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20歳で湖北軍に加わる。[[1904年]]([[光緒]]30年)、貴州新軍に移動し、隊官に任ぜられた。
20歳で湖北軍に加わる。[[1904年]]([[光緒]]30年)、貴州新軍に移動し、隊官に任ぜられた。


[[1911年]]([[宣統]]3年)10月、[[武昌起義]]を契機に[[辛亥革命]]が勃発すると、趙は新軍内で同志と蜂起の準備を開始し、その集団の代表に選ばれている。11月3日、陸軍学堂学生の蜂起をきっかけに新軍・革命派が蜂起し、翌日には貴州軍政府が成立した。貴州軍政府の都督には貴州陸軍小学総弁の[[楊ジン誠|楊藎誠]]が推戴され、趙は副都督に任ぜられている。まもなく、楊は湖北の[[黎元洪]]救援のため北伐に向かい、趙が代理都督となった。
[[1911年]]([[宣統]]3年)10月、[[武昌起義]]を契機に[[辛亥革命]]が勃発すると、趙は新軍内で同志と蜂起の準備を開始し、その集団の代表に選ばれている。11月3日、陸軍学堂学生の蜂起をきっかけに新軍・革命派が蜂起し、翌日には貴州軍政府が成立した。貴州軍政府の都督には貴州陸軍小学総弁の[[楊誠]]が推戴され、趙は副都督に任ぜられている。まもなく、楊は湖北の[[黎元洪]]救援のため北伐に向かい、趙が代理都督となった。


しかし貴州軍政府内では、趙徳全らの新軍、[[張百麟]]らの革命派のグループと、[[任可澄]]らの立憲派、[[劉顕世]]らの旧軍のグループとの間で激しい対立が生じていた。そして任・劉らは、翌[[1912年]]([[民国紀元|民国]]元年)3月、[[唐継尭]]率いる滇軍([[雲南派|雲南軍]])を[[貴陽市|貴陽]]に招きいれ、張・趙らのグループを粛清してしまったのである。
しかし貴州軍政府内では、趙徳全らの新軍、[[張百麟]]らの革命派のグループと、[[任可澄]]らの立憲派、[[劉顕世]]らの旧軍のグループとの間で激しい対立が生じていた。そして任・劉らは、翌[[1912年]]([[民国紀元|民国]]元年)3月、[[唐継尭]]率いる滇軍([[雲南派|雲南軍]])を[[貴陽市|貴陽]]に招きいれ、張・趙らのグループを粛清してしまったのである。

2020年8月16日 (日) 22:58時点における版

趙徳全
プロフィール
出生: 1882年光緒8年)
死去: 1912年民国元年)4月
中華民国の旗 中華民国貴州省修文県
出身地: 清の旗 湖北省鄖陽府鄖県
職業: 軍人
各種表記
繁体字 趙德全
簡体字 赵德全
拼音 Zhào Déquán
ラテン字 Chao To-ch'üan
和名表記: ちょう とくぜん
発音転記: ジャオ ドゥーチュエン
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趙 徳全(ちょう とくぜん)は清末民初の軍人。貴州辛亥革命を指導した人物の1人である。純臣

事跡

20歳で湖北軍に加わる。1904年光緒30年)、貴州新軍に移動し、隊官に任ぜられた。

1911年宣統3年)10月、武昌起義を契機に辛亥革命が勃発すると、趙は新軍内で同志と蜂起の準備を開始し、その集団の代表に選ばれている。11月3日、陸軍学堂学生の蜂起をきっかけに新軍・革命派が蜂起し、翌日には貴州軍政府が成立した。貴州軍政府の都督には貴州陸軍小学総弁の楊藎誠が推戴され、趙は副都督に任ぜられている。まもなく、楊は湖北の黎元洪救援のため北伐に向かい、趙が代理都督となった。

しかし貴州軍政府内では、趙徳全らの新軍、張百麟らの革命派のグループと、任可澄らの立憲派、劉顕世らの旧軍のグループとの間で激しい対立が生じていた。そして任・劉らは、翌1912年民国元年)3月、唐継尭率いる滇軍(雲南軍)を貴陽に招きいれ、張・趙らのグループを粛清してしまったのである。

趙徳全は貴陽から逃亡したものの、翌月になって修文県において雲南軍に捕縛、殺害されてしまった。享年31。

参考文献

  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 李双璧「任可澄」中国社会科学院近代史研究所『民国人物伝 第7巻』中華書局、1993年。ISBN 7-101-01052-0 
  • 劉毅翔「楊藎誠」中国社会科学院近代史研究所『民国人物伝 第8巻』中華書局、1996年。ISBN 7-101-01328-7