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15歳で貴陽府諸生となる。[[1902年]]([[光緒]]28年)、日本に留学して早稲田大学法政速成科に入り、翌年に帰国した。[[1907年]](光緒33年)、公立貴州法政学堂に入学し、同年12月に、貴陽で革命派の組織である自治学社を結成した。[[1909年]]([[宣統]]元年)、張百麟は自治学社社長となり、『自治雑誌』・『西南日報』などの機関紙を発行している。翌年、貴州省咨議局議員に選出された。 |
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同年5月、張百麟は上海で西南協会政治促進会を結成した。8月には、[[国民党 (宋教仁)|国民党]]に加入している。翌年の二次革命([[第二革命]])に際しては、[[黄興]]の下で秘書長をつとめた。[[1916年]](民国5年)7月、[[北京政府]]内務部参事兼高等警官学校副校長となっている。その翌年には辞職して南下し、[[孫文]](孫中山)の[[護法運動]]に加わる。護法軍政府においては、当初、司法部部長に任ぜられたが、病のため就任できなかった。 |
2020年8月16日 (日) 22:58時点における版
張百麟 | |
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プロフィール | |
出生: | 1878年(清光緒4年) |
死去: |
1919年(民国8年)10月(享年42) 中華民国上海市 |
出身地: | 清貴州省貴陽府貴築県 |
職業: | 革命家・政治家・ジャーナリスト |
各種表記 | |
繁体字: | 張百麟 |
簡体字: | 张百麟 |
拼音: | Zhāng Bǎilín |
ラテン字: | Chang Pai-lin |
和名表記: | ちょう ひゃくりん |
発音転記: | ジャン バイリン |
張 百麟(ちょう ひゃくりん)は清末民初の革命家・政治家・ジャーナリスト。貴州辛亥革命を指導した革命派の人物である。字は石麒。
事跡
15歳で貴陽府諸生となる。1902年(光緒28年)、日本に留学して早稲田大学法政速成科に入り、翌年に帰国した。1907年(光緒33年)、公立貴州法政学堂に入学し、同年12月に、貴陽で革命派の組織である自治学社を結成した。1909年(宣統元年)、張百麟は自治学社社長となり、『自治雑誌』・『西南日報』などの機関紙を発行している。翌年、貴州省咨議局議員に選出された。
1911年(宣統3年)10月に辛亥革命が勃発すると、11月に張百麟は新軍を率いる楊藎誠、趙徳全らとともに蜂起し、貴州軍政府を樹立した。楊が都督となり、張は枢密院院長に任じられている。しかし軍政府内では、張らの革命派、趙らの新軍のグループと、任可澄らの立憲派、劉顕世らの旧軍のグループとの間で激しい対立が生じていた。そして任・劉らは、翌1912年(民国元年)3月、唐継尭率いる滇軍(雲南軍)を貴陽に招きいれ、張・趙らのグループを粛清してしまったのである。張自身は九死に一生を得て上海へ脱出した。
同年5月、張百麟は上海で西南協会政治促進会を結成した。8月には、国民党に加入している。翌年の二次革命(第二革命)に際しては、黄興の下で秘書長をつとめた。1916年(民国5年)7月、北京政府内務部参事兼高等警官学校副校長となっている。その翌年には辞職して南下し、孫文(孫中山)の護法運動に加わる。護法軍政府においては、当初、司法部部長に任ぜられたが、病のため就任できなかった。
1919年(民国8年)10月、上海にて病没。享年42。
参考文献
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
- 李双璧「任可澄」中国社会科学院近代史研究所『民国人物伝 第7巻』中華書局、1993年。ISBN 7-101-01052-0。
- 劉毅翔「楊藎誠」中国社会科学院近代史研究所『民国人物伝 第8巻』中華書局、1996年。ISBN 7-101-01328-7。