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[[1925年]](民国14年)、教育界公理維持会に参加し、『現代評論』の論説委員となった。同年、[[中国国民党]]に加入したが、翌年には[[中国共産党]]に転じている。[[1927年]](民国16年)、[[武漢市|武漢]]に赴き、国立武昌中山大学政治学教授となる。同年に[[上海クーデター]](四・一二政変)が起きると、共産党を離党し、その後、私立北平中国大学政治系主任、私立上海中国公学社会科学院院長を歴任した。 |
2020年8月16日 (日) 22:48時点における版
高一涵 | |
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『最新支那要人伝』1941年 | |
プロフィール | |
出生: | 1884年(清光緒10年)[1] |
死去: |
1968年 中国北京市 |
出身地: | 清安徽省六安州 |
職業: | 政治家・政治学者・ジャーナリスト |
各種表記 | |
繁体字: | 高一涵 |
簡体字: | 高一涵 |
拼音: | Gāo Yīhán |
ラテン字: | Kao I-han |
和名表記: | こう きりく |
発音転記: | フアン ジールー |
高 一涵(こう いちかん)は中華民国・中華人民共和国の政治家・政治学者・ジャーナリスト。
事跡
日本に留学し、明治大学政治科で学ぶ。1916年(民国5年)に帰国し、『晨鐘報』の編輯(編集員)となる。翌1917年(民国6年)、章士釗に招聘され、『甲寅日報』で論説委員となった。1918年(民国7年)からは『毎周評論』の編集を担当し、あわせて国立北京大学教授となる。1919年(民国8年)、雑誌『新青年』において、陳独秀らと共に輪番制編集者の1人となった。
1925年(民国14年)、教育界公理維持会に参加し、『現代評論』の論説委員となった。同年、中国国民党に加入したが、翌年には中国共産党に転じている。1927年(民国16年)、武漢に赴き、国立武昌中山大学政治学教授となる。同年に上海クーデター(四・一二政変)が起きると、共産党を離党し、その後、私立北平中国大学政治系主任、私立上海中国公学社会科学院院長を歴任した。
1931年(民国20年)2月、国民政府において監察院監察委員に任ぜられた。1935年(民国24年)4月から監察院湘鄂区監察使、1940年(民国29年)8月から監察院甘寧青区監察使と歴任している。1946年(民国35年)11月、制憲国民大会代表に当選し、翌年4月、糧食部湘鄂区徴糧督導団主任委員に任ぜられた。
中華人民共和国建国後は大陸に留まり、中国民主同盟中央委員に選出され、また南京大学法学院院長兼政治系主任も務めた。1959年、中国人民政治協商会議第3期全国委員会委員に選出され、続く第4期も連続選出された。
1968年、死去。享年85。著書に『欧州政治思想史』、『政法学綱要』、『中国内閣制度の沿革』、『中国御史制度の沿革』などがある。
注
参考文献
- 高一涵生平鳳凰網
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉国銘主編『中国国民党百年人物全書』団結出版社、2005年。ISBN 7-80214-039-0。
- 東亜問題調査会『最新支那要人伝』朝日新聞社、1941年。