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== 経歴 ==
== 経歴 ==
咸陽王[[元禧]]の七男として生まれた。若い頃から飲酒して酔っては洛橋を通行する人を辱めたので、従叔の安豊王[[元延明]]に説教され、[[宋 (南朝)|宋]]の東海王劉禕に似ていると評され、驢王と称された。[[501年]]、元禧が殺された後、彭城王[[元キョウ|元勰]]に養われた。兄の元翼・[[元樹]]ら5人が南朝に逃れたため、父の後を嗣いで咸陽王に封じられ、まもなく敷城王に改封された。[[528年]]、咸陽王にもどり、侍中に累進した。
咸陽王[[元禧]]の七男として生まれた。若い頃から飲酒して酔っては洛橋を通行する人を辱めたので、従叔の安豊王[[元延明]]に説教され、[[宋 (南朝)|宋]]の東海王劉禕に似ていると評され、驢王と称された。[[501年]]、元禧が殺された後、彭城王[[元勰]]に養われた。兄の元翼・[[元樹]]ら5人が南朝に逃れたため、父の後を嗣いで咸陽王に封じられ、まもなく敷城王に改封された。[[528年]]、咸陽王にもどり、侍中に累進した。


[[532年]]、兄の元樹が捕らえられた。元坦は元樹が年長でかつ賢明であったので、取って代わられるのを恐れて、ひそかに朝廷に勧めて兄を除かせたのであった。元樹はこれを知って、泣いて元坦を責め、元坦は憮然として去った。元樹が死んでも、元坦は哭礼に臨むことはなかった。[[司徒]]・[[太尉]]・[[太傅]]を歴任し、[[侍中]]・[[太師]]・[[録尚書事]]・宗正・司州牧を加えられた。高位に上って封禄も厚かったが、財産あさりには貪欲で、売獄売官に励んだ。御史に弾劾されて免官され、王のまま帰宅させられた。まもなく特進として再起し、[[冀州]][[刺史]]として出向し、再び収奪をもっぱらにした。正規の百姓の税金の外に、絹五疋を取り立てて、受け取っていた。また狩猟や漁撈を好み、秋冬は雉や兎を狩り、春夏は魚や蟹を捕らえて、出かけない日はなく、鷹や犬は数百頭を常備していた。三日食わないことはできるが、一日として猟をしないことはできないと放言していた。[[北斉]]が建国されると、爵位を降格されて新豊県公に封ぜられ、特進・開府儀同三司に任ぜられた。子の元世宝と通直散騎侍郎の彭貴平が酒に酔って誹謗をなし、怪しげな図讖を説いた事件に連座し、死罪に当たると上奏されたが、詔により許された。北営州に流され、配所で死んだ。
[[532年]]、兄の元樹が捕らえられた。元坦は元樹が年長でかつ賢明であったので、取って代わられるのを恐れて、ひそかに朝廷に勧めて兄を除かせたのであった。元樹はこれを知って、泣いて元坦を責め、元坦は憮然として去った。元樹が死んでも、元坦は哭礼に臨むことはなかった。[[司徒]]・[[太尉]]・[[太傅]]を歴任し、[[侍中]]・[[太師]]・[[録尚書事]]・宗正・司州牧を加えられた。高位に上って封禄も厚かったが、財産あさりには貪欲で、売獄売官に励んだ。御史に弾劾されて免官され、王のまま帰宅させられた。まもなく特進として再起し、[[冀州]][[刺史]]として出向し、再び収奪をもっぱらにした。正規の百姓の税金の外に、絹五疋を取り立てて、受け取っていた。また狩猟や漁撈を好み、秋冬は雉や兎を狩り、春夏は魚や蟹を捕らえて、出かけない日はなく、鷹や犬は数百頭を常備していた。三日食わないことはできるが、一日として猟をしないことはできないと放言していた。[[北斉]]が建国されると、爵位を降格されて新豊県公に封ぜられ、特進・開府儀同三司に任ぜられた。子の元世宝と通直散騎侍郎の彭貴平が酒に酔って誹謗をなし、怪しげな図讖を説いた事件に連座し、死罪に当たると上奏されたが、詔により許された。北営州に流され、配所で死んだ。

2020年8月16日 (日) 07:13時点における版

元 坦(げん たん、生没年不詳)は、中国北魏東魏皇族。またの名は穆。は延和。北魏献文帝の孫。

経歴

咸陽王元禧の七男として生まれた。若い頃から飲酒して酔っては洛橋を通行する人を辱めたので、従叔の安豊王元延明に説教され、の東海王劉禕に似ていると評され、驢王と称された。501年、元禧が殺された後、彭城王元勰に養われた。兄の元翼・元樹ら5人が南朝に逃れたため、父の後を嗣いで咸陽王に封じられ、まもなく敷城王に改封された。528年、咸陽王にもどり、侍中に累進した。

532年、兄の元樹が捕らえられた。元坦は元樹が年長でかつ賢明であったので、取って代わられるのを恐れて、ひそかに朝廷に勧めて兄を除かせたのであった。元樹はこれを知って、泣いて元坦を責め、元坦は憮然として去った。元樹が死んでも、元坦は哭礼に臨むことはなかった。司徒太尉太傅を歴任し、侍中太師録尚書事・宗正・司州牧を加えられた。高位に上って封禄も厚かったが、財産あさりには貪欲で、売獄売官に励んだ。御史に弾劾されて免官され、王のまま帰宅させられた。まもなく特進として再起し、冀州刺史として出向し、再び収奪をもっぱらにした。正規の百姓の税金の外に、絹五疋を取り立てて、受け取っていた。また狩猟や漁撈を好み、秋冬は雉や兎を狩り、春夏は魚や蟹を捕らえて、出かけない日はなく、鷹や犬は数百頭を常備していた。三日食わないことはできるが、一日として猟をしないことはできないと放言していた。北斉が建国されると、爵位を降格されて新豊県公に封ぜられ、特進・開府儀同三司に任ぜられた。子の元世宝と通直散騎侍郎の彭貴平が酒に酔って誹謗をなし、怪しげな図讖を説いた事件に連座し、死罪に当たると上奏されたが、詔により許された。北営州に流され、配所で死んだ。

伝記資料