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何進が宦官に殺害され、[[袁紹]]らが宦官たちを粛清すると、董卓が[[洛陽]]に入り、[[献帝 (漢)|献帝]]を即位させた。种劭は召し出されて[[侍中]]となった。董卓が権力を独占すると、种劭はなおも強力であることを忌まれて、議郎に左遷され、益涼二州[[刺史]]として出向することとなった。[[192年]](初平3年)、[[李カク (後漢)|李傕]]・[[郭汜]]の乱が起こり、父の种払が戦死したため、种劭は赴任せず、官を辞して喪に服した。服喪を終えると、[[少府]]や[[大鴻臚]]として召されたが、父の仇を討つまでは朝覲して主に仕えることはできないといって、いずれも固辞した。种劭は[[馬騰]]・[[韓遂]]や左中郎[[劉範]]・諫議大夫馬宇らとともに李傕・郭汜を攻撃し、父の仇に報いようとした。[[194年]]([[興平 (漢)|興平]]元年)3月<ref>『後漢書』献帝紀</ref>、郭汜と長平観下で戦い、馬騰・韓遂らの軍は敗れて、种劭は戦死した。 |
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2020年8月16日 (日) 06:46時点における版
种劭[1](ちゅう しょう、生年不詳 - 194年)は、後漢末の官僚・政治家。字は申甫。本貫は河南尹洛陽県。
経歴
种払の子として生まれた。若くして名を知られ、中平末年に諫議大夫となった。
189年(中平6年)、大将軍の何進が宦官たちを粛清しようと、并州牧の董卓を召し出した。董卓が軍を率いて澠池までやってくると、何進は狐疑逡巡して、种劭を派遣して詔勅を得て董卓の進軍を止めようとした。董卓は受け入れず、河南まで進軍した。种劭は董卓を迎えて労い、軍を返すよう求めた。董卓は変事があったと疑い、部下の軍士に示威させて种劭を脅そうとした。种劭は怒り、詔勅を大呼して叱咤した。董卓はやむなく軍を夕陽亭まで返した。
何進が宦官に殺害され、袁紹らが宦官たちを粛清すると、董卓が洛陽に入り、献帝を即位させた。种劭は召し出されて侍中となった。董卓が権力を独占すると、种劭はなおも強力であることを忌まれて、議郎に左遷され、益涼二州刺史として出向することとなった。192年(初平3年)、李傕・郭汜の乱が起こり、父の种払が戦死したため、种劭は赴任せず、官を辞して喪に服した。服喪を終えると、少府や大鴻臚として召されたが、父の仇を討つまでは朝覲して主に仕えることはできないといって、いずれも固辞した。种劭は馬騰・韓遂や左中郎劉範・諫議大夫馬宇らとともに李傕・郭汜を攻撃し、父の仇に報いようとした。194年(興平元年)3月[2]、郭汜と長平観下で戦い、馬騰・韓遂らの軍は敗れて、种劭は戦死した。
脚注
伝記資料
- 『後漢書』巻56 列伝第46