コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「田広」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
5行目: 5行目:
父の田栄は[[項籍|項羽]]に背いたため、[[楚 (春秋)|楚]]軍の攻撃を受けて殺された。田栄の弟の田横は敗残の兵を集めて項羽に抵抗し、[[劉邦]]が東進した事もあり項羽が斉から引き揚げると、田横に擁立されて斉王となった。
父の田栄は[[項籍|項羽]]に背いたため、[[楚 (春秋)|楚]]軍の攻撃を受けて殺された。田栄の弟の田横は敗残の兵を集めて項羽に抵抗し、[[劉邦]]が東進した事もあり項羽が斉から引き揚げると、田横に擁立されて斉王となった。


劉邦の家臣の[[レキ食其|酈食其]]を派遣して田広の説得に当たらせ、田広は説得に応じて楚に背いて[[前漢|漢]]に味方した。しかし功を奪われる事を恐れた[[韓信]]は軍を率いて斉を攻め、田広は激怒して酈食其を煮殺して[[臨シ区|臨淄]]を放棄して[[高密]]に逃亡し、項羽に援軍を要請した。項羽は[[龍且]]・[[周蘭]]に20万の兵を与えて斉に派遣し、田広は龍且と周蘭に合流して連合して韓信と対峙した。しかし龍且は[[灌嬰]]の軍勢に取り囲まれて戦死し、周蘭も[[曹参]]によって捕虜にされ、軍勢の大半も戦死か捕虜になった。
劉邦の家臣の[[酈食其]]を派遣して田広の説得に当たらせ、田広は説得に応じて楚に背いて[[前漢|漢]]に味方した。しかし功を奪われる事を恐れた[[韓信]]は軍を率いて斉を攻め、田広は激怒して酈食其を煮殺して[[臨シ区|臨淄]]を放棄して[[高密]]に逃亡し、項羽に援軍を要請した。項羽は[[龍且]]・[[周蘭]]に20万の兵を与えて斉に派遣し、田広は龍且と周蘭に合流して連合して韓信と対峙した。しかし龍且は[[灌嬰]]の軍勢に取り囲まれて戦死し、周蘭も[[曹参]]によって捕虜にされ、軍勢の大半も戦死か捕虜になった。


残っていた田広ら残兵は逃亡したが、韓信の追撃を受けて[[城陽区|城陽]]で全員捕虜になった。その後、田広は韓信により処刑されたとする説もある<ref>『史記の事典』538頁</ref>。
残っていた田広ら残兵は逃亡したが、韓信の追撃を受けて[[城陽区|城陽]]で全員捕虜になった。その後、田広は韓信により処刑されたとする説もある<ref>『史記の事典』538頁</ref>。

2020年8月17日 (月) 03:32時点における版

田 広(でん こう、? - 紀元前203年?)は、楚漢戦争期の国王田栄の子、叔父は田横、従父は田儋、又従兄は田巿。『史記』の「田儋列伝」「淮陰侯列伝」に記述がある。

経歴

父の田栄は項羽に背いたため、軍の攻撃を受けて殺された。田栄の弟の田横は敗残の兵を集めて項羽に抵抗し、劉邦が東進した事もあり項羽が斉から引き揚げると、田横に擁立されて斉王となった。

劉邦の家臣の酈食其を派遣して田広の説得に当たらせ、田広は説得に応じて楚に背いてに味方した。しかし功を奪われる事を恐れた韓信は軍を率いて斉を攻め、田広は激怒して酈食其を煮殺して臨淄を放棄して高密に逃亡し、項羽に援軍を要請した。項羽は龍且周蘭に20万の兵を与えて斉に派遣し、田広は龍且と周蘭に合流して連合して韓信と対峙した。しかし龍且は灌嬰の軍勢に取り囲まれて戦死し、周蘭も曹参によって捕虜にされ、軍勢の大半も戦死か捕虜になった。

残っていた田広ら残兵は逃亡したが、韓信の追撃を受けて城陽で全員捕虜になった。その後、田広は韓信により処刑されたとする説もある[1]

脚注

  1. ^ 『史記の事典』538頁

参考文献