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{{by|1999年}}は開幕投手の有力候補であった[[桑田真澄]]の調整遅れもあり、オープン戦で好調だったガルベスに巨人史上初の「外国人開幕投手」の座を任せられた。ガルベスは期待に応え、9回1失点の好投で勝利投手となっている。この年から打線の援護に恵まれない試合が目立つようになり、防御率は3.66とリーグ7位の数字を残しながら9勝12敗と初めて負け越した。シーズン終盤には4連敗を記録している。また、走者を気にし過ぎるという弱点も一向に改善されなかった。 |
{{by|1999年}}は開幕投手の有力候補であった[[桑田真澄]]の調整遅れもあり、オープン戦で好調だったガルベスに巨人史上初の「外国人開幕投手」の座を任せられた。ガルベスは期待に応え、9回1失点の好投で勝利投手となっている。この年から打線の援護に恵まれない試合が目立つようになり、防御率は3.66とリーグ7位の数字を残しながら9勝12敗と初めて負け越した。シーズン終盤には4連敗を記録している。また、走者を気にし過ぎるという弱点も一向に改善されなかった。 |
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{{by|2000年}}は阪神から移籍してきた[[ダレル・メイ]]や2人の韓国人投手([[趙成珉]]・[[鄭珉哲]])で外国人投手2枠の座を争うことになったが、開幕ローテーションの座は確保する。しかし、前年以上に打線の援護のなさや守備のミスが目立ち、開幕から6試合先発して自責点は毎試合3点以下ながら全て敗戦投手、1999年終盤からの通算では10連敗となった。この6連敗を受けて5月に二軍降格して調整を続けていたが、一軍に上がれない不満から代理人を通じて球団に自由契約を要求する騒動も起きた。結局ガルベスが要求を取り下げることで決着は付いたが、夏場に痛めた膝の治療のため帰国。9月に再来日し、日本シリーズを見据え調整していたが、シリーズ前の10月5日に退団が決定し、同月7日に帰国した。 |
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=== パイレーツ時代 === |
=== パイレーツ時代 === |
2020年8月15日 (土) 04:32時点における版
基本情報 | |
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国籍 | ドミニカ共和国 |
出身地 | サン・ペドロ・デ・マコリス州サンペドロ・デ・マコリス |
生年月日 | 1964年3月31日(60歳) |
身長 体重 |
180 cm 107 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1981年 アマチュア・フリーエージェントとしてロサンゼルス・ドジャースと契約 |
初出場 |
MLB / 1986年5月7日 CPBL / 1994年3月18日 NPB / 1996年4月10日 KBO / 2001年 |
最終出場 |
MLB / 1986年10月5日 CPBL / 1995年8月24日 NPB / 2000年5月12日 KBO / 2001年 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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バルビーノ・ガルベス・ヘレス(Balvino Galvez Jerez、1964年3月31日 - )は、ドミニカ共和国・サン・ペドロ・デ・マコリス州サンペドロ・デ・マコリス出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。
経歴
ドジャース~兄弟時代
1981年にドラフト外でロサンゼルス・ドジャースと契約。1986年にメジャー昇格を果たすが、この年以外はマイナー生活を続けていた。1994年に兄弟エレファンツへ入団(登録名は巴比諾)。1年目から16勝を挙げた。翌年も10勝で2年連続二桁勝利を記録するも、素行不良等の問題により、シーズン途中で解雇された。
巨人時代
1996年に巨人の春季キャンプへ参加を志願すると、テスト生として入団テストを受験し、同年2月22日に合格・入団が決まった。過去の経緯から当初はそれほど注目されなかったが、この年は16勝を挙げ、斎藤雅樹と共に最多勝のタイトルを獲得する活躍[1]で「メークドラマ」に貢献した。同年5月1日の対中日ドラゴンズ戦(ナゴヤ球場)において、5回裏にガルベスの投球が山崎武司の頭付近を通過、これに山崎が激怒しマウンドへ詰め寄り、ガルベスのパンチに対してヘッドロックをかけて応戦、その後両軍総出の乱闘に発展した。この結果、両者共に退場処分を受けた。この乱闘劇は「ヘビー級」と評され[2]珍プレーなどで取り上げられるなど話題となった。これがきっかけとなり日本酪農乳業協会のCMに出演。「カルシウムブソク、シテイマセンカ?」という台詞で人気を博した。
1997年は春先は1勝5敗と負けが先行し苦しいスタートだったが、徐々に復調し最終的には12勝12敗の成績で槙原寛己と並んでチーム最多の勝利数を記録。1998年も7月終了時点でリーグトップとなる9勝を挙げる活躍を見せたが、乱闘事件(後述)を起こしてしまったことで出場停止処分を受け、後半戦を事実上、棒に振る結果となった。この年限りでの退団が決定的とする報道もあったが、シーズン終了後に球団と再契約を結び残留が決定した。この再契約についてはセ・リーグの審判団が連盟に対して抗議文を送っている。
1999年は開幕投手の有力候補であった桑田真澄の調整遅れもあり、オープン戦で好調だったガルベスに巨人史上初の「外国人開幕投手」の座を任せられた。ガルベスは期待に応え、9回1失点の好投で勝利投手となっている。この年から打線の援護に恵まれない試合が目立つようになり、防御率は3.66とリーグ7位の数字を残しながら9勝12敗と初めて負け越した。シーズン終盤には4連敗を記録している。また、走者を気にし過ぎるという弱点も一向に改善されなかった。
2000年は阪神から移籍してきたダレル・メイや2人の韓国人投手(趙成珉・鄭珉哲)で外国人投手2枠の座を争うことになったが、開幕ローテーションの座は確保する。しかし、前年以上に打線の援護のなさや守備のミスが目立ち、開幕から6試合先発して自責点は毎試合3点以下ながら全て敗戦投手、1999年終盤からの通算では10連敗となった。この6連敗を受けて5月に二軍降格して調整を続けていたが、一軍に上がれない不満から代理人を通じて球団に自由契約を要求する騒動も起きた。結局ガルベスが要求を取り下げることで決着は付いたが、夏場に痛めた膝の治療のため帰国。9月に再来日し、日本シリーズを見据え調整していたが、シリーズ前の10月5日に退団が決定し、同月7日に帰国した。
パイレーツ時代
2001年はピッツバーグ・パイレーツとマイナー契約を結び、メジャー復帰を目指す。投手陣に故障者が続出していたこともあって、先発ローテーション入りの候補にもなっていたが、開幕を控えた3月下旬の練習中に突然行方不明となり(仲間とトラブルがあったとされるが、詳しい理由は不明)、復帰したが結局直後に退団となった。
サムスン時代
4月をメキシカンリーグでプレーし、5月には不振により退団したサロモン・トーレスの代役としてKBOのサムスン・ライオンズと年俸20万ドルで契約し、のちに巨人へ入団する李承燁とチームメイトとなる。初登板で韓国球界初勝利を挙げたが、就労ビザではなく観光ビザで入国していたことが発覚して問題となる。対戦相手のハンファ・イーグルスから提訴寸前まで問題となったが、結局不問とされ、ガルベスも早急に就労ビザを取得した。
その後も胸元への速球を武器に前半戦だけで9勝をマーク、オールスターにも出場した。後半戦早々に10勝目を挙げてタイトル争いでも上位につけていたが、優勝が目前となった8月下旬に母親が病に倒れたため、その看病を理由に突然帰国した。球団は6度に渡って復帰要請するが、ガルベスは何かと理由をつけて延期し、レギュラーシーズン終了まで戻らなかった。チームはリーグ優勝し、ガルベスも韓国シリーズ出場のため10月上旬に復帰する。韓国シリーズ(対斗山ベアーズ戦)では2試合登板するが、タイロン・ウッズに2本塁打を喫するなど2試合で計10失点と打ち込まれ、シリーズ敗退の一因となった(なお、韓国プロ野球で公式戦優勝チームが韓国シリーズ優勝を逃したのは、2012年シーズン終了時でこのときの三星が最後である)。レギュラーシーズンでは10勝4敗、防御率2.47と好成績だったが、この年限りで退団した。
その後はドミニカへ帰国し、2009年頃からは野球学校の代表として活動している。
選手としての特徴
投手ながら打撃も良く、本塁打も通算で10本放っており、登板の少なかった2000年以外は毎年本塁打を打っていた。1999年には満塁本塁打を2本(1本は場外本塁打)打っているが、NPBで投手として登板中に満塁本塁打を2本打った選手、および満塁本塁打を打った外国人投手は現在に至るまでガルベスのみである[3][4]。
人物
息子のブライアンも野球選手で、かつてドジャース傘下のマイナーチームでプレーしていた[1]。
阪神・巨人戦での乱闘事件
1998年7月31日の対阪神タイガース戦(阪神甲子園球場)において先発するが、大豊泰昭に2打席連続ホームランを打たれるなど調子が上がらず、試合中に球審の橘高淳の判定に度々苛立ちを見せていた。そして6回裏、先頭打者の坪井智哉の場面でカウント2-1からの内角への直球がボールと判定され、これに露骨に不服そうな態度をとったガルベスは、次の投球で本塁打を打たれ、直後に橘高にクレームをつけた。
ここで巨人監督の長嶋茂雄が投手交代を告げ、ガルベスにベンチへ戻るよう指示したためそれに従うが、ガルベスはその途中で突然振り返り、審判団に向けてボールを投げつけた。ボールは大きく逸れたため誰にも当たらなかったが、その場で退場を宣告され[5]、橘高も激高してガルベスのもとへ駆け寄り、ガルベスもベンチから出て乱闘騒ぎになる。この際止めに入った吉原孝介はガルベスの肘が顔に当たり、口の中を切って出血していた。翌8月1日、セントラル・リーグはガルベスに対し「1998年シーズン残りの出場停止」という処分を下し、巨人も無期限出場停止の処分を下した[6]。
その後、8月2日の巨人対阪神戦においても、8回表に高橋由伸が死球を受けて巨人の打撃コーチを務めていた武上四郎が矢野輝弘を殴りつけて退場処分を受け、8回裏にも槙原が矢野に死球を与え、これに怒った三塁ベースコーチの大熊忠義が槙原に掴み掛って退場処分を受けるなど、2度の乱闘騒ぎが発生した。巨人と阪神球団は連名でファンに向け声明文を発表し、2度のトラブルに対し謝罪の意を表明。また長嶋は4日、「あれだけのことをしでかしておいて、声明文だけじゃあね。何らかの形でファンや関係者の方々におわびをしないといかんだろう」と頭を丸刈りにしてグラウンドに現れた[7]。
詳細情報
年度別投手成績
年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1986 | LAD | 10 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | .000 | 91 | 20.2 | 19 | 3 | 12 | 2 | 0 | 11 | 0 | 2 | 10 | 9 | 3.92 | 1.50 |
1994 | 兄弟 | 27 | 22 | 16 | 4 | 2 | 16 | 5 | 4 | 0 | .762 | 822 | 201.1 | 186 | 9 | 38 | 1 | 6 | 132 | 10 | 0 | 71 | 57 | 2.55 | 1.11 |
1995 | 21 | 20 | 18 | 4 | 0 | 10 | 11 | 0 | 0 | .476 | 693 | 168.2 | 161 | 11 | 33 | 1 | 9 | 71 | 4 | 0 | 53 | 47 | 2.51 | 1.15 | |
1996 | 巨人 | 28 | 27 | 12 | 3 | 0 | 16 | 6 | 0 | -- | .727 | 838 | 203.2 | 186 | 18 | 59 | 2 | 9 | 112 | 5 | 0 | 74 | 69 | 3.05 | 1.20 |
1997 | 27 | 27 | 8 | 2 | 2 | 12 | 12 | 0 | -- | .500 | 771 | 192.2 | 165 | 16 | 48 | 2 | 5 | 118 | 3 | 0 | 77 | 71 | 3.32 | 1.11 | |
1998 | 18 | 18 | 7 | 0 | 0 | 9 | 7 | 0 | -- | .563 | 588 | 137.1 | 136 | 10 | 39 | 2 | 9 | 85 | 1 | 1 | 57 | 49 | 3.21 | 1.27 | |
1999 | 27 | 27 | 7 | 2 | 1 | 9 | 12 | 0 | -- | .429 | 776 | 187.0 | 174 | 19 | 51 | 4 | 6 | 106 | 1 | 1 | 85 | 76 | 3.66 | 1.20 | |
2000 | 6 | 6 | 0 | 0 | 0 | 0 | 6 | 0 | -- | .000 | 133 | 30.1 | 34 | 3 | 6 | 1 | 2 | 22 | 1 | 0 | 19 | 11 | 3.26 | 1.32 | |
2001 | 三星 | 15 | 15 | 5 | 2 | -- | 10 | 4 | 0 | 0 | .714 | 477 | 116.2 | 100 | 7 | 34 | 0 | 8 | 85 | 0 | 0 | 42 | 32 | 2.47 | 1.15 |
MLB:1年 | 10 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | .000 | 91 | 20.2 | 19 | 3 | 12 | 2 | 0 | 11 | 0 | 2 | 10 | 9 | 3.92 | 1.50 | |
CPBL:2年 | 48 | 42 | 34 | 8 | 2 | 26 | 16 | 4 | 0 | .619 | 1515 | 370.0 | 347 | 20 | 71 | 2 | 15 | 203 | 14 | 0 | 124 | 104 | 2.53 | 1.13 | |
NPB:5年 | 106 | 105 | 34 | 7 | 3 | 46 | 43 | 0 | -- | .517 | 3106 | 751.0 | 695 | 66 | 203 | 11 | 31 | 443 | 11 | 2 | 312 | 276 | 3.31 | 1.20 | |
KBO:1年 | 15 | 15 | 5 | 2 | -- | 10 | 4 | 0 | 0 | .714 | 477 | 116.2 | 100 | 7 | 34 | 0 | 8 | 85 | 0 | 0 | 42 | 32 | 2.47 | 1.15 |
- 各年度の太字はリーグ最高
タイトル
- NPB
- 最多勝利:1回 (1996年)
表彰
- CPBL
- 月間MVP:1回 (1994年5月)
- NPB
- 月間MVP:1回 (投手部門:1996年7月)
記録
- NPB
- オールスターゲーム出場:1回 (1996年)
背番号
- 52 (1986年)
- 47 (1994年 - 1995年)
- 59 (1996年 - 2000年)
- 41 (2001年)
関連情報
出演
- CM
- 中央酪農会議 「国産飲用牛乳消費拡大推進協議会」
脚注
- ^ セ・リーグで外国人投手が最多勝利を記録したのは、1964年のジーン・バッキー(阪神タイガース)以来史上2人目のことで、巨人の外国人投手としては初であった。
- ^ ガルベスの体重が100kgあった事もあるが、山崎も角界に誘われたことから「ヘビー級」と表現されている。ボクシングのヘビー級(約90.7kg以上)はプロ野球選手では珍しくないため、プロレスのヘビー級(100kg以上)を指していると思われる。
- ^ どこまで飛ばすんだ!ガルベス 史上初の1年で2本 Sponichi Annex 野球 日めくりプロ野球 1999年8月 スポーツニッポン
- ^ 単に「投手登録の選手」であれば、1952年に満塁本塁打を2本打っている服部受弘も該当する(1本は代打としてのもの)。
- ^ 退場理由を審判への侮辱行為としている。
- ^ 朝日新聞1998年8月2日30面「ガルベス、今季出場停止 審判に球 セが処分『狂乱に近い暴挙』」朝日新聞縮刷版1998年8月p74
- ^ 朝日新聞1998年8月5日27面「髪よ許したまえ 長嶋監督 丸刈り」朝日新聞縮刷版1998年8月p193
関連項目
外部リンク
- 選手の通算成績と情報 MLB、ESPN、Baseball-Reference、Fangraphs、The Baseball Cube、Baseball-Reference (Register)
- 個人年度別成績 B.ガルベス - NPB.jp 日本野球機構
- 中華職業棒球大聯盟(巴比諾)