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[[ヴェッセルブレナーコーク]]([[:de:Wesselburenerkoog|Wesselburenerkoog]])の農家の出身。1930年に[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊(SS)]]に入隊(隊員番号4,759)。[[ポーランド侵攻]]の際には[[親衛隊大尉]]となり、[[親衛隊特務部隊]]の[[第1SS装甲師団|歩兵連隊「LSSAH」]]に属していた。1940年1月30日に[[親衛隊少佐]]となり、LSSAHに属する大隊の指揮官となり、[[ナチス・ドイツのフランス侵攻|西方戦]]や[[バルカン戦線 (第二次世界大戦)]]を戦った。その後、LSSAHとともに1941年6月から始まった[[独ソ戦]]に転じ、1941年9月に[[騎士鉄十字章#騎士鉄十字章|騎士鉄十字章]]を受章。1942年秋に「LSSAH」師団の第2装甲擲弾兵連隊の指揮官となる。1943年1月30日に[[親衛隊大佐]]に昇進した。[[第三次ハリコフ攻防戦]]における勇戦が認められ、1943年2月25日に[[ドイツ十字章|ドイツ十字章金章]]を受章した。1943年4月7日に「LSSAH」師団長に就任し、7月1日には[[親衛隊上級大佐]]に昇進した。LSSAH師団は激しい損害を被りながらも多数の作戦に従事した。特に[[チェルカースィ]]ポケットに閉じ込められたドイツ軍5万人の救出に大きな功績を残した。1944年2月12日に[[親衛隊少将]]及び武装親衛隊少将に昇進するとともに[[騎士鉄十字章#柏葉付騎士鉄十字章|騎士鉄十字章柏葉章]]を受章。1944年6月からノルマンディー上陸作戦で乗り込んできたアメリカ軍とイギリス軍と戦った。しかし手痛い打撃を受け、ヴィッシュも両足を失う激しい負傷を負った。そのため1944年8月から[[ヴィルヘルム・モーンケ]]将軍が師団長に代えられた。ヴィッシュは8月末に[[騎士鉄十字章#柏葉・剣付騎士鉄十字章|騎士鉄十字章剣章]]を受けた。その後ドイツの敗戦まで病院にあった。イギリス軍の捕虜となり、1948年に釈放された。1990年には自叙伝「{{lang|de|Zwölf Jahre 1. Kompanie Leibstandarte SS Adolf Hitler. Ein Buch der Kameradschaft Oldendorf}}」を著した。 |
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2020年8月16日 (日) 13:05時点における版
テオドール・ヴィッシュ Theodor Wisch | |
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渾名 | テディ (Teddy) |
生誕 |
1907年12月13日 ドイツ帝国 プロイセン王国 シュレスヴィヒ=ホルシュタイン州 ヴェッセルブレナーコーク |
死没 |
1995年1月11日 (87歳没) ドイツ シュレスヴィヒ=ホルシュタイン州 ノルダーシュテット |
所属組織 | |
軍歴 | 1933年 - 1945年 |
最終階級 | 親衛隊少将及び武装親衛隊少将 |
テオドール・ヴィッシュ(ドイツ語: Theodor Wisch、1907年12月13日‐1995年1月11日)は、ナチス・ドイツの武装親衛隊の将軍。 階級は親衛隊少将及び武装親衛隊少将(SS-Brigadeführer und Generalmajor der Waffen-SS)。
略歴
ヴェッセルブレナーコーク(Wesselburenerkoog)の農家の出身。1930年に親衛隊(SS)に入隊(隊員番号4,759)。ポーランド侵攻の際には親衛隊大尉となり、親衛隊特務部隊の歩兵連隊「LSSAH」に属していた。1940年1月30日に親衛隊少佐となり、LSSAHに属する大隊の指揮官となり、西方戦やバルカン戦線 (第二次世界大戦)を戦った。その後、LSSAHとともに1941年6月から始まった独ソ戦に転じ、1941年9月に騎士鉄十字章を受章。1942年秋に「LSSAH」師団の第2装甲擲弾兵連隊の指揮官となる。1943年1月30日に親衛隊大佐に昇進した。第三次ハリコフ攻防戦における勇戦が認められ、1943年2月25日にドイツ十字章金章を受章した。1943年4月7日に「LSSAH」師団長に就任し、7月1日には親衛隊上級大佐に昇進した。LSSAH師団は激しい損害を被りながらも多数の作戦に従事した。特にチェルカースィポケットに閉じ込められたドイツ軍5万人の救出に大きな功績を残した。1944年2月12日に親衛隊少将及び武装親衛隊少将に昇進するとともに騎士鉄十字章柏葉章を受章。1944年6月からノルマンディー上陸作戦で乗り込んできたアメリカ軍とイギリス軍と戦った。しかし手痛い打撃を受け、ヴィッシュも両足を失う激しい負傷を負った。そのため1944年8月からヴィルヘルム・モーンケ将軍が師団長に代えられた。ヴィッシュは8月末に騎士鉄十字章剣章を受けた。その後ドイツの敗戦まで病院にあった。イギリス軍の捕虜となり、1948年に釈放された。1990年には自叙伝「Zwölf Jahre 1. Kompanie Leibstandarte SS Adolf Hitler. Ein Buch der Kameradschaft Oldendorf」を著した。
受章
- 1938年3月13日記念メダル
- 1938年10月1日記念メダル „プラハ城”略章付き
- 親衛隊勤続章(SS-Dienstauszeichnung)
- 国家スポーツ勲章銅賞(Reichssportabzeichen)
- 親衛隊全国指導者名誉長剣
- 親衛隊名誉リング
- 1939年版鉄十字章
- 東部戦線従軍記章
- 1939年版戦傷章
- 黒章
- 銀章[2]
- 柏葉・剣付騎士鉄十字章[3]
- ドイツ十字章金章 - SS装甲擲弾兵師団 ライプシュタンダーテ SS アドルフ・ヒトラー、第2装甲擲弾兵連隊の親衛隊大佐として1943年2月25日受章[3][8]
- ルーマニア王国 王冠勲章
- 歩兵突撃章銀章[2]
- 国防軍軍報における言及 (1943年12月31日)
国防軍軍報からの引用
日付 | オリジナルの原稿 | 和訳 (英訳からの転訳) |
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1943年12月31日 | Bei den schweren Abwehrkämpfen im Raum von Shitomir zeichnete sich die SS-Panzerdivision "Leibstandarte SS Adolf Hitler" unter Führung des SS-Oberführers Wisch durch vorbildlichen Kampfgeist besonders aus.[9] | ジトーミル付近の防衛戦において、ヴィッシュ親衛隊上級大佐の率いるSS装甲師団 ライプシュタンダーテ SS アドルフ・ヒトラーはその模範的な敢闘精神によりとりわけ傑出したものを見せた。 |
出典
- ^ a b Thomas 1998, p. 447.
- ^ a b Berger 1999, p. 379.
- ^ a b Veit Scherzer: Die Ritterkreuzträger 1939-1945, Scherzers Militaer-Verlag, Ranis/Jena 2007, ISBN 978-3-938845-17-2, S.790
- ^ a b c Scherzer 2007, p. 790.
- ^ Fellgiebel 2000, pp. 449, 508.
- ^ Fellgiebel 2000, p. 78.
- ^ Fellgiebel 2000, p. 45.
- ^ Patzwall & Scherzer 2001, p. 517.
- ^ Die Wehrmachtberichte 1939–1945 Band 2, p. 636.
軍職 | ||
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先代 ヨーゼフ・ディートリヒ |
第1SS装甲師団師団長 1943年4月7日 - 1944年8月20日 |
次代 ヴィルヘルム・モーンケ |