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幼い頃から有名で、神童と呼ばれた。叔父の[[李沖 (北魏)|李沖]]に一族の俊英として嘱望され、いつも小遣いを与えられて自分の子のように愛された。弱冠にして秀才に挙げられたが、官につかなかった。河内の北山に遊んで、隠遁しようと考えていた。しかし彭城王[[元勰]]に召されて行台参軍とされ、嫌々ながら招聘に応じた。[[侍中]]の[[李彪]]の推薦により著作郎を兼ね、国史の修撰をつとめた。しばらくして国子博士に転じ、尚書儀曹郎中を兼ねた。中書侍郎・司農少卿・黄門郎となった。国子祭酒となり、秘書監に転じ、七兵尚書を兼ねた。太常卿となった。[[528年]]、[[元天穆]]の下で[[葛栄]]を討ち、御史中尉を兼ね、北道軍司となった。帰還すると、征東将軍に任ぜられ、太常を兼ねた。 |
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[[衛将軍]]・[[荊州]][[刺史]]として出向した。しばらくして尚書左僕射・三荊二郢大行台を兼ねた。まもなく散騎常侍の位を加えられた。[[530年]]、[[爾朱兆]]が洛陽に入ると、南陽郡太守の趙脩延が琰之は[[梁 (南朝)|梁]]に亡命するつもりだと難癖をつけ、荊州の州城を襲撃して琰之を捕らえ、荊州の行政権を掌握した。荊州城内の人が趙脩延を斬ると、琰之は荊州刺史の任にもどった。[[532年]]、[[孝武帝 (北魏)|孝武帝]]が即位すると、琰之は洛陽に召還されて[[侍中]]・車騎大将軍・左光禄大夫・[[儀同三司]]を兼ねた。[[533年]]、死去した。侍中・驃騎大将軍・[[司徒|司徒公]]・[[雍州]]刺史の位を追贈された。[[諡]]は文簡といった。 |
2020年8月16日 (日) 07:13時点における版
李 琰之(り えんし、? - 533年)は、北魏の官僚・武人。字は景珍。小字は墨蠡。本貫は隴西郡狄道県。李韶の族弟にあたる。
経歴
幼い頃から有名で、神童と呼ばれた。叔父の李沖に一族の俊英として嘱望され、いつも小遣いを与えられて自分の子のように愛された。弱冠にして秀才に挙げられたが、官につかなかった。河内の北山に遊んで、隠遁しようと考えていた。しかし彭城王元勰に召されて行台参軍とされ、嫌々ながら招聘に応じた。侍中の李彪の推薦により著作郎を兼ね、国史の修撰をつとめた。しばらくして国子博士に転じ、尚書儀曹郎中を兼ねた。中書侍郎・司農少卿・黄門郎となった。国子祭酒となり、秘書監に転じ、七兵尚書を兼ねた。太常卿となった。528年、元天穆の下で葛栄を討ち、御史中尉を兼ね、北道軍司となった。帰還すると、征東将軍に任ぜられ、太常を兼ねた。
衛将軍・荊州刺史として出向した。しばらくして尚書左僕射・三荊二郢大行台を兼ねた。まもなく散騎常侍の位を加えられた。530年、爾朱兆が洛陽に入ると、南陽郡太守の趙脩延が琰之は梁に亡命するつもりだと難癖をつけ、荊州の州城を襲撃して琰之を捕らえ、荊州の行政権を掌握した。荊州城内の人が趙脩延を斬ると、琰之は荊州刺史の任にもどった。532年、孝武帝が即位すると、琰之は洛陽に召還されて侍中・車騎大将軍・左光禄大夫・儀同三司を兼ねた。533年、死去した。侍中・驃騎大将軍・司徒公・雍州刺史の位を追贈された。諡は文簡といった。
子に李綱・李恵があり、ともに孝武帝に従って関中に入った。