「バレンツ海海戦」の版間の差分
Yamamomo kakijiro (会話 | 投稿記録) 出典加筆・整理。 |
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|caption=<small>英軽巡シェフィールドの攻撃を受け爆沈する[[フリードリヒ・エッコルト (駆逐艦)|フリードリヒ・エックホルト]]</small> |
|caption=<small>英軽巡シェフィールドの攻撃を受け爆沈する[[フリードリヒ・エッコルト (駆逐艦)|フリードリヒ・エックホルト]]</small> |
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|battle_name =バレンツ海海戦 |
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|campaign =北極海 |
|campaign =第二次世界大戦中の北極海における輸送船団 |
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2020年8月16日 (日) 15:01時点における版
バレンツ海海戦 | |
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英軽巡シェフィールドの攻撃を受け爆沈するフリードリヒ・エックホルト | |
戦争:第二次世界大戦 | |
年月日:1942年12月31日 | |
場所:バレンツ海 | |
結果:イギリス側の戦略的勝利 | |
交戦勢力 | |
ドイツ海軍 | イギリス海軍 |
指導者・指揮官 | |
オスカー・クメッツ シュタンゲ |
ロバート・シャーブルック |
戦力 | |
装甲艦1 重巡洋艦1 駆逐艦6 |
軽巡洋艦2 (3時間後到着) 駆逐艦6 コルベット2 掃海艇1 武装トロール船2 |
損害 | |
駆逐艦1沈没 戦死330 |
駆逐艦1沈没 掃海艇1沈没 戦死250 |
バレンツ海海戦[1](バレンツかいかいせん)、バレンツ海戦[2](英語:Battle of the Barents Sea)は、第二次世界大戦中の1942年12月31日に、ノルウェーの北岬沖バレンツ海で生起した、ドイツ海軍とイギリス海軍との海戦のこと。イギリスからソビエト連邦のコラ湾へ向かっていたJW51B船団の航行をドイツ海軍が妨害しようと出撃した艦隊が船団護衛の任に就いていた艦隊と戦闘になった。ドイツ海軍の作戦名はレーゲンボーゲン作戦[3](Unternehmen Regenbogen、意味は「虹」)。
海戦前
イギリスJW51B船団(ロバート・シャーブルック大佐指揮)は商船14隻、駆逐艦アケイティーズ、オーウェル(Orwell)、オラビー(Oribi)、オンズロー、オブデュレイト(Obdurate)、オビーディアント(Obedient)、コルベット船ロードデンドラン、ハイダラーバード、掃海艇ブランブル、武装トロール船ヴィザルマ、ノーザン・ジェムという編成だった。
加えて、援護部隊としてロバート・バーネット少将麾下の軽巡洋艦シェフィールド、ジャマイカがバレンツ海にいた。
ドイツ艦隊は重巡洋艦アドミラル・ヒッパー、装甲艦リュッツォウ、駆逐艦フリードリヒ・エックホルト、リヒャルト・バイツェン、テオドア・リーデル、Z29、Z30、Z31でノルウェーの北部のアルテンフィヨルドにいた。指揮官はオスカー・クメッツ (Oskar Kummetz) 中将であった。
JW51B船団は12月22日ロッホ・ユーを出航し、28日、吹雪のため商船5隻とオラビー、ヴィザルマが船団からはぐれた。その後商船3隻は本隊と合流したが、残りは船団とは別にコラ湾に向かった。
30日午前、ドイツの潜水艦U-354が船団を発見した。この報告を受けたクメッツ中将は艦隊を率いて出撃した。しかし、ドイツ艦隊はヒトラー総統から危険を冒すことを禁じられていた。クメッツ中将は艦隊をアドミラル・ヒッパー、駆逐艦3隻とリュッツォウ、駆逐艦3隻の2つに分け挟撃を試みた。
海戦経過
31日8時20分、オブデュレイトがドイツ駆逐艦を発見、続いてオンズローがアドミラル・ヒッパーを発見した。イギリス駆逐艦は煙幕を張るとともにアドミラル・ヒッパーの前面に展開、また船団各船は出撃前の打ち合わせどおり一斉に発煙フロートを投下した。
10時00分、オンズローにアドミラル・ヒッパーからの8インチ弾が命中し艦橋が損傷、シャーブルック大佐は重傷を負ったが指揮を執り続けた。だが、オンズローはさらに数発の命中弾を受け、シャーブルック大佐は指揮権を僚艦に譲った。残る駆逐艦は偽装雷撃などあらゆる手段を尽くして、アドミラル・ヒッパーが船団に近づくのを阻止したが、オビーディアントが損傷を受けるなど綱渡りの状況が続いた。 この間、リュッツォウと駆逐艦3隻は商船を捕捉したようだが、商船は煙幕と吹雪に隠れ、「(誤認の)危険を冒すな」という命令のため追跡は行わなかった。
一方、船団付近ではアケイティーズが直援行動に従事していたが、11時00分、吹雪が弱まった折にアドミラル・ヒッパーの攻撃を受け被弾、大破した。だが、アケイティーズは被弾しながらも煙幕を展開し続け、2時間後に沈没するまでその任務を全うした。
11時45分、シェフィールドとジャマイカが戦場に到着し、攻撃を開始した。アドミラル・ヒッパーに命中弾があり、クメッツ中将は全艦に退避を命じた。フリードリヒ・エックホルトとリヒャルト・バイツェンは2隻のイギリス巡洋艦をアドミラル・ヒッパーおよびリュッツォウと誤認して接近し、フリードリヒ・エックホルトはシェフィールドから多数の6インチ砲弾を浴びて撃沈された。リヒャルト・バイツェンは被害僅少で、ジャマイカの砲撃から辛くも脱した。
その後、アドミラル・ヒッパーとリュッツォウはイギリス巡洋艦2隻を挟み撃ちするチャンスを得たものの、逆にシェフィールドとジャマイカの2隻は果断にも一斉砲撃を加えて撃退した。これを潮にドイツ側は母港へと撤収した。
なお、船団からはぐれた輸送船を捜索するべく本隊から分離していた掃海艇ブランブルも、ドイツ艦隊の攻撃により沈没したと考えられている。
結果
- 沈没
- イギリス…駆逐艦アケイティーズ、掃海艇ブランブル
- ドイツ…駆逐艦フリードリヒ・エックホルト
- 大破
- イギリス…駆逐艦オンズロー
- ドイツ…なし
- 損傷
- イギリス…駆逐艦オーウェル、オビーディアント、オブデュレイト、輸送船1隻
- ドイツ…重巡洋艦アドミラル・ヒッパー
ドイツ海軍は1隻も商船を撃沈できなかったばかりかほぼ無傷で逃してしまい、船団への攻撃は失敗に終わった。
大戦果を徹夜で待っていたドイツのヒトラーは、新年早々徹夜で待たされた挙句の無様な敗北に激怒し、レーダー元帥を罷免し、潜水艦隊司令官デーニッツ大将を後継者に任命するとともに、全ての大型水上艦の解体命令を出した。この命令はデーニッツから再考を促されたこともあり実行されなかった(すでに大型艦を本土回航することさえ困難になっていたためもある)が、ドイツ海軍の士気は低下した。
一方のイギリス海軍はこの海戦の戦訓により、援ソ船団の護衛体制をさらに強化するとともに、船団をえさにドイツの大型水上艦を釣り上げ撃滅する着想を得た。その着想を実行に移したのが、翌1943年末に生じた北岬沖海戦や、戦艦ティルピッツに対する一連の作戦である。
脚注
- ^ 福田誠 1998, p. 236.
- ^ カーユス・ベッカー 2001, p. 370.
- ^ カーユス・ベッカー 2001, p. 366, 368, 382, 395.
参考文献
- ダドリー・ポープ 著、伊藤哲 訳『バレンツ海海戦』早川書房〈ハヤカワ文庫〉、1981年。ISBN 4-15-050073-8。
- カーユス・ベッカー 著、松谷健二 訳『呪われた海 ドイツ海軍戦闘記録』中央公論新社、2001年。ISBN 4-12-003135-7。
- 福田誠 著、光栄出版部 編『第二次大戦海戦事典 W.W.II SEA BATTLE FILE 1939~45』光栄、1998年。ISBN 4-87719-606-4。