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[[魏 (三国)|魏]]の[[侍中]]の[[応キョ|応璩]]の子として生まれた。談論を得意とし、才能と学問で知られた。応貞が[[夏侯玄]]を訪ねると、夏侯玄は応貞を高く評価した。高第に挙げられ、顕位を歴任した。[[司馬炎]]が撫軍大将軍となると、応貞はその下で撫軍参軍となった。晋の武帝(司馬炎)が即位すると、応貞は給事中に転じた。武帝が華林園で宴射を催すと、応貞は詩を賦して、その詩は最も美しいと評された。 |
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太子中庶子の官が初めて置かれると、応貞は護軍長史の[[孔恂]]とともにこれをつとめた。後に散騎常侍に転じた。[[太尉]]の[[ |
太子中庶子の官が初めて置かれると、応貞は護軍長史の[[孔恂]]とともにこれをつとめた。後に散騎常侍に転じた。[[太尉]]の[[荀顗]]とともに新礼の撰定にあたったが、施行されなかった。[[269年]]([[泰始 (晋)|泰始]]5年)、死去した。文集1巻が当時に通行した。 |
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== 伝記資料 == |
== 伝記資料 == |
2020年8月16日 (日) 12:02時点における版
応貞(應貞、おう てい、生年不明 - 269年)は、中国の晋代の官僚・文人。字は吉甫。本貫は汝南郡南頓県。
経歴
魏の侍中の応璩の子として生まれた。談論を得意とし、才能と学問で知られた。応貞が夏侯玄を訪ねると、夏侯玄は応貞を高く評価した。高第に挙げられ、顕位を歴任した。司馬炎が撫軍大将軍となると、応貞はその下で撫軍参軍となった。晋の武帝(司馬炎)が即位すると、応貞は給事中に転じた。武帝が華林園で宴射を催すと、応貞は詩を賦して、その詩は最も美しいと評された。
太子中庶子の官が初めて置かれると、応貞は護軍長史の孔恂とともにこれをつとめた。後に散騎常侍に転じた。太尉の荀顗とともに新礼の撰定にあたったが、施行されなかった。269年(泰始5年)、死去した。文集1巻が当時に通行した。
伝記資料
- 『晋書』巻92 列伝第62