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「庾於陵」の版間の差分

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== 経歴 ==
== 経歴 ==
司徒主簿の庾易の子として生まれた。7歳で老荘の理を言うことができたといわれる。成長すると機知に鋭く、博学で文才に優れた。[[490年]]([[永明]]8年)、斉の隨王[[蕭子隆]]が[[荊州]][[刺史]]となると、召し出されて主簿となり、[[謝チョウ|謝朓]]や[[宗夬]]とともに群書を抜粋して編纂した。蕭子隆が[[建康 (都城)|建康]]に召還されると、於陵もまたもとの主簿として建康に送られた。[[494年]]([[延興 (南朝斉)|延興]]元年)、蕭子隆が宣城公[[明帝 (南朝斉)|蕭鸞]]の命により殺害されると、属僚たちは禍にかかるのを恐れてやって来る者もなかったが、於陵は宗夬とともに留まって、蕭子隆の葬儀を取り仕切った。[[495年]]([[建武 (南朝斉)|建武]]2年)、始安王[[蕭遙光]]が撫軍将軍となると、於陵は召し出されて行参軍となり、記室を兼ねた。[[永元 (南朝斉)|永元]]末年、[[東陽郡]]の[[遂安県]]令に任じられた。
司徒主簿の庾易の子として生まれた。7歳で老荘の理を言うことができたといわれる。成長すると機知に鋭く、博学で文才に優れた。[[490年]]([[永明]]8年)、斉の隨王[[蕭子隆]]が[[荊州]][[刺史]]となると、召し出されて主簿となり、[[謝朓]]や[[宗夬]]とともに群書を抜粋して編纂した。蕭子隆が[[建康 (都城)|建康]]に召還されると、於陵もまたもとの主簿として建康に送られた。[[494年]]([[延興 (南朝斉)|延興]]元年)、蕭子隆が宣城公[[明帝 (南朝斉)|蕭鸞]]の命により殺害されると、属僚たちは禍にかかるのを恐れてやって来る者もなかったが、於陵は宗夬とともに留まって、蕭子隆の葬儀を取り仕切った。[[495年]]([[建武 (南朝斉)|建武]]2年)、始安王[[蕭遙光]]が撫軍将軍となると、於陵は召し出されて行参軍となり、記室を兼ねた。[[永元 (南朝斉)|永元]]末年、[[東陽郡]]の[[遂安県]]令に任じられた。


梁の[[天監]]初年、建康の獄平となった。尚書工部郎に転じ、文徳殿で待詔をつとめた。[[湘州]]別駕として出向し、驃騎録事参軍に転じ、中書通事舎人を兼ねた。ほどなく南郡邑中正を兼ね、舎人のまま太子洗馬に任じられた。於陵は東宮において[[周捨]]とともに文章をつかさどった。ほどなく散騎侍郎に転じ、荊州大中正を兼ねた。舎人や中正のまま中書侍郎と黄門侍郎を歴任した。晋安王[[簡文帝 (南朝梁)|蕭綱]]の下で宣毅長史・[[広陵郡]][[太守]]として出向し、宣毅府と[[南エン州|南兗州]]の事務を代行したが、公務上の事件のために免官された。
梁の[[天監]]初年、建康の獄平となった。尚書工部郎に転じ、文徳殿で待詔をつとめた。[[湘州]]別駕として出向し、驃騎録事参軍に転じ、中書通事舎人を兼ねた。ほどなく南郡邑中正を兼ね、舎人のまま太子洗馬に任じられた。於陵は東宮において[[周捨]]とともに文章をつかさどった。ほどなく散騎侍郎に転じ、荊州大中正を兼ねた。舎人や中正のまま中書侍郎と黄門侍郎を歴任した。晋安王[[簡文帝 (南朝梁)|蕭綱]]の下で宣毅長史・[[広陵郡]][[太守]]として出向し、宣毅府と[[南エン州|南兗州]]の事務を代行したが、公務上の事件のために免官された。

2020年8月15日 (土) 04:26時点における版

庾 於陵(ゆ おりょう、生没年不詳)は、南朝斉からにかけての官僚文人は子介。本貫南陽郡新野県

経歴

司徒主簿の庾易の子として生まれた。7歳で老荘の理を言うことができたといわれる。成長すると機知に鋭く、博学で文才に優れた。490年永明8年)、斉の隨王蕭子隆荊州刺史となると、召し出されて主簿となり、謝朓宗夬とともに群書を抜粋して編纂した。蕭子隆が建康に召還されると、於陵もまたもとの主簿として建康に送られた。494年延興元年)、蕭子隆が宣城公蕭鸞の命により殺害されると、属僚たちは禍にかかるのを恐れてやって来る者もなかったが、於陵は宗夬とともに留まって、蕭子隆の葬儀を取り仕切った。495年建武2年)、始安王蕭遙光が撫軍将軍となると、於陵は召し出されて行参軍となり、記室を兼ねた。永元末年、東陽郡遂安県令に任じられた。

梁の天監初年、建康の獄平となった。尚書工部郎に転じ、文徳殿で待詔をつとめた。湘州別駕として出向し、驃騎録事参軍に転じ、中書通事舎人を兼ねた。ほどなく南郡邑中正を兼ね、舎人のまま太子洗馬に任じられた。於陵は東宮において周捨とともに文章をつかさどった。ほどなく散騎侍郎に転じ、荊州大中正を兼ねた。舎人や中正のまま中書侍郎と黄門侍郎を歴任した。晋安王蕭綱の下で宣毅長史・広陵郡太守として出向し、宣毅府と南兗州の事務を代行したが、公務上の事件のために免官された。

通直郎として再起し、ほどなく鴻臚卿に任じられ、再び荊州大中正を兼ねた。在官のまま死去した。享年は48。文集10巻があった。

弟に庾肩吾がいる。

伝記資料