「捕虜裁判」の版間の差分
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六番目ではなく七番目だがそもそもこのような書き方が良くない。FallⅦというのは6番目だの7番目を示しているのではなく、本来ならば7号案件と訳すべきである。 |
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'''捕虜裁判'''(Hostages Trial)は、[[1947年]][[7月8日]]から[[1948年]][[2月19日]]にかけて[[アメリカ合衆国]]が[[ニュルンベルク]]で行ったナチ戦犯法廷。[[被告]]は全員[[バルカン |
'''捕虜裁判'''(Hostages Trial)は、[[1947年]][[7月8日]]から[[1948年]][[2月19日]]にかけて[[アメリカ合衆国]]が[[ニュルンベルク]]で行ったナチ戦犯法廷。[[被告]]は全員[[バルカン戦線 (第二次世界大戦)]]で[[ギリシャ]]・[[アルバニア]]・[[ユーゴスラヴィア]]など南東ヨーロッパに駐留したドイツ軍の指揮官である。[[捕虜]]や[[パルチザン]]の殺害、民間人を人質にとった行為についての裁判であった。[[ニュルンベルク継続裁判]]の中では7番目に行われた裁判である。 |
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==被告== |
==被告== |
2020年8月16日 (日) 13:05時点における版
捕虜裁判(Hostages Trial)は、1947年7月8日から1948年2月19日にかけてアメリカ合衆国がニュルンベルクで行ったナチ戦犯法廷。被告は全員バルカン戦線 (第二次世界大戦)でギリシャ・アルバニア・ユーゴスラヴィアなど南東ヨーロッパに駐留したドイツ軍の指揮官である。捕虜やパルチザンの殺害、民間人を人質にとった行為についての裁判であった。ニュルンベルク継続裁判の中では7番目に行われた裁判である。
被告
名前 | 役職 | 罪状 | 判決 | ||||
---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | 4 | ||||
ヴィルヘルム・リスト | 元帥 1941年から1942年の南東方面軍司令官 1941年の第12軍司令官 |
G | I | G | I | 終身刑 病気を理由に1952年12月に釈放 1971年死去 | |
マクシミリアン・フォン・ヴァイクス | 元帥 バルカン半島の戦いの間の第二軍司令官 |
I | I | I | I | 病気を理由に裁判から除かれる 1954年死去 | |
ロタール・レンデュリック | 上級大将 1943年から1944年の第二装甲軍の司令官 |
G | I | G | G | 20年禁固刑,10年に減刑 1951年釈放。1971年死去 | |
ヴァルター・クンツェ(de:Walter Kuntze) | 工兵大将 リストの後任の南東方面軍司令官、第12軍司令官 |
G | I | G | G | 終身刑 1953年釈放。1960年死去 | |
ヘルマン・フェルチュ(de:Hermann Foertsch) | 少将 第12軍幕僚長 |
I | I | I | I | 無罪。1961年死去 | |
フランツ・ベーメ | 1940年から1943年にかけてXVIII山岳軍団の大将 1944年にレンデュリックの後任 |
I | I | I | I | 罪状認否前の1947年5月30日に自殺 | |
ヘルムート・フェルミー(de:Hellmuth Felmy) | 大将 南方ギリシャ軍集団司令官 |
G | G | I | I | 15年禁固刑 1951年に10年に減刑。1965年死去 | |
フーベルト・ランツ(de:Hubert Lanz) | 1943年から1945年のXXII山岳軍団の大将 | G | I | G | I | 12年禁固刑 1951年釈放。1982年死去 | |
エルンスト・デーネル(de:Ernst Dehner) | 少将 レンデュリックの部下 |
G | I | I | I | 7年禁固刑 1951年釈放。1970年死去 | |
エルンスト・フォン・ライザー(de:Ernst von Leyser) | 歩兵大将 レンデュリックやベーメの部下 |
I | I | G | G | 10年禁固刑 1951年釈放。1962年死去 | |
ヴィルヘルム・シュパイデル(de:Wilhelm Speidel) | 少将 1942年から1944年のギリシャ軍事司令官 |
G | I | I | I | 20年禁固刑 1951年釈放。1970年死去 | |
クルト・フォン・ガイトナー(de:Kurt Ritter von Geitner) | セルビアとギリシャの軍事司令官幕僚長 | I | I | I | I | 無罪。1968年死去。 |
I — 起訴 G — 起訴および有罪