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'''劉 蓉'''(りゅう よう、''Liu Rong''、[[1816年]] - [[1873年]])は、[[清]]末の官僚。桐城派の[[文人]]。字は'''孟容'''、号は'''霞仙'''。[[湖南省]]湘県(現在の[[婁底市]][[婁星区]]<ref>[http://www.ldlx.com/Info.aspx?ModelId=1&Id=5530 中国人民政治協商会議婁底市婁星区委員会 晩清名儒劉蓉]</ref>万宝鎮)出身。 |
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[[1861年]]、[[四川総督]][[駱秉章]]の幕僚となり、軍事と政治の両面で功績を重ねて四川布政使となった。[[1863年]]、[[大渡河]]で石達開軍と戦って勝利をおさめ、石達開を捕らえた。 |
2020年8月16日 (日) 06:52時点における版
劉 蓉(りゅう よう、Liu Rong、1816年 - 1873年)は、清末の官僚。桐城派の文人。字は孟容、号は霞仙。湖南省湘県(現在の婁底市婁星区[1]万宝鎮)出身。
曽国藩の幕僚となり、郭嵩燾・羅沢南らと親しく交流した。1855年には太平天国の石達開が湘軍の水軍を攻撃し、100隻余りを焼き討ちし、曽国藩の船も捕えられた。曽国藩は憤激のあまり敵軍に突入して死ぬと言ったが、劉蓉らが押しとどめた。
1861年、四川総督駱秉章の幕僚となり、軍事と政治の両面で功績を重ねて四川布政使となった。1863年、大渡河で石達開軍と戦って勝利をおさめ、石達開を捕らえた。
1863年、陝西巡撫に昇進した。しかし、1866年に灞橋で張宗禹率いる捻軍と戦って敗れたため、解任されて故郷に帰った。
著作
- 『思弁録疑義』
- 『養晦堂詩文集』
脚注
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