「地涌の菩薩」の版間の差分
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と、弥勒菩薩がこの地涌の菩薩の徳を見て、この地涌の菩薩が釈尊の弟子であることに疑念を持ち、それは「二十五歳の少年が百歳の老人に対してこれは我が子である」と言っているのと同じであるという譬えをもって、その真意を明らかにしなければ、滅後末法の世界の人々がこのことを信じることができないことを挙げ、その疑念に答えることを請う姿で終わる。 |
と、弥勒菩薩がこの地涌の菩薩の徳を見て、この地涌の菩薩が釈尊の弟子であることに疑念を持ち、それは「二十五歳の少年が百歳の老人に対してこれは我が子である」と言っているのと同じであるという譬えをもって、その真意を明らかにしなければ、滅後末法の世界の人々がこのことを信じることができないことを挙げ、その疑念に答えることを請う姿で終わる。 |
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[[智顗|天台大師]]は『法華文句』に「地涌の菩薩は我が弟子(釈尊の弟子)であるから、まさに我が(釈尊の)法を広めるべきである」といい、[[湛然|妙楽大師]]は『法華文句記』に「子が父の法を弘める。そこに世界悉檀の利益がある」と説き、道暹は『法華文句輔正記』に「法が久成の法であるゆえに、久成の人に付嘱したのである」と説いている。即ち久遠の法を持つ地涌の菩薩は釈尊より尊いが、それでは釈尊在世の衆生が困惑してしまうゆえに父が釈尊、子が地涌の菩薩という形をとることで、末法の世界の人々が受け入れやすいように釈尊が説法をしたということを説いている。 |
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== 妙法蓮華経如来神力品第二十一 == |
== 妙法蓮華経如来神力品第二十一 == |
2020年8月16日 (日) 12:46時点における版
地涌の菩薩(じゆのぼさつ)または地湧の菩薩(「涌」は表外漢字であり、常用漢字である「湧」の異体字)とは、上行菩薩を初めとする法華経に登場する娑婆世界に常住する無数の大菩薩のことであります。
妙法蓮華経従地涌出品第十五
妙法蓮華経従地涌出品第十五に
「爾の時に他方の国土の諸の来れる菩薩摩訶薩の八恒河沙の数に過ぎたる、大衆の中に於て起立し合掌し礼を作して、仏に白して言さく、世尊、若し我等仏の滅後に於て此の娑婆世界に在って、勤加精進して是の経典を護持し読誦し書写し供養せんことを聴したまわば、当に此の土に於て広く之を説きたてまつるべし。爾の時に仏、諸の菩薩摩訶薩衆に告げたまわく、止みね、善男子、汝等が此の経を護持せんことを須いじ。所以は何ん、我が娑婆世界に自ら六万恒河沙等の菩薩摩訶薩あり。一一の菩薩に各六万恒河沙の眷属あり。是の諸人等能く我が滅後に於て、護持し読誦し広く此の経を説かん。仏是れを説きたもう時、娑婆世界の三千大千の国土地皆震裂して、其の中より無量千万億の菩薩摩訶薩あって同時に涌出せり。」
法華経の涌出品において釈尊は多くの弟子達に対して滅後末法に法華経を弘めるのはこの娑婆世界に住する地涌の菩薩であることを宣言した。 法華経の本門では弥勒菩薩を筆頭とする釈尊の弟子または他方の世界から来臨した菩薩は本仏が分身した迹仏が教化した迹化の菩薩とされる。 それに対して地涌の菩薩は久遠の本地に本仏が教化した本化の菩薩とする。即ち末法の大衆を救済するのは迹化の菩薩ではなく、久遠の本地の菩薩である地涌の菩薩であるとされる。
弥勒菩薩の問い
「是の諸の大威徳 精進の菩薩衆は 誰か其の為に法を説き 教化して成就せる 誰に従って初めて発心し 何れの仏法を称揚し 誰の経を受持し行じ 何れの仏道を修習せる 是の如き諸の菩薩 神通大智力あり」
「四方の地震裂して 皆中より涌出せり 世尊我昔より来 未だ曾て是の事を見ず 願わくは其の所従の 国土の名号を説きたまえ 我常に諸国に遊べども 未だ曾て是の事を見ず 我此の衆の中に於て 乃し一人をも識らず 忽然に地より出でたり 願わくは其の因縁を説きたまえ」
地涌の菩薩について弥勒菩薩は釈尊の弟子の中でも法華経において大衆を代表する高位の菩薩であり、様々な世界で修行してきたが、地涌の菩薩は未だ曾て一人も見たことがないと言い、地涌の菩薩は三十二相を具え、この娑婆世界に住していることから、他方の世界には住さず娑婆世界において久遠の昔から常住していた大菩薩であるとされる。
涌出品の後半部では
「譬えば少壮の人 年始めて二十五なる 人に百歳の子の 髪白くして面皺めるを示して 是れ等我が所生なりといい 子も亦是れ父なりと説かん父は少くして子は老いたる 世を挙って信ぜざる所ならんが如く」
と、弥勒菩薩がこの地涌の菩薩の徳を見て、この地涌の菩薩が釈尊の弟子であることに疑念を持ち、それは「二十五歳の少年が百歳の老人に対してこれは我が子である」と言っているのと同じであるという譬えをもって、その真意を明らかにしなければ、滅後末法の世界の人々がこのことを信じることができないことを挙げ、その疑念に答えることを請う姿で終わる。
天台大師は『法華文句』に「地涌の菩薩は我が弟子(釈尊の弟子)であるから、まさに我が(釈尊の)法を広めるべきである」といい、妙楽大師は『法華文句記』に「子が父の法を弘める。そこに世界悉檀の利益がある」と説き、道暹は『法華文句輔正記』に「法が久成の法であるゆえに、久成の人に付嘱したのである」と説いている。即ち久遠の法を持つ地涌の菩薩は釈尊より尊いが、それでは釈尊在世の衆生が困惑してしまうゆえに父が釈尊、子が地涌の菩薩という形をとることで、末法の世界の人々が受け入れやすいように釈尊が説法をしたということを説いている。
妙法蓮華経如来神力品第二十一
妙法蓮華経如来神力品第二十一では上行菩薩等に如来寿量品第十六で解き明かされた一切の諸仏が悟りを得た根源の本地の法を付嘱している。
「爾時に仏、上行等の菩薩大衆に告げたまわく、諸仏の神力は是の如く無量無辺不可思議なり。若し我是の神力を以て無量無辺百千万億阿僧祇劫に於て、嘱累の為の故に此の経の功徳を説かんに、猶お尽くすこと能わじ。
要を以て之を言わば、如来の一切の所有の法・如来の一切の自在の神力・如来の一切の秘要の蔵・如来の一切の甚深の事、皆此の経に於て宣示顕説す。」
「是の故に汝等如来の滅後に於て、応当に一心に受持・読誦し解説・書写し説の如く修行すべし。所在の国土に、若しは受持・読誦し解説・書写し、説の如く修行し、若しは経巻所住の処あらん。若しは園中に於ても、若しは林中に於ても、若しは樹下に於ても、若しは僧坊に於て:も、若しは白衣の舎にても、若しは殿堂に在っても、若しは山谷曠野にても、是の中に皆塔を起てて供養すべし。」
「所以は何ん、当に知るべし、是の処は即ち是れ道場なり。諸仏此に於て阿耨多羅三藐三菩提を得、諸仏此に於て法輪を転じ、諸仏此に於て般涅槃したもう。」
神力品の後半部では、地涌の菩薩の上首である上行菩薩が末法の一切の衆生を成仏させることを釈尊が
「日月の光明の 能く諸の幽冥を除くが如く 斯の人世間に行じて 能く衆生の闇を滅し 無量の菩薩をして 畢竟して一乗に住せしめん」
と宣言している。
関連項目
外部リンク
- 鳩摩羅什訳『妙法蓮華経 : 冠註』 1911年、一喝社(影印版 国立国会図書館デジタルコレクション)
- 『妙法蓮華経』解説