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== 経歴 ==
== 経歴 ==
[[宋 (南朝)|宋]]の司徒主簿の謝稚([[謝裕]]の子の謝恂の子)の子として生まれた。若くして従叔父の[[謝チョウ|謝朓]]とともに名を知られた。斉の竟陵王[[蕭子良]]が西邸を開いて、文学の士を招くと、謝璟もこれに参加した。[[494年]]([[隆昌]]元年)、西昌侯[[明帝 (南朝斉)|蕭鸞]]の下で驃騎諮議参軍となり、記室を兼ねた。後に中書郎に転じ、[[晋安郡]][[内史]]をつとめた。[[502年]]([[中興 (南朝斉)|中興]]2年)、[[蕭衍]]の下で霸府諮議・梁台黄門郎となった。梁の[[天監]]年間、司農卿・秘書監・左民尚書・明威将軍・[[東陽郡]][[太守]]を歴任した。武帝(蕭衍)は[[侍中]]として任用しようとしたが、謝璟は老齢を理由に固辞し、金紫光禄大夫の位を得て、隠居したいと願い出た。[[529年]]([[中大通]]元年)、病没した。
[[宋 (南朝)|宋]]の司徒主簿の謝稚([[謝裕]]の子の謝恂の子)の子として生まれた。若くして従叔父の[[謝朓]]とともに名を知られた。斉の竟陵王[[蕭子良]]が西邸を開いて、文学の士を招くと、謝璟もこれに参加した。[[494年]]([[隆昌]]元年)、西昌侯[[明帝 (南朝斉)|蕭鸞]]の下で驃騎諮議参軍となり、記室を兼ねた。後に中書郎に転じ、[[晋安郡]][[内史]]をつとめた。[[502年]]([[中興 (南朝斉)|中興]]2年)、[[蕭衍]]の下で霸府諮議・梁台黄門郎となった。梁の[[天監]]年間、司農卿・秘書監・左民尚書・明威将軍・[[東陽郡]][[太守]]を歴任した。武帝(蕭衍)は[[侍中]]として任用しようとしたが、謝璟は老齢を理由に固辞し、金紫光禄大夫の位を得て、隠居したいと願い出た。[[529年]]([[中大通]]元年)、病没した。


子に[[謝徴]]があった。
子に[[謝徴]]があった。

2020年8月15日 (土) 04:26時点における版

謝 璟(しゃ けい、生年不詳 - 529年)は、南朝斉からにかけての官僚文人は玄度。本貫陳郡陽夏県

経歴

の司徒主簿の謝稚(謝裕の子の謝恂の子)の子として生まれた。若くして従叔父の謝朓とともに名を知られた。斉の竟陵王蕭子良が西邸を開いて、文学の士を招くと、謝璟もこれに参加した。494年隆昌元年)、西昌侯蕭鸞の下で驃騎諮議参軍となり、記室を兼ねた。後に中書郎に転じ、晋安郡内史をつとめた。502年中興2年)、蕭衍の下で霸府諮議・梁台黄門郎となった。梁の天監年間、司農卿・秘書監・左民尚書・明威将軍・東陽郡太守を歴任した。武帝(蕭衍)は侍中として任用しようとしたが、謝璟は老齢を理由に固辞し、金紫光禄大夫の位を得て、隠居したいと願い出た。529年中大通元年)、病没した。

子に謝徴があった。

伝記資料