「皇甫惟明」の版間の差分
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天宝5載([[746年]])、吐蕃との勝利の報のために長安に戻り、河西節度使を兼ねることとなった。[[李林甫]]の専横を知り、玄宗との謁見の際に李林甫を除くことを勧め、太子妃の兄の[[韋堅]]を褒め称る。皇甫惟明が李林甫と対立する太子李亨の部下であったこともあり、李林甫の意を受けた[[楊慎矜]]に監視されることとなった。 |
天宝5載([[746年]])、吐蕃との勝利の報のために長安に戻り、河西節度使を兼ねることとなった。[[李林甫]]の専横を知り、玄宗との謁見の際に李林甫を除くことを勧め、太子妃の兄の[[韋堅]]を褒め称る。皇甫惟明が李林甫と対立する太子李亨の部下であったこともあり、李林甫の意を受けた[[楊慎矜]]に監視されることとなった。 |
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韋堅と会見したことを楊慎矜に暴かれる。李林甫が「韋堅と皇甫惟明が太子を立てて、謀反を起こそうとした」と上奏したため、皇甫惟明は獄に下された。この詮議は李林甫の腹心である[[ |
韋堅と会見したことを楊慎矜に暴かれる。李林甫が「韋堅と皇甫惟明が太子を立てて、謀反を起こそうとした」と上奏したため、皇甫惟明は獄に下された。この詮議は李林甫の腹心である[[王鉷]]や[[吉温]]が行った。玄宗は、皇甫惟明を君臣を離間した罪で[[播州 (中国)|播川郡]]太守に左遷させる。 |
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李林甫の政敵排除の動きはさらに激しくなった。 |
李林甫の政敵排除の動きはさらに激しくなった。 |
2020年8月16日 (日) 07:19時点における版
皇甫 惟明(こうほ いめい、? - 天宝6載(747年))は、唐代玄宗朝の武将。吐蕃との戦いで功績を上げたが、政争に敗れ自殺を命じられた。
経歴
正史に伝は無い。開元18年(730年)、皇甫惟明が忠王李亨(後の太子・粛宗)の王友[1]であった時、吐蕃が和平を求めてきた。和平を結ぶことを上奏し、戦争を望む玄宗を説き伏せて意見が採用される。吐蕃への使者となり、吐蕃にいた金城公主に書を渡した上で、吐蕃の賛普ティデ・ツグツェンに会見し和平を結ぶのに成功した。また、吐蕃の使者とともに長安に帰還し入貢させている[2]。
天宝元年(742年)、隴右節度使として吐蕃を度々破る。天宝2年(743年)、西平郡に軍を出し、洪済城で吐蕃を攻め破っている。天宝4載(745年)、吐蕃の石堡城を攻めて敗北し、副将が戦死する[3]。
天宝5載(746年)、吐蕃との勝利の報のために長安に戻り、河西節度使を兼ねることとなった。李林甫の専横を知り、玄宗との謁見の際に李林甫を除くことを勧め、太子妃の兄の韋堅を褒め称る。皇甫惟明が李林甫と対立する太子李亨の部下であったこともあり、李林甫の意を受けた楊慎矜に監視されることとなった。
韋堅と会見したことを楊慎矜に暴かれる。李林甫が「韋堅と皇甫惟明が太子を立てて、謀反を起こそうとした」と上奏したため、皇甫惟明は獄に下された。この詮議は李林甫の腹心である王鉷や吉温が行った。玄宗は、皇甫惟明を君臣を離間した罪で播川郡太守に左遷させる。
李林甫の政敵排除の動きはさらに激しくなった。
天宝6載(747年)正月辛巳、李林甫の上奏により、左遷地で死を賜ることとなり、使者に殺された。彼の後任には王忠嗣が任じられた。
井上靖の小説「楊貴妃伝」では、楊貴妃が(恋愛ではなく、政治的意味で)好意を示す将軍として登場している。それを舞台化した宝塚歌劇団星組の『花舞う長安』でも楊貴妃に好意を寄せる男性の一人としての役割を与えられて、登場する。
脚注
伝記資料
登場する小説
- 井上靖「楊貴妃伝」(講談社文庫、1972年)ISBN 9784061311152