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[[1920年代]]までの橘は、中国のナショナリズムに理解を示し、日本と中国が対等な関係を取り結ぶべきであると論じていた<ref name="li2-3">{{Harvnb|李彩華|2010|pp=2-3}}</ref>。特に、[[1922年]]から[[1923年]]にかけて、[[北京]]や[[天津]]を拠点としていた時期には、[[清水安三]]の協力を得て、[[陳独秀]]、[[蔡元培]]、[[胡適]]、[[李大釗]]、[[辜鴻銘]]、[[魯迅]]らと交わっていた<ref name="hamaguchi35-36">{{Harvnb|浜口裕子|2006|pp=35-36}}</ref>。


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[[1931年]]の[[満州事変]]後は[[石原莞爾]]などと交流して、超国家主義、新重農主義に転じたとされ、中国における[[合作社]]運動にも関わった<ref name="enc" />。

2020年8月16日 (日) 22:45時点における版

橘 樸(たちばな しらき、1881年10月14日 - 1945年10月25日)は、日本ジャーナリスト評論家[1]末から日中戦争期にかけての中国で、『遼東新報』や『京津日日新聞』などに拠って活動した[2]

概要

大分県臼杵の下級士族の家に、長男として生まれた[3]。中学時代は各地を転々とした後、第五高等学校に学ぶが退校処分となり、さらに早稲田大学に学んだが中退した[1]。その後、1905年北海道に赴き、『北海タイムス』の新聞記者となったが[1][4]1906年に清末の中国・大連へ渡って、『遼東新報』記者となった[5]。以降、『京津日日新聞』『済南日報』といった新聞や、『日華公論』、『支那研究資料』、『月刊支那研究』、『調査時報』、『満蒙』、『新天地』、『読書会雑誌』、『満州評論』などの雑誌類に関わった[3]1918年シベリア出兵に際しては、従軍記者として日本軍に同行し、一時はチタに至ったが、帰路、病に倒れている[6]。また、1925年10月には南満州鉄道(満鉄)嘱託となった[2][4]

1920年代までの橘は、中国のナショナリズムに理解を示し、日本と中国が対等な関係を取り結ぶべきであると論じていた[7]。特に、1922年から1923年にかけて、北京天津を拠点としていた時期には、清水安三の協力を得て、陳独秀蔡元培胡適李大釗辜鴻銘魯迅らと交わっていた[8]

1931年満州事変後は石原莞爾などと交流して、超国家主義、新重農主義に転じたとされ、中国における合作社運動にも関わった[2]

1945年10月、瀋陽で病没した[5][9]

出典・脚注

  1. ^ a b c 吉田稔. “著名人見聞録 橘樸 第22回『魯迅が絶賛した男』”. フンドーキン醤油. 2014年2月1日閲覧。
  2. ^ a b c 世界大百科事典 第2版『橘樸』 - コトバンク
  3. ^ a b 李彩華 2010, p. 2
  4. ^ a b 野村浩一 1980, p. 44
  5. ^ a b 野村浩一 1980, p. 37
  6. ^ 野村浩一 1980, pp. 44–45
  7. ^ 李彩華 2010, pp. 2–3
  8. ^ 浜口裕子 2006, pp. 35–36
  9. ^ 李彩華 2010, p. 11
  • 野村浩一「橘樸 : アジア主義の彷徨」『立教法学』第19号、立教大学、1980年12月25日、36-116頁。  NAID 110006160369
  • 浜口裕子「1920年代前半の中国における反日運動と日本 : 橘樸の論評を通して」『拓殖大学論集. 政治・経済・法律研究』第9巻第1号、拓殖大学、2006年8月31日、32-43頁。  NAID 110006406153
  • 李彩華「橘樸のアジア主義 - 満州事変以降の言説を中心に」『年報日本思想史』第9号、日本思想史研究会、2010年3月25日、1-13頁。  NAID 120005261230

関連文献

  • 清水亮太郎「橘樸の戦場 : 民族・国家・資本主義を超えて」『早稲田政治公法研究』第95号、早稲田大学大学院政治学研究科、2010年、33-48頁。  NAID 40019060332
  • 橘樸「支那を識るの途」『月刊支那研究』第1巻第1号、1924年12月1日。 青空文庫