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'''張 徳彝'''(ちょう とくい、''Zhang Deyi''、[[1847年]] ‐ [[1918年]])。初名は'''徳明'''、字は'''在初'''。[[清]]末の[[外交官]]。
'''張 徳彝'''(ちょう とくい、''Zhang Deyi''、[[1847年]] ‐ [[1918年]])。初名は'''徳明'''、字は'''在初'''。[[清]]末の[[外交官]]。


[[遼寧省|遼寧]][[鉄嶺市|鉄嶺]]出身。[[漢軍八旗|漢軍鑲黄旗人]]。[[1862年]]より[[同文館]]で外国語を学ぶ。[[1868年]]、元駐清公使[[アンソン・バーリンゲーム]]率いる使節団に[[通訳]]として加わり、[[イギリス]]・[[フランス]]・[[ベルギー]]・[[プロイセン]]など10ヶ国を歴訪した。帰国後に『航海述奇』を著し、見聞を詳述した。[[1870年]]、[[天津教案]]が発生すると、[[欽差大臣]][[崇厚]]が謝罪に赴いたが、このときも通訳として随行し、[[パリ・コミューン]]を目撃している。[[1876年]]、清朝が[[郭嵩トウ|郭嵩燾]]を初代駐英公使に任命すると、張徳彝も[[ロンドン]]の公使館の通訳に任命された。[[1887年]]、駐独公使[[洪鈞]]に従って[[ベルリン]]の公使館の随員となった。[[1891年]]に帰国し、同文館の同窓の沈鐸とともに[[光緒帝]]に英語を教授した。[[1896年]]、駐英公使[[羅豊禄]]の参事官となった。[[1901年]]、駐英公使に就任し、[[1905年]]に任期満了で帰国した。
[[遼寧省|遼寧]][[鉄嶺市|鉄嶺]]出身。[[漢軍八旗|漢軍鑲黄旗人]]。[[1862年]]より[[同文館]]で外国語を学ぶ。[[1868年]]、元駐清公使[[アンソン・バーリンゲーム]]率いる使節団に[[通訳]]として加わり、[[イギリス]]・[[フランス]]・[[ベルギー]]・[[プロイセン]]など10ヶ国を歴訪した。帰国後に『航海述奇』を著し、見聞を詳述した。[[1870年]]、[[天津教案]]が発生すると、[[欽差大臣]][[崇厚]]が謝罪に赴いたが、このときも通訳として随行し、[[パリ・コミューン]]を目撃している。[[1876年]]、清朝が[[郭嵩燾]]を初代駐英公使に任命すると、張徳彝も[[ロンドン]]の公使館の通訳に任命された。[[1887年]]、駐独公使[[洪鈞]]に従って[[ベルリン]]の公使館の随員となった。[[1891年]]に帰国し、同文館の同窓の沈鐸とともに[[光緒帝]]に英語を教授した。[[1896年]]、駐英公使[[羅豊禄]]の参事官となった。[[1901年]]、駐英公使に就任し、[[1905年]]に任期満了で帰国した。


張徳彝は生涯で8回外国を訪問し、27年を外国で過ごした。そのたびに詳細な日記を残し、『航海述奇』『再述奇』…『八述奇』まである。
張徳彝は生涯で8回外国を訪問し、27年を外国で過ごした。そのたびに詳細な日記を残し、『航海述奇』『再述奇』…『八述奇』まである。

2020年8月16日 (日) 06:52時点における版

張 徳彝(ちょう とくい、Zhang Deyi1847年1918年)。初名は徳明、字は在初末の外交官

遼寧鉄嶺出身。漢軍鑲黄旗人1862年より同文館で外国語を学ぶ。1868年、元駐清公使アンソン・バーリンゲーム率いる使節団に通訳として加わり、イギリスフランスベルギープロイセンなど10ヶ国を歴訪した。帰国後に『航海述奇』を著し、見聞を詳述した。1870年天津教案が発生すると、欽差大臣崇厚が謝罪に赴いたが、このときも通訳として随行し、パリ・コミューンを目撃している。1876年、清朝が郭嵩燾を初代駐英公使に任命すると、張徳彝もロンドンの公使館の通訳に任命された。1887年、駐独公使洪鈞に従ってベルリンの公使館の随員となった。1891年に帰国し、同文館の同窓の沈鐸とともに光緒帝に英語を教授した。1896年、駐英公使羅豊禄の参事官となった。1901年、駐英公使に就任し、1905年に任期満了で帰国した。

張徳彝は生涯で8回外国を訪問し、27年を外国で過ごした。そのたびに詳細な日記を残し、『航海述奇』『再述奇』…『八述奇』まである。

1918年、病のため北京で死去。