「宮体詩」の版間の差分
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特徴としては、女性の姿態や仕草、身につけている服飾品の描写を通して、男女の情愛を主題とする点にある。また型式面では、先代の[[沈約]]・[[謝朓]]らの「[[永明体]]」を継承し、詩の形式美・韻律美の追求に関して、より一層の整備が図られている<ref>「初め太宗(簡文帝)藩に在りて、雅に文章の士を好む……斉の永明中、文士[[王融]]・謝朓・沈約、文章に始めて四声を用い、以て新変と為す。是に至りて転た声韻に拘われ、弥いよ麗靡を尚ぶこと、復た往事に踰えたり」(『梁書』庾肩吾伝)</ref>。 |
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簡文帝はさらに、徐摛の息子[[徐陵]]に命じ、これら宮体詩に加え、漢代からの「艶詩」を収録した詞華集『[[玉台新詠]]』を編纂させている。徐・庾親子の詩文は「徐庾体」と称されて、当時の人士の間で大いに流行した<ref>「時に庾肩吾、梁の太子中庶子と為り、管記を掌る。東海の徐摛は左衛率為り。徐摛の子徐陵及び庾信は並びに抄撰学士と為る……既に盛才有りて、文並びに綺艶、故に世は号して『徐庾体』と為す」(『[[北周書]]』[[庾信]]伝)</ref>。宮体詩は南北朝後期に大いに流行し、梁以後の[[陳 (南朝)|陳]]や北朝でも制作された。しかしその「綺羅脂粉」を重視する側面は、[[唐]]代以後、文学において[[儒教]]の復興が図られるようになると、しばしば文学の堕落として批判されるようになった。 |
簡文帝はさらに、徐摛の息子[[徐陵]]に命じ、これら宮体詩に加え、漢代からの「艶詩」を収録した詞華集『[[玉台新詠]]』を編纂させている。徐・庾親子の詩文は「徐庾体」と称されて、当時の人士の間で大いに流行した<ref>「時に庾肩吾、梁の太子中庶子と為り、管記を掌る。東海の徐摛は左衛率為り。徐摛の子徐陵及び庾信は並びに抄撰学士と為る……既に盛才有りて、文並びに綺艶、故に世は号して『徐庾体』と為す」(『[[北周書]]』[[庾信]]伝)</ref>。宮体詩は南北朝後期に大いに流行し、梁以後の[[陳 (南朝)|陳]]や北朝でも制作された。しかしその「綺羅脂粉」を重視する側面は、[[唐]]代以後、文学において[[儒教]]の復興が図られるようになると、しばしば文学の堕落として批判されるようになった。 |
2020年8月15日 (土) 04:25時点における版
宮体詩(きゅうたいし)は、中国南北朝時代の梁の第2代皇帝簡文帝蕭綱が皇太子時代、配下の文人であった徐摛・庾肩吾らとともに確立した詩体を指す。「宮体」とは「東宮(皇太子)の詩体」の意である[1]。
特徴
特徴としては、女性の姿態や仕草、身につけている服飾品の描写を通して、男女の情愛を主題とする点にある。また型式面では、先代の沈約・謝朓らの「永明体」を継承し、詩の形式美・韻律美の追求に関して、より一層の整備が図られている[2]。
簡文帝はさらに、徐摛の息子徐陵に命じ、これら宮体詩に加え、漢代からの「艶詩」を収録した詞華集『玉台新詠』を編纂させている。徐・庾親子の詩文は「徐庾体」と称されて、当時の人士の間で大いに流行した[3]。宮体詩は南北朝後期に大いに流行し、梁以後の陳や北朝でも制作された。しかしその「綺羅脂粉」を重視する側面は、唐代以後、文学において儒教の復興が図られるようになると、しばしば文学の堕落として批判されるようになった。
代表的な詩人
代表的な作品
梁簡文帝「詠内人晝眠(内人の昼眠を詠ず)」
梁簡文帝「詠内人晝眠(内人の昼眠を詠ず)」 | ||
原文 | 書き下し文 | 通釈 |
北窗聊就枕 | 北窓 聊(いささ)か枕に就(つ)き | 北の窓でしばし枕について眠る |
南檐日未斜 | 南檐 日 未だ斜めならず | 南の檐(のき)では日はまだ傾いていない |
攀鉤落綺障 | 鈎を攀(ひ)きて 綺障を落とし | 鈎をひいて 緞子のとばりを落とし |
插捩舉琵琶 | 捩(ばち)を插して 琵琶を挙ぐ | 撥を挿して 琵琶をかたづける |
夢笑開嬌靨 | 夢笑 嬌靨 開き | 夢での笑いで可愛いえくぼが開き |
眠鬟壓落花 | 眠鬟 落花を圧す | 眠りの髻が散り落ちた花をおさえている |
簟文生玉腕 | 簟文 玉腕に生じ | 敷物の編み目(の跡)は玉のような腕につき |
香汗浸紅紗 | 香汗 紅紗を浸す | 香しい汗は紅いうすぎぬをぬらして透き通らせる |
夫婿恒相伴 | 夫婿 恒(つね)に相ひ伴はば | (こんな格好をしていても)愛しい夫はいつも彼女のそばにいるのだから |
莫誤是倡家 | 誤る莫し 是れ倡家と | 彼女を娼妓とは間違えない |
脚注
- ^ 「王(簡文帝)入りて皇太子と為るに、家令に転じ、兼ねて管記を掌り、尋いで領直を帯ぶ。摛文体既に別なり、春坊尽く之を学ぶ。『宮体』の号、斯れ自り起こる」(『梁書』徐摛伝)
- ^ 「初め太宗(簡文帝)藩に在りて、雅に文章の士を好む……斉の永明中、文士王融・謝朓・沈約、文章に始めて四声を用い、以て新変と為す。是に至りて転た声韻に拘われ、弥いよ麗靡を尚ぶこと、復た往事に踰えたり」(『梁書』庾肩吾伝)
- ^ 「時に庾肩吾、梁の太子中庶子と為り、管記を掌る。東海の徐摛は左衛率為り。徐摛の子徐陵及び庾信は並びに抄撰学士と為る……既に盛才有りて、文並びに綺艶、故に世は号して『徐庾体』と為す」(『北周書』庾信伝)