「沮俊」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
箇条書きの行の途中から別の行までを指定されたspanタグについて、各行で指定する形に変更 |
|||
31行目: | 31行目: | ||
'''沮 俊'''(そ しゅん、[[171年]] - [[195年]])は、[[中国]][[後漢]]時代末期の武将。『[[後漢書]]』にしか記述がないが、[[献帝 (漢)|献帝]]に仕えた若き側近である。同姓で[[袁紹]]配下の[[沮授]]との関係は不明。 |
'''沮 俊'''(そ しゅん、[[171年]] - [[195年]])は、[[中国]][[後漢]]時代末期の武将。『[[後漢書]]』にしか記述がないが、[[献帝 (漢)|献帝]]に仕えた若き側近である。同姓で[[袁紹]]配下の[[沮授]]との関係は不明。 |
||
[[興平 (漢)|興平]]2年(195年)には射声校尉の地位にあり、[[長安]]を離れて[[洛陽]]に向かう献帝に随従していた。しかし[[弘農]]郡東澗で、献帝を追う[[李カク (後漢)|李{{lang|zh|傕}}]]・[[ |
[[興平 (漢)|興平]]2年(195年)には射声校尉の地位にあり、[[長安]]を離れて[[洛陽]]に向かう献帝に随従していた。しかし[[弘農]]郡東澗で、献帝を追う[[李カク (後漢)|李{{lang|zh|傕}}]]・[[郭汜]]の軍と献帝を護衛する[[董承]]・[[楊奉]]らの軍との戦いが起こり、董承らが敗北した。 |
||
董承側に加わっていた沮俊は、戦闘中に負傷・落馬した。瀕死の沮俊の姿を見た李{{lang|zh|傕}}に「その傷でもまだ生きておったのか」と、嘲笑されたため「おまえほどの乱臣賊子は、過去に1人もおらぬ」と罵り返したが、怒った李{{lang|zh|傕}}にその場で殺害された。25歳であった。[[建安 (漢)|建安]]元年([[196年]])8月、洛陽に辿り着いた後の献帝は沮俊の忠義に報いるため、弘農[[太守]]の地位を追贈した。 |
董承側に加わっていた沮俊は、戦闘中に負傷・落馬した。瀕死の沮俊の姿を見た李{{lang|zh|傕}}に「その傷でもまだ生きておったのか」と、嘲笑されたため「おまえほどの乱臣賊子は、過去に1人もおらぬ」と罵り返したが、怒った李{{lang|zh|傕}}にその場で殺害された。25歳であった。[[建安 (漢)|建安]]元年([[196年]])8月、洛陽に辿り着いた後の献帝は沮俊の忠義に報いるため、弘農[[太守]]の地位を追贈した。 |
2020年8月16日 (日) 06:45時点における版
姓名 | 沮俊 |
---|---|
時代 | 後漢時代 |
生没年 | 171年(建寧4年) - 195年(興平2年) |
字・別号 | 〔不詳〕 |
出身地 | 〔不詳〕 |
職官 | 射声校尉〔後漢〕→弘農太守〔没後〕 |
爵位・号等 | - |
陣営・所属等 | 献帝 |
家族・一族 | 〔不詳〕 |
沮 俊(そ しゅん、171年 - 195年)は、中国後漢時代末期の武将。『後漢書』にしか記述がないが、献帝に仕えた若き側近である。同姓で袁紹配下の沮授との関係は不明。
興平2年(195年)には射声校尉の地位にあり、長安を離れて洛陽に向かう献帝に随従していた。しかし弘農郡東澗で、献帝を追う李傕・郭汜の軍と献帝を護衛する董承・楊奉らの軍との戦いが起こり、董承らが敗北した。
董承側に加わっていた沮俊は、戦闘中に負傷・落馬した。瀕死の沮俊の姿を見た李傕に「その傷でもまだ生きておったのか」と、嘲笑されたため「おまえほどの乱臣賊子は、過去に1人もおらぬ」と罵り返したが、怒った李傕にその場で殺害された。25歳であった。建安元年(196年)8月、洛陽に辿り着いた後の献帝は沮俊の忠義に報いるため、弘農太守の地位を追贈した。
小説『三国志演義』には登場しない。
参考文献
- 『後漢書』本紀9孝献帝紀
- 同列伝62董卓伝