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2020年8月16日 (日) 11:37時点における版
袁 敬(えん けい、507年 - 585年)は、南朝梁から陳にかけての人物。字は子恭。本貫は陳郡陽夏県。
経歴
梁の司空の袁昂(袁顗の子)の子として生まれた。梁に仕えて秘書郎を初任とし、太子舎人・太子洗馬・太子中舎人を歴任した。江陵が西魏の侵攻で陥落すると、袁敬は嶺南地方に流寓した。陳が建国されると、袁敬は広州で欧陽頠の下についた。563年(天嘉4年)、欧陽頠が死去すると、その子の欧陽紇が広州刺史となり、袁敬は引き続いてこれに仕えた。569年(太建元年)、欧陽紇が陳の宣帝に疑われて召還を命じられると、広州に拠って反乱を計画した。袁敬は欧陽紇を諫めたが、欧陽紇に聞き入れられなかった。章昭達が派遣されて欧陽紇は敗れたが、袁敬は欧陽紇の乱を阻止しようとした行為が評価されて、この年のうちに召されて太子中庶子・通直散騎常侍となった。まもなく司徒左長史に転じた。後に左民尚書となり、都官尚書に転じ、豫州大中正を兼ねた。太常卿・散騎常侍・金紫光禄大夫を歴任した。585年(至徳3年)1月、特進を加えられた。9月、死去した。享年は79、左光禄大夫の位を追贈された。諡は靖徳といった。
子の袁元友が後を嗣いだ。