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「南子」の版間の差分

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== 概要 ==
== 概要 ==
[[宋 (春秋)|宋]]に生まれ<ref>『[[史記集解]]』衛康叔世家所引賈逵</ref>、衛の霊公にとついだ。『[[論語]]』に「子見南子、子路不説、夫子矢之曰、予所否者、天厭之、天厭之」([[孔子]]が南子に謁見した。[[子路]]はこれを嫌がり不快に思ったが、孔子は「私にやましい所があれば、天これを厭うだろう、天これを厭うだろう」と誓っていった)と記載されている<ref>『論語』雍也第六</ref>。南子は衛において奔放に行動した結果、姦婦・淫乱<ref>[https://books.google.co.jp/books?id=pWyQMimQFuAC&pg=PA150#v=onepage&q&f=false 日本近現代文学に内在する他者としての「中国」]国立台湾大学出版中心 淑文主編</ref>とされた<ref>[https://books.google.co.jp/books?hl=ja&id=tBMYAQAAMAAJ&dq=&focus=searchwithinvolume&q=南子 新釈漢文大系 68 論衡上]山田勝美 明治書院 1976</ref><ref name="Cui_ronbun">[https://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/30037/1/KyoikugakuKenkyukaKiyoSep_17_01_Cui.pdf 二人の南子: 谷崎潤一郎 「麒麟」 と林語堂 「子見南子」]早稲田大学 崔海燕 2009</ref>。宋の{{仮リンク|公子朝|zh|宋朝 (人物)}}と不倫していたとされ、世間的に大変評判が悪かった。ただ夫の霊公の寵愛はゆるがなかった。[[紀元前496年]]、太子の[[荘公カイカイ|蒯聵]]が南子を殺そうとして発覚し、蒯聵が国外追放になった<ref>『[[史記]]』衛康叔世家および『[[春秋左氏伝]]』定公14年</ref>。[[紀元前493年]]、霊公が死去すると、南子は公子郢を擁立しようとした。公子郢が承知しなかったため、蒯聵の子の輒が衛の君主として即位した。これが[[出公 (衛)|出公]]である<ref>『史記』仲尼弟子列伝および『春秋左氏伝』哀公2年</ref>。[[紀元前480年]]、蒯聵が祖国に戻り、衛の君主として立つと、南子を殺害した<ref>『[[列女伝]]』孽嬖伝「衛二乱女」</ref>。歴史的事実ではないが、いくつかの映像作品などでは、南子が孔子に恋愛感情を抱いていたと解釈して、礼儀を重んじる堅物孔子を誘惑する女性として描かれている。
[[宋 (春秋)|宋]]に生まれ<ref>『[[史記集解]]』衛康叔世家所引賈逵</ref>、衛の霊公にとついだ。『[[論語]]』に「子見南子、子路不説、夫子矢之曰、予所否者、天厭之、天厭之」([[孔子]]が南子に謁見した。[[子路]]はこれを嫌がり不快に思ったが、孔子は「私にやましい所があれば、天これを厭うだろう、天これを厭うだろう」と誓っていった)と記載されている<ref>『論語』雍也第六</ref>。南子は衛において奔放に行動した結果、姦婦・淫乱<ref>[https://books.google.co.jp/books?id=pWyQMimQFuAC&pg=PA150#v=onepage&q&f=false 日本近現代文学に内在する他者としての「中国」]国立台湾大学出版中心 淑文主編</ref>とされた<ref>[https://books.google.co.jp/books?hl=ja&id=tBMYAQAAMAAJ&dq=&focus=searchwithinvolume&q=南子 新釈漢文大系 68 論衡上]山田勝美 明治書院 1976</ref><ref name="Cui_ronbun">[https://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/30037/1/KyoikugakuKenkyukaKiyoSep_17_01_Cui.pdf 二人の南子: 谷崎潤一郎 「麒麟」 と林語堂 「子見南子」]早稲田大学 崔海燕 2009</ref>。宋の{{仮リンク|公子朝|zh|宋朝 (人物)}}と不倫していたとされ、世間的に大変評判が悪かった。ただ夫の霊公の寵愛はゆるがなかった。[[紀元前496年]]、太子の[[荘公蒯聵|蒯聵]]が南子を殺そうとして発覚し、蒯聵が国外追放になった<ref>『[[史記]]』衛康叔世家および『[[春秋左氏伝]]』定公14年</ref>。[[紀元前493年]]、霊公が死去すると、南子は公子郢を擁立しようとした。公子郢が承知しなかったため、蒯聵の子の輒が衛の君主として即位した。これが[[出公 (衛)|出公]]である<ref>『史記』仲尼弟子列伝および『春秋左氏伝』哀公2年</ref>。[[紀元前480年]]、蒯聵が祖国に戻り、衛の君主として立つと、南子を殺害した<ref>『[[列女伝]]』孽嬖伝「衛二乱女」</ref>。歴史的事実ではないが、いくつかの映像作品などでは、南子が孔子に恋愛感情を抱いていたと解釈して、礼儀を重んじる堅物孔子を誘惑する女性として描かれている。


== 作品 ==
== 作品 ==

2020年8月16日 (日) 06:58時点における版

南子
の公爵夫人

配偶者 霊公
氏族 子姓宋氏
出身諸侯国
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南子(なんし、生年不詳 - 紀元前480年)は、春秋時代霊公の夫人。

概要

に生まれ[1]、衛の霊公にとついだ。『論語』に「子見南子、子路不説、夫子矢之曰、予所否者、天厭之、天厭之」(孔子が南子に謁見した。子路はこれを嫌がり不快に思ったが、孔子は「私にやましい所があれば、天これを厭うだろう、天これを厭うだろう」と誓っていった)と記載されている[2]。南子は衛において奔放に行動した結果、姦婦・淫乱[3]とされた[4][5]。宋の公子朝中国語版と不倫していたとされ、世間的に大変評判が悪かった。ただ夫の霊公の寵愛はゆるがなかった。紀元前496年、太子の蒯聵が南子を殺そうとして発覚し、蒯聵が国外追放になった[6]紀元前493年、霊公が死去すると、南子は公子郢を擁立しようとした。公子郢が承知しなかったため、蒯聵の子の輒が衛の君主として即位した。これが出公である[7]紀元前480年、蒯聵が祖国に戻り、衛の君主として立つと、南子を殺害した[8]。歴史的事実ではないが、いくつかの映像作品などでは、南子が孔子に恋愛感情を抱いていたと解釈して、礼儀を重んじる堅物孔子を誘惑する女性として描かれている。

作品

小説

映像作品

映画
テレビドラマ

脚注

  1. ^ 史記集解』衛康叔世家所引賈逵
  2. ^ 『論語』雍也第六
  3. ^ 日本近現代文学に内在する他者としての「中国」国立台湾大学出版中心 淑文主編
  4. ^ 新釈漢文大系 68 論衡上山田勝美 明治書院 1976
  5. ^ a b c 二人の南子: 谷崎潤一郎 「麒麟」 と林語堂 「子見南子」早稲田大学 崔海燕 2009
  6. ^ 史記』衛康叔世家および『春秋左氏伝』定公14年
  7. ^ 『史記』仲尼弟子列伝および『春秋左氏伝』哀公2年
  8. ^ 列女伝』孽嬖伝「衛二乱女」