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== 経歴 ==
== 経歴 ==
[[梁 (南朝)|梁]]の[[司空]]の[[袁昂]]([[袁ギ|袁顗]]の子)の子として生まれた。梁に仕えて秘書郎を初任とし、太子舎人・太子洗馬・太子中舎人を歴任した。[[荊州区|江陵]]が[[西魏]]の侵攻で陥落すると、袁敬は[[嶺南]]地方に流寓した。陳が建国されると、袁敬は[[広州 (広東省)|広州]]で[[欧陽ギ|欧陽頠]]の下についた。[[563年]]([[天嘉 (陳)|天嘉]]4年)、欧陽頠が死去すると、その子の[[欧陽コツ|欧陽紇]]が広州[[刺史]]となり、袁敬は引き続いてこれに仕えた。[[569年]]([[太建]]元年)、欧陽紇が陳の[[宣帝 (陳)|宣帝]]に疑われて召還を命じられると、広州に拠って反乱を計画した。袁敬は欧陽紇を諫めたが、欧陽紇に聞き入れられなかった。[[章昭達]]が派遣されて欧陽紇は敗れたが、袁敬は欧陽紇の乱を阻止しようとした行為が評価されて、この年のうちに召されて太子中庶子・通直散騎常侍となった。まもなく司徒左長史に転じた。後に左民尚書となり、都官尚書に転じ、[[豫州]]大中正を兼ねた。太常卿・散騎常侍・金紫光禄大夫を歴任した。[[585年]]([[至徳 (陳)|至徳]]3年)1月、特進を加えられた。9月、死去した。享年は79、左光禄大夫の位を追贈された。[[諡]]は靖徳といった。
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子の袁元友が後を嗣いだ。
子の袁元友が後を嗣いだ。

2020年8月16日 (日) 11:37時点における版

袁 敬(えん けい、507年 - 585年)は、南朝梁からにかけての人物。は子恭。本貫陳郡陽夏県

経歴

司空袁昂袁顗の子)の子として生まれた。梁に仕えて秘書郎を初任とし、太子舎人・太子洗馬・太子中舎人を歴任した。江陵西魏の侵攻で陥落すると、袁敬は嶺南地方に流寓した。陳が建国されると、袁敬は広州欧陽頠の下についた。563年天嘉4年)、欧陽頠が死去すると、その子の欧陽紇が広州刺史となり、袁敬は引き続いてこれに仕えた。569年太建元年)、欧陽紇が陳の宣帝に疑われて召還を命じられると、広州に拠って反乱を計画した。袁敬は欧陽紇を諫めたが、欧陽紇に聞き入れられなかった。章昭達が派遣されて欧陽紇は敗れたが、袁敬は欧陽紇の乱を阻止しようとした行為が評価されて、この年のうちに召されて太子中庶子・通直散騎常侍となった。まもなく司徒左長史に転じた。後に左民尚書となり、都官尚書に転じ、豫州大中正を兼ねた。太常卿・散騎常侍・金紫光禄大夫を歴任した。585年至徳3年)1月、特進を加えられた。9月、死去した。享年は79、左光禄大夫の位を追贈された。は靖徳といった。

子の袁元友が後を嗣いだ。

伝記資料