コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「李琰之」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼: 「元キョウ」→「元勰」などの改名に伴うリンク修正依頼 (元勰) - log
2行目: 2行目:


== 経歴 ==
== 経歴 ==
幼い頃から有名で、神童と呼ばれた。叔父の[[李沖 (北魏)|李沖]]に一族の俊英として嘱望され、いつも小遣いを与えられて自分の子のように愛された。弱冠にして秀才に挙げられたが、官につかなかった。河内の北山に遊んで、隠遁しようと考えていた。しかし彭城王[[元キョウ|元勰]]に召されて行台参軍とされ、嫌々ながら招聘に応じた。[[侍中]]の[[李彪]]の推薦により著作郎を兼ね、国史の修撰をつとめた。しばらくして国子博士に転じ、尚書儀曹郎中を兼ねた。中書侍郎・司農少卿・黄門郎となった。国子祭酒となり、秘書監に転じ、七兵尚書を兼ねた。太常卿となった。[[528年]]、[[元天穆]]の下で[[葛栄]]を討ち、御史中尉を兼ね、北道軍司となった。帰還すると、征東将軍に任ぜられ、太常を兼ねた。
幼い頃から有名で、神童と呼ばれた。叔父の[[李沖 (北魏)|李沖]]に一族の俊英として嘱望され、いつも小遣いを与えられて自分の子のように愛された。弱冠にして秀才に挙げられたが、官につかなかった。河内の北山に遊んで、隠遁しようと考えていた。しかし彭城王[[元勰]]に召されて行台参軍とされ、嫌々ながら招聘に応じた。[[侍中]]の[[李彪]]の推薦により著作郎を兼ね、国史の修撰をつとめた。しばらくして国子博士に転じ、尚書儀曹郎中を兼ねた。中書侍郎・司農少卿・黄門郎となった。国子祭酒となり、秘書監に転じ、七兵尚書を兼ねた。太常卿となった。[[528年]]、[[元天穆]]の下で[[葛栄]]を討ち、御史中尉を兼ね、北道軍司となった。帰還すると、征東将軍に任ぜられ、太常を兼ねた。


[[衛将軍]]・[[荊州]][[刺史]]として出向した。しばらくして尚書左僕射・三荊二郢大行台を兼ねた。まもなく散騎常侍の位を加えられた。[[530年]]、[[爾朱兆]]が洛陽に入ると、南陽郡太守の趙脩延が琰之は[[梁 (南朝)|梁]]に亡命するつもりだと難癖をつけ、荊州の州城を襲撃して琰之を捕らえ、荊州の行政権を掌握した。荊州城内の人が趙脩延を斬ると、琰之は荊州刺史の任にもどった。[[532年]]、[[孝武帝 (北魏)|孝武帝]]が即位すると、琰之は洛陽に召還されて[[侍中]]・車騎大将軍・左光禄大夫・[[儀同三司]]を兼ねた。[[533年]]、死去した。侍中・驃騎大将軍・[[司徒|司徒公]]・[[雍州]]刺史の位を追贈された。[[諡]]は文簡といった。
[[衛将軍]]・[[荊州]][[刺史]]として出向した。しばらくして尚書左僕射・三荊二郢大行台を兼ねた。まもなく散騎常侍の位を加えられた。[[530年]]、[[爾朱兆]]が洛陽に入ると、南陽郡太守の趙脩延が琰之は[[梁 (南朝)|梁]]に亡命するつもりだと難癖をつけ、荊州の州城を襲撃して琰之を捕らえ、荊州の行政権を掌握した。荊州城内の人が趙脩延を斬ると、琰之は荊州刺史の任にもどった。[[532年]]、[[孝武帝 (北魏)|孝武帝]]が即位すると、琰之は洛陽に召還されて[[侍中]]・車騎大将軍・左光禄大夫・[[儀同三司]]を兼ねた。[[533年]]、死去した。侍中・驃騎大将軍・[[司徒|司徒公]]・[[雍州]]刺史の位を追贈された。[[諡]]は文簡といった。

2020年8月16日 (日) 07:13時点における版

李 琰之(り えんし、? - 533年)は、北魏の官僚・武人。は景珍。小字は墨蠡。本貫隴西郡狄道県李韶の族弟にあたる。

経歴

幼い頃から有名で、神童と呼ばれた。叔父の李沖に一族の俊英として嘱望され、いつも小遣いを与えられて自分の子のように愛された。弱冠にして秀才に挙げられたが、官につかなかった。河内の北山に遊んで、隠遁しようと考えていた。しかし彭城王元勰に召されて行台参軍とされ、嫌々ながら招聘に応じた。侍中李彪の推薦により著作郎を兼ね、国史の修撰をつとめた。しばらくして国子博士に転じ、尚書儀曹郎中を兼ねた。中書侍郎・司農少卿・黄門郎となった。国子祭酒となり、秘書監に転じ、七兵尚書を兼ねた。太常卿となった。528年元天穆の下で葛栄を討ち、御史中尉を兼ね、北道軍司となった。帰還すると、征東将軍に任ぜられ、太常を兼ねた。

衛将軍荊州刺史として出向した。しばらくして尚書左僕射・三荊二郢大行台を兼ねた。まもなく散騎常侍の位を加えられた。530年爾朱兆が洛陽に入ると、南陽郡太守の趙脩延が琰之はに亡命するつもりだと難癖をつけ、荊州の州城を襲撃して琰之を捕らえ、荊州の行政権を掌握した。荊州城内の人が趙脩延を斬ると、琰之は荊州刺史の任にもどった。532年孝武帝が即位すると、琰之は洛陽に召還されて侍中・車騎大将軍・左光禄大夫・儀同三司を兼ねた。533年、死去した。侍中・驃騎大将軍・司徒公雍州刺史の位を追贈された。は文簡といった。

子に李綱・李恵があり、ともに孝武帝に従って関中に入った。

伝記資料

  • 魏書』巻82 列伝第70
  • 北史』巻100 列伝第88