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[[第二次世界大戦]]勃発とともに第14軍第22軍団参謀長となり、[[ポーランド侵攻]]に従軍。1940年3月に[[エヴァルト・フォン・クライスト (軍人)|エヴァルト・フォン・クライスト]]のA装甲集団参謀長となり<ref>Liddell Hart p. 57</ref>、[[ナチス・ドイツのフランス侵攻|西方電撃戦]]、[[バルカン戦線 (第二次世界大戦)]]、[[バルバロッサ作戦]]に従軍。1941年5月18日、戦功により騎士[[鉄十字章]]を授与される。同年10月、第1装甲軍参謀長に任命され、開戦初頭にソ連軍を分断して快進撃を続けた<ref>Liddell Hart p. 58</ref>。ツァイツラーは部隊の進撃を維持するため兵站確保に最善を尽くし、上官であるクライストから称賛を受けた<ref>Liddell Hart p. 58</ref>。 |
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1942年2月に少将に昇進し、4月には[[ゲルト・フォン・ルントシュテット]]のD軍集団参謀長に任命される。同年9月24日に歩兵大将に昇進し、[[アドルフ・ヒトラー]]と対立して更迭された[[フランツ・ハルダー]]の後任として陸軍参謀総長に任命される<ref name=Adam>{{Cite book |last=Adam |first=Wilhelm |first2=Otto |last2=Ruhle |translator=Tony Le Tissier |title=With Paulus at Stalingrad |publisher=Pen and Sword Books Ltd. |year=2015 |ISBN=9781473833869 |page=78}}</ref>。ツァイツラーの参謀総長就任は、彼の報告が楽観的な調子に満ちていることをヒトラーに買われてのもので、序列からいえばきわめて異例な人事だった。彼は組織運用と兵站確保に能力を発揮したが、最終的にヒトラーの無理難題に悩まされることになった。 |
1942年2月に少将に昇進し、4月には[[ゲルト・フォン・ルントシュテット]]のD軍集団参謀長に任命される。同年9月24日に歩兵大将に昇進し、[[アドルフ・ヒトラー]]と対立して更迭された[[フランツ・ハルダー]]の後任として陸軍参謀総長に任命される<ref name=Adam>{{Cite book |last=Adam |first=Wilhelm |first2=Otto |last2=Ruhle |translator=Tony Le Tissier |title=With Paulus at Stalingrad |publisher=Pen and Sword Books Ltd. |year=2015 |ISBN=9781473833869 |page=78}}</ref>。ツァイツラーの参謀総長就任は、彼の報告が楽観的な調子に満ちていることをヒトラーに買われてのもので、序列からいえばきわめて異例な人事だった。彼は組織運用と兵站確保に能力を発揮したが、最終的にヒトラーの無理難題に悩まされることになった。 |
2020年8月16日 (日) 13:02時点における版
クルト・ツァイツラー Kurt Zeitzler | |
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ツァイツラー大佐(1941年) | |
生誕 |
1895年6月9日 ドイツ帝国 プロイセン王国 ブランデンブルク州ゴスマー |
死没 |
1963年9月25日(68歳没) 西ドイツ バイエルン州キームガウ地方ホーエンアシャウ |
所属組織 |
ドイツ帝国陸軍 ヴァイマル共和国軍 ドイツ国防軍陸軍 |
軍歴 | 1914年 - 1945年 |
最終階級 | 上級大将 |
クルト・ツァイツラー(Kurt Zeitzler, 1895年6月9日 - 1963年9月25日)は、ドイツの軍人。第二次世界大戦中に参謀総長を務めた。
経歴
ドイツ軍に入隊
ブランデンブルク州ゴスマー(現ハイデンブリック市)の牧師の家庭に生まれる。第一次世界大戦勃発直前の1914年3月23日にドイツ陸軍へ入隊し、テューリンゲン第4歩兵連隊に配属された。大戦勃発後の1914年12月に中尉に昇進し、連隊副官で敗戦を迎える。
ヴァイマル共和国では10万人に削減されたヴァイマル共和国軍に残り、第18歩兵連隊で大隊副官や小隊長を務め、1928年1月に大尉に昇進。1929年に第3師団参謀に配属され第9歩兵連隊中隊長を兼務し、1934年に少佐に昇進。1937年1月に陸軍総司令部に配属され、中佐に昇進。1939年4月に第60歩兵連隊長に任命され、6月1月に大佐に昇進。
ドイツ軍参謀総長
第二次世界大戦勃発とともに第14軍第22軍団参謀長となり、ポーランド侵攻に従軍。1940年3月にエヴァルト・フォン・クライストのA装甲集団参謀長となり[1]、西方電撃戦、バルカン戦線 (第二次世界大戦)、バルバロッサ作戦に従軍。1941年5月18日、戦功により騎士鉄十字章を授与される。同年10月、第1装甲軍参謀長に任命され、開戦初頭にソ連軍を分断して快進撃を続けた[2]。ツァイツラーは部隊の進撃を維持するため兵站確保に最善を尽くし、上官であるクライストから称賛を受けた[3]。
1942年2月に少将に昇進し、4月にはゲルト・フォン・ルントシュテットのD軍集団参謀長に任命される。同年9月24日に歩兵大将に昇進し、アドルフ・ヒトラーと対立して更迭されたフランツ・ハルダーの後任として陸軍参謀総長に任命される[4]。ツァイツラーの参謀総長就任は、彼の報告が楽観的な調子に満ちていることをヒトラーに買われてのもので、序列からいえばきわめて異例な人事だった。彼は組織運用と兵站確保に能力を発揮したが、最終的にヒトラーの無理難題に悩まされることになった。
参謀総長就任直後のスターリングラード攻防戦においては、ツァイツラーはスターリングラードに包囲されたフリードリヒ・パウルスの第6軍の脱出を具申し、心労のあまり飢える第6軍の兵士たちと同量の食事しか摂らず痩せ細ったが、ヒトラーは最後まで第6軍の撤退・救出を拒み、マルティン・ボルマンから彼がダイエット中と説明されたため、「ダイエット」をやめるよう命じたという。しかし、第6軍の降伏後、モスクワおよびレニングラード前面からの後退を勧めたツァイツラーの具申は受け入れられた。
1944年1月30日にアルフレート・ヨードルと共に上級大将に昇進。しかし、ツァイツラーが担当する東部戦線の戦局は日に日に悪化し、クリミア半島を失いクルスク攻勢も成功しなかった。また、西部戦線でも6月6日、連合軍がノルマンディー上陸作戦を決行した。強気のヒトラーとは対照的に、戦線維持に悲観的だったツァイツラーは自らの参謀長解任を申し出たが、ヒトラーに拒まれた[5]。1944年6月9日、ベルヒテスガーデンのベルクホーフ山荘でヒトラーと戦況を協議していたツァイツラーは発作で倒れた(神経衰弱に陥ったツァイツラーが無断でベルクホーフを立ち去ったため、病気ということにされたともいう)。翌月10日にツァイツラーは解任され、後任にハインツ・グデーリアンが任命されるまでアドルフ・ホイジンガーが職務を代行した。
晩年
参謀総長解任と同時期に、副官のギュンター・スメントからヒトラー暗殺計画に加わるよう説得を受けたが拒否している。7月20日事件が発生し、スメントは逮捕され処刑されたが、ツァイツラーはそのためにヒトラーに対して手紙を送り改めて忠誠を宣誓した。1945年1月31日にドイツ国防軍を退役するが、ヒトラーの命令で、以後軍服の着用を禁止される。この命令に対してルントシュテットとアルベルト・シュペーアが撤回を求めるが、ヒトラーに拒否されている。
終戦後はイギリス軍の捕虜となり、ニュルンベルク裁判に証人として出廷した後、1947年2月に釈放。釈放後はアメリカ陸軍戦史研究部ドイツ支所に勤務した[6]。1963年に肺癌を患い、バイエルン州キームガウ地方のホーエンアシャウで死去した[7]。
出典
- ^ Liddell Hart p. 57
- ^ Liddell Hart p. 58
- ^ Liddell Hart p. 58
- ^ Adam, Wilhelm; Ruhle, Otto Tony Le Tissier訳 (2015). With Paulus at Stalingrad. Pen and Sword Books Ltd.. p. 78. ISBN 9781473833869
- ^ Guderian 1952, p. 341.
- ^ Othmar Hackl: Generalstab, Generalstabsdienst und Generalstabsausbildung in der Reichswehr und Wehrmacht 1919–1945. Studien deutscher Generale und Generalstabsoffiziere in der Historical Division der US Army in Europa 1946–1961. Biblio, Osnabrück 1999, ISBN 3-7648-2551-0, S. 67 ff.
- ^ Der Spiegel. 40/1963: Gestorben
参考文献
- Beevor, Antony Stalingrad New York, NY: Viking, 1998.
- Fellgiebel, Walther-Peer (2000) [1986] (German). Die Träger des Ritterkreuzes des Eisernen Kreuzes 1939–1945 — Die Inhaber der höchsten Auszeichnung des Zweiten Weltkrieges aller Wehrmachtteile. Friedberg, Germany: Podzun-Pallas. ISBN 978-3-7909-0284-6
- Liddell Hart, B.H. The German Generals Talk. New York, NY: Morrow, 1948.
- Scherzer, Veit (2007) (German). Die Ritterkreuzträger 1939–1945 Die Inhaber des Ritterkreuzes des Eisernen Kreuzes 1939 von Heer, Luftwaffe, Kriegsmarine, Waffen-SS, Volkssturm sowie mit Deutschland verbündeter Streitkräfte nach den Unterlagen des Bundesarchives. Jena, Germany: Scherzers Militaer-Verlag. ISBN 978-3-938845-17-2
- Shirer, William L. The rise and fall of the Third Reich; a history of Nazi Germany New York, NY: Simon and Schuster, 1960.
- Friedrich-Christian Stahl: Generaloberst Kurt Zeitzler. In: Gerd R. Ueberschär (Hrsg.): Hitlers militärische Elite. Vom Kriegsbeginn bis zum Weltkriegsende. Band 2. Primus, Darmstadt 1998, ISBN 3-89678-089-1, S. 283-292.
軍職 | ||
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先代 フランツ・ハルダー |
ドイツ陸軍参謀総長 1942年 - 1944年 |
次代 ハインツ・グデーリアン |