えん、150年 - 177年)は、後漢の文人。字は文勝。本貫は范陽郡。
経歴
前漢初期の酈食其の後裔とされる。親孝行で、文才があり、音律を解し、弁論は流れるように早く、かれの展開する理論は多くの人を感服させた。霊帝のとき、州や郡が召しだそうとしたが、いずれも応じなかった。
かれの作品に「見志詩」2首や「遺令書」があった。
酈炎は後に精神を患い、若くして認知症にかかった。母が死去すると、かれの症状は悪化し、初産の妻を驚かせて死なせてしまった。妻の実家がこのことを訴え出ると、酈炎は収監された。酈炎は病のために筋道立った答えができず、177年(熹平6年)に獄中で死去した。享年は28。彼の師であった盧植はその死を惜しみ、徳行を称えた[1]。
著書に文集2巻があった[2]。
脚注
伝記資料
- 『後漢書』巻80下 列伝第70下