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'''清水 南山'''(しみず なんざん、本名: 清水 亀蔵、[[1875年]][[3月30日]] - [[1948年]][[12月7日]])は、[[広島県]][[豊田郡]]能地村(現・[[三原市]][[幸崎町]]能地)出身の彫金家<ref name="三原市の文化財">[https://www.city.mihara.hiroshima.jp/uploaded/attachment/3465.pdf 三原市の文化財 清水南山生誕の地] 三原市 2018年7月21日閲覧。</ref>。[[日本画]]の大家である[[平山郁夫]]の祖母の兄<ref name="ゆかりの人たち">[http://www.city.mihara.hiroshima.jp/site/kyouiku/yukari17.html 郷土三原ゆかりの人たち 清水南山] 三原市 2018年7月21日閲覧。</ref>。 |
'''清水 南山'''(しみず なんざん、本名: 清水 亀蔵、[[1875年]][[3月30日]] - [[1948年]][[12月7日]])は、[[広島県]][[豊田郡]]能地村(現・[[三原市]][[幸崎町]]能地)出身の彫金家<ref name="三原市の文化財">[https://www.city.mihara.hiroshima.jp/uploaded/attachment/3465.pdf 三原市の文化財 清水南山生誕の地] 三原市 2018年7月21日閲覧。</ref>。[[日本画]]の大家である[[平山郁夫]]の祖母の兄<ref name="ゆかりの人たち">[http://www.city.mihara.hiroshima.jp/site/kyouiku/yukari17.html 郷土三原ゆかりの人たち 清水南山] 三原市 2018年7月21日閲覧。</ref>。 |
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広島県出身者としては初めて特待生として[[東京藝術大学#東京美術学校|東京美術学校]](現在の[[東京藝術大学]])に入学した<ref name="三原市の文化財"/>。最初は絵画科([[日本画]])へ所属していたが、後に彫金科に編入した<ref name="ゆかりの人たち"/>。彫金科を卒業後に研究科で[[加納夏雄]]、[[ |
広島県出身者としては初めて特待生として[[東京藝術大学#東京美術学校|東京美術学校]](現在の[[東京藝術大学]])に入学した<ref name="三原市の文化財"/>。最初は絵画科([[日本画]])へ所属していたが、後に彫金科に編入した<ref name="ゆかりの人たち"/>。彫金科を卒業後に研究科で[[加納夏雄]]、[[海野勝珉]]に、塑造科で[[藤田文蔵 (彫刻家)|藤田文蔵]]に学んだ<ref name="東京文化財研究所">[http://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/8537.html 清水南山] [[東京文化財研究所]] 2018年7月21日閲覧。</ref>。その後は独自の創作活動を続け、彫金界の第一人者としての地位を築いた。1909年、[[香川県立高松工芸高等学校|香川県立工芸学校]]の教諭になるが、6年余りで退職し、[[奈良県]]に住んで[[法隆寺]]の古美術を研究した<ref name="日本大百科全書">[https://kotobank.jp/word/%E6%B8%85%E6%B0%B4%E5%8D%97%E5%B1%B1-1543315 清水南山]小学館「日本大百科全書」コトバンク 2018年7月21日閲覧。</ref><ref name="ゆかりの人たち"/>。1919年から1945年までは母校の東京美術学校の教授として、学生の指導に当たった<ref name="東京文化財研究所"/><ref name="ゆかりの人たち"/>。この間、[[帝室技芸員]](1934年12月3日<ref>『官報』第2378号、昭和9年12月4日。</ref>)、日本彫金会会長、帝国美術院会員を歴任した<ref name="東京文化財研究所"/>。 |
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その作風は伝統技法を大切にした格調高いもので<ref name="日本大百科全書"/>、「梅花図鍍金印櫃」などの代表作を残している<ref name="ゆかりの人たち"/>。南山の専門とする彫金は金属面を鏨で彫り崩し、絵画的文様を表現するという極めて装飾性の高い技術である。 |
その作風は伝統技法を大切にした格調高いもので<ref name="日本大百科全書"/>、「梅花図鍍金印櫃」などの代表作を残している<ref name="ゆかりの人たち"/>。南山の専門とする彫金は金属面を鏨で彫り崩し、絵画的文様を表現するという極めて装飾性の高い技術である。 |
2020年8月16日 (日) 08:52時点における版
清水 南山(しみず なんざん、本名: 清水 亀蔵、1875年3月30日 - 1948年12月7日)は、広島県豊田郡能地村(現・三原市幸崎町能地)出身の彫金家[1]。日本画の大家である平山郁夫の祖母の兄[2]。
広島県出身者としては初めて特待生として東京美術学校(現在の東京藝術大学)に入学した[1]。最初は絵画科(日本画)へ所属していたが、後に彫金科に編入した[2]。彫金科を卒業後に研究科で加納夏雄、海野勝珉に、塑造科で藤田文蔵に学んだ[3]。その後は独自の創作活動を続け、彫金界の第一人者としての地位を築いた。1909年、香川県立工芸学校の教諭になるが、6年余りで退職し、奈良県に住んで法隆寺の古美術を研究した[4][2]。1919年から1945年までは母校の東京美術学校の教授として、学生の指導に当たった[3][2]。この間、帝室技芸員(1934年12月3日[5])、日本彫金会会長、帝国美術院会員を歴任した[3]。
その作風は伝統技法を大切にした格調高いもので[4]、「梅花図鍍金印櫃」などの代表作を残している[2]。南山の専門とする彫金は金属面を鏨で彫り崩し、絵画的文様を表現するという極めて装飾性の高い技術である。
第二次世界大戦が終結する一か月前、東京美術学校を退官して故郷に疎開し、そこで終戦を迎える。戦後、物資がとぼしく材料や工具など不自由であったが創作活動を続けた。そして1948年12月7日、結核性腹膜炎を患い病床に伏し、東京の自宅で死去した。享年73。
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獅子文香炉 1944年 東京国立博物館
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梅花文印櫃 1929年 東京国立博物館