「プリンス・オブ・ウェールズ (戦艦)」の版間の差分
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{{otheruses||先代の戦艦プリンス・オブ・ウェールズ|プリンス・オブ・ウェールズ (戦艦・初代)}} |
{{otheruses||先代の戦艦プリンス・オブ・ウェールズ|プリンス・オブ・ウェールズ (戦艦・初代)}} |
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{{Infobox 艦艇 |
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{| class="wikitable" style="clear:right; float:right; margin: 0em 0em 1em 1em; width: 300px; background:#ffffff" |
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|名称=プリンス・オブ・ウェールズ |
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|画像=Prince of Wales-1.jpg |
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|- |
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|画像幅=300 |
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!colspan="2" style="background: #f0f0f0"|艦歴 |
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|画像説明=プリンス・オブ・ウェールズ |
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|建造所=[[キャメル・レアード]]社[[バーケンヘッド]]造船所 |
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|建造 |
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|運用者={{navy|United Kingdom}} |
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|キャメル・レアード社 |
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|艦種= |
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|級名=[[キング・ジョージ5世級戦艦]] |
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|起工 |
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|発注= |
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| [[1937年]][[1月1日]] |
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|起工=1937年1月1日 |
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|進水 |
|進水=1939年3月3日 |
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|竣工=1941年3月31日 |
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|就役=1941年1月19日 |
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|退役= |
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|最後=1941年12月10日、[[マレー沖海戦]]にて戦没。 |
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| [[1941年]][[1月19日]] |
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|除籍= |
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|除籍後= |
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|愛称=PoW |
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| [[1941年]][[12月10日]]戦没 |
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|モットー=[[ドイツ語|独]]:"[[プリンス・オブ・ウェールズの羽根|Ich Dirn]]"/[[英語|英]]:"I serve" |
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|要目注記= |
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|除籍 |
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|基準排水量=36,772 [[トン数|トン]] |
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| [[1941年]][[12月10日]] |
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|常備排水量= |
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|公試排水量= |
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!colspan="2" style="background: #f0f0f0"|性能諸元 |
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|満載排水量=43,786 トン |
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|- |
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|全長={{convert|227.1|m|ft|lk=on|abbr=on}} |
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| style="white-space:nowrap;" |[[排水量]]: |
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|水線長={{convert|225.6|m|ft|abbr=on}} |
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| 基準:36,727[[トン]] 満載:43,786トン |
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|垂線間長= |
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|- |
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|全幅={{convert|31.4|m|ft|abbr=on}} |
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|全長 |
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|深さ= |
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| 227.1m 225.6m(水線長) |
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|吃水={{convert|10.8|m|ft|abbr=on}} |
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|- |
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|高さ= |
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|全幅 |
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|機関= |
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| 31.4m |
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|主缶=海軍式三胴型[[ボイラー|重油専焼水管缶]]×8基 |
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|主機=[[パーソンズ・マリン・スチーム・タービン|パーソンズ]]式[[蒸気タービン|オール・ギヤードタービン]]×4基 |
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|吃水 |
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|推進器=[[スクリュープロペラ]]×4軸 |
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| 10.8m |
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|出力=125,000 [[馬力]] |
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|- |
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|最大速力={{convert|28|kn|km/h|lk=on}} |
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|機関 |
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|航続距離={{convert|3,100|nmi|km|lk=on}}/27ノット |
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| 蒸気タービン4基4軸 125,000馬力 |
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|燃料= |
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|乗員=1,521名 |
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|最大速 |
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|兵装={{ubl|''竣工時:'' |
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| 28[[ノット]](1941年公試時) |
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| {{仮リンク|BL 14インチMkVII海軍砲|label=Mk VII 356mm四連装砲|en|BL 14-inch Mk VII naval gun}}×2基| Mk VII 356mm連装砲×1基| {{仮リンク|QF 5.25インチ砲|en|QF 5.25-inch naval gun|label=Mark I 133mm連装両用砲}}×8基| [[ポンポン砲|40mm八連装ポンポン砲]]×4基| [[ボフォース 40mm機関砲|40mm単装機銃]]×1基| {{仮リンク|UP 17.8cm20連装ロケット砲|en|Unrotated projectile}}×4基}} |
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|- |
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{{ubl|''改装後:'' |
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|航続距離 |
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| Mk VII 356mm四連装砲×2基| Mk VII 356mm連装砲×1基| Mark I 133mm連装両用砲×8基| 40mmポンポン砲八連奏×4基| 40mm四連装ポンポン砲×2基2基| 40mm単装機銃×1基|[[エリコンFF 20 mm 機関砲| 20mm単装機銃]]×7基}} |
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| 3,100[[カイリ]](27ノット時) |
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|装甲={{ubl |
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|- |
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|舷側:{{convert|380|mm|in|lk=on|abbr=on}} |
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|乗員 |
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|舷側(水線下):{{convert|140|mm|in|abbr=on}} |
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| 1,521名 |
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|甲板部(最厚):{{convert|150|mm|in|abbr=on}} |
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|- |
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|主砲塔:{{convert|324|mm|in|abbr=on}} |
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|兵装 |
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|[[バーベット]]:{{convert|324|mm|in|abbr=on}} |
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| 竣工時:<br />35.6cm4連装砲塔2基<br />同連装砲塔1基<br />13.3cm連装両用砲8基<br />40mm8連装ポンポン砲4基<br />40mm単装機銃1基<br />17.8cm20連装UP発射機3基<br />カタパルト1基<br /><br />~1941年:<br />35.6cm4連装砲塔2基<br />同連装砲塔1基<br />40mm8連装ポムポム砲4基<br />40mm4連装ポムポム砲2基<br />40mm単装機銃1基<br />20mm単装機銃7基<br />カタパルト1基 |
|||
|水密隔壁(最厚):{{convert|305|mm|in|abbr=on}} |
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|- |
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|[[司令塔]](最厚):{{convert|102|mm|in|abbr=on}} |
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|レーダー |
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}} |
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|竣工時:<br />281型 1基<br />279型 2基 (対空警戒)<br />284型 1基 (射撃管制)<br /><br />~1941年:<br />271型 1基 (水上警戒)<br />279型 2基 (対空警戒)<br />282型 4基<br />284型 1基 (射撃管制)<br />285型 4基 (対空射撃管制) |
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|特殊装備=埋め込み式[[カタパルト]]×1基 |
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|} |
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|搭載艇= |
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'''プリンス・オブ・ウェールズ''' ('''HMS Prince of Wales''') は、[[イギリス海軍]]の[[戦艦]]。[[キング・ジョージ5世級戦艦|キング・ジョージ5世級]]の2番艦。35.56 cm(14インチ)砲を4連装2基(前部、後部に各一基)連装1基(前部に配置)の10門装備が特徴。艦名は当時の国王[[ジョージ6世 (イギリス王)|ジョージ6世]]の兄王である[[エドワード8世 (イギリス王)|エドワード8世]]の即位前の称号、王太子([[プリンス・オブ・ウェールズ]])に由来する。[[デンマーク海峡海戦|ビスマルク迎撃作戦]]や地中海輸送掩護で活躍した後、[[マレー沖海戦]]で[[日本海軍]]に撃沈された。 |
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|搭載機=[[スーパーマリン ウォーラス]]×4機 |
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|電子装備= |
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|C4I= |
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|レーダー={{ubl|''竣工時:'' |
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| {{仮リンク|281型レーダー|en|Type 281 radar|label=281型}}×1基 |
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| {{仮リンク|279型レーダー|en|Type 279 radar|label=279型}}×2基(対空警戒) |
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| 284型×1基(射撃管制)}} |
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{{ubl|''改装後:'' |
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| [[271型レーダー|271型]]×1基 (水上警戒) |
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| 279型×2基| 282型×4基| 284型×1基(射撃管制) |
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| {{仮リンク|285型レーダー|en|Type 285 radar|label=285型}}×4基 (対空射撃管制) |
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}} |
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|ソナー= |
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|電子戦= |
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|その他= |
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|備考= |
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}} |
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'''プリンス・オブ・ウェールズ''' ('''{{lang|en|HMS Prince of Wales}}''') は、[[イギリス海軍]]の[[戦艦]]{{Efn|name="ハワイ、マレー沖海戦p31"|(上)逃げまどふ英艦{{Sfn|ハワイ海戦、マレー沖海戦|1942|p=31|ps=(原本38-39頁)}} <small>左(中央)はプリンス・オブ・ウエールズ、最後方がレパルス、手前は我が猛爆をうけて逃げまどふ英驅逐艦。</small>/(中)プリンス・オブ・ウエールズの性能 <small>排水量三五,〇〇〇トン、一九四一年四月竣工、速力三〇節以上、十四インチ砲十門、五.二五インチ砲十六門を装備し搭載機四、英國[[主力艦]]中の最新鋭艦である。</small>/(下)レパルスの性能 <small>排水量三二,〇〇〇トン 一九一六年竣工、速力二九節、十五インチ砲六門、四インチ砲十二門、四インチ高角砲八門搭載機四を装備してゐる 猶、プリンス・オブ・ウエールズは、昨年八月北大西洋上に於てルーズヴエルト、チヤーチル洋上會談が同甲板上で行はれ、かつ友邦ドイツのビスマルク撃沈にも参加した艦であることは記憶に新たなるところであり、レパルスは一九四〇年十月[[U47_(潜水艦)|獨潜水艦]]の[[ギュンター・プリーン#スカパ・フロー|スカパーフロー襲撃]]の際辛くも撃沈を免れた艦である。</small> }}。[[キング・ジョージ5世級戦艦|キング・ジョージ5世級]]の2番艦{{Efn|同級は、35.56 cm (14インチ) 砲を4連装2基(前部、後部に各一基)連装1基(前部に配置)計10門を装備する{{Sfn|福井、日本戦艦物語(II)|1992|pp=353-354|ps=列強の戦艦建造計画について ◇イギリス海軍}}。}}。艦名は当時の国王[[ジョージ6世 (イギリス王)|ジョージ6世]]の兄王である[[エドワード8世 (イギリス王)|エドワード8世]]の即位前の称号、王太子([[プリンス・オブ・ウェールズ]])に由来する。 |
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== 概要 == |
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1937年1月初頭に建造を開始{{Sfn|福井、日本戦艦物語(II)|1992|pp=195-196|ps=世界をあげての巨艦時代}}。1941年1月に竣工後、[[本国艦隊]]に所属。訓練未了で工事続行中の5月中旬{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|p=61}}、[[ライン演習作戦|ビスマルク迎撃作戦]]に投入される{{Sfn|ヒトラーの戦艦|2002|pp=218-222|ps=〈フッド〉轟沈}}。{{仮リンク|ランスロット・ホランド|en|Lancelot Holland}}中将の指揮下で行動中の[[5月24日]]朝、巡洋戦艦[[フッド (巡洋戦艦)|フッド]] (''{{lang|en|HMS Hood}}'') と共に、[[ドイツ海軍_(国防軍)|ドイツ海軍]]の新鋭戦艦[[ビスマルク (戦艦)|ビスマルク]] (''{{lang|de|Bismarck}}'') および重巡[[プリンツ・オイゲン (重巡洋艦)|プリンツ・オイゲン]] (''{{lang|de|Prinz Eugen}}'') と砲撃戦をおこなう{{Sfn|巨大戦艦ビスマルク|2002|pp=18-19|ps=(ライン演習作戦各部隊行動図)}}([[デンマーク海峡海戦]]){{Sfn|壮烈!ドイツ艦隊|1985|pp=115-118|ps=巡洋戦艦「フッド」轟沈}}。ビスマルクの砲撃でフッドが轟沈し、ウェールズも艦橋に被弾して避退した{{Efn|ウェールズはビスマルクに何発かの命中弾を与え、小破させた{{Sfn|壮烈!ドイツ艦隊|1985|pp=118-121|ps=ビスマルクに三弾命中}}。ビスマルクはウェールズとの交戦による損傷が原因で燃料不足になり、大西洋での通商破壊作戦を諦めて[[フランス]]西部のドイツ海軍基地に帰投することにした{{Sfn|巨大戦艦ビスマルク|2002|pp=201-209|ps=(15)突然の変針命令}}。}}。 |
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その後は{{仮リンク|フレデリック・ウェイク・ウォーカー|en|Frederic Wake-Walker}}少将(旗艦[[ノーフォーク (重巡洋艦)|ノーフォーク]])の指揮下でビスマルクを追撃するが{{Sfn|壮烈!ドイツ艦隊|1985|p=122}}{{Sfn|巨大戦艦ビスマルク|2002|p=218|ps=(北大西洋におけるビスマルク追撃態勢)}}、ウェールズは燃料不足で戦場を離脱した{{Sfn|ヒトラーの戦艦|2002|pp=222-224|ps=当てのない追跡行}}{{Sfn|壮烈!ドイツ艦隊|1985|p=125}}<ref>Barnett, p. 297-299</ref>。 |
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修理後のプリンス・オブ・ウェールズは、首相[[ウィンストン・チャーチル]]を乗せて大西洋を横断し、[[カナダ]]の[[ニューファンドランド島]]に移動、そこで[[アメリカ合衆国|アメリカ]]大統領[[フランクリン・ルーズベルト]]が乗艦する。会談の結果、8月12日に本艦艦上で[[大西洋憲章]]が締結された{{Efn|name="ウェールズとチャーチル"|'''マレー沖海戰'''{{Sfn|大東亞戰爭海軍作戰寫眞記録(1)|1942|p=26|ps=原本22-23頁}} 英の東洋艦隊早くも茲に潰滅す。/ 十二月十日 マレー東岸クワンタン沖に我が爆撃機、雷撃機隊は英が不沈戰艦と傲語するプリンス・オブ・ウエールズ及び戰艦レパルスを捕捉して挺身猛撃、海鷲獨特の必中彈を浴びせてこれを轟撃沈せしめた。/プリンス・オブ・ウエールズの長官艇の遺品/ 昭和十六年四月完成、三萬五千噸、最新鋭主力艦たるこのプリンス・オブ・ウエールズの艦上同年八月にチャーチル、ルーズヴエルト會談が行はれた。寫眞は艦上のチヤーチル(後甲板を散歩するチャーチル写真)/ レパルス(上)プリンス・オブ・ウエールズの最後―午後零時四十三分撮影。レパルスは命中彈で氣息奄々、午後二時二十九分轟沈。プリンス・オブ・ウエールズは艦中央から艦尾にかけ數發の命中彈をうけて、暫時遁走せるも、同二時五十分、英東洋艦隊司令長官サー・トーマス・フィリツプスを乗せたまゝ大爆發を起して沈没。}}。 |
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9月、[[地中海戦域_(第二次世界大戦)|地中海戦線]]に投入され、マルタ輸送作戦で活躍した([[ハルバード作戦]])。10月、極東情勢の悪化にともない[[東洋艦隊 (イギリス)|東洋艦隊]]に編入されて[[シンガポール]]に移動する{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|p=415}}{{Sfn|壮烈!ドイツ艦隊|1985|p=153}}。 |
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[[太平洋戦争]]開戦直後の[[12月10日]]、日本軍の[[マレー作戦]]を阻止するため[[マレー半島]]沖合を行動中の{{仮リンク|Z部隊|en|Force Z}}{{Efn|戦艦プリンス・オブ・ウェールズ(東洋艦隊旗艦)、巡洋戦艦レパルス、駆逐艦4隻([[エクスプレス_(駆逐艦)|エクスプレス]]、[[テネドス_(駆逐艦)|テネドス]]、[[:en:HMS_Electra_(H27)|エレクトラ]]、[[ヴァンパイア (駆逐艦・初代)|ヴァンパイア]])。}}を、[[南遣艦隊|馬来部隊]]{{efn|馬来部隊指揮官は、[[南遣艦隊]]司令長官[[小沢治三郎]]海軍中将であった{{Sfn|智将小沢治三郎|2017|pp=22-24}}。}}麾下の[[大日本帝国海軍|日本海軍]][[陸上攻撃機]]が襲撃する{{Sfn|戦史叢書95|1976|pp=181-182|ps=馬来部隊}}。この[[マレー沖海戦]]で{{Sfn|別冊歴史読本(45)|2009|pp=110-111|ps=(1941.12.10)マレー沖海戦/英首相チャーチルを苦悩させた新鋭戦艦の撃沈}}、プリンス・オブ・ウェールズは魚雷と爆弾多数を受けて沈没した{{efn|プリンス・オブ・ウェールズと共に巡洋戦艦[[レパルス (巡洋戦艦)|レパルス]] (''{{lang|en|HMS Repulse}}'') も沈没した{{Sfn|戦史叢書95|1976|pp=227-229|ps=マレー方面航空作戦、マレー沖海戦}}。}}{{efn|12月10日16時5分、[[軍令部|大本営海軍部]]発表{{Sfn|戦史叢書80|1975|p=113}}〔 帝国海軍は開戦劈頭より英東洋艦隊、特にその主力艦二隻の動静を注視しありたるところ 昨九日午後帝国海軍潜水艦は敵主力艦の出動を発見 午後帝国海軍航空部隊と緊密なる協力の下に捜索中、本十日午前十一時半マレー東部クワンタン沖に於て再び我が潜水艦これを確認せるをもって 帝国海軍航空部隊は機を逸せずこれに対し勇猛果敢なる攻撃を加へ 午後二時二十九分戦艦レパルスは瞬時にして轟沈し 同時に最新式戦艦プリンス・オブ・ウェールズは忽ち左に大傾斜暫時遁走せるも間もなく午後二時五十分大爆発を起し遂に沈没せり ここに開戦第三日にして早くも英国東洋艦隊主力は全滅するに至れり 〕}}。 |
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本艦沈没時に{{Sfn|ニミッツ|1962|p=30}}、東洋艦隊司令長官[[トーマス・フィリップス]]大将と艦長{{仮リンク|ジョン・リーチ (イギリス海軍)|en|John Leach (Royal Navy officer)|label=ジョン・リーチ}}大佐も戦死した{{Sfn|戦史叢書80|1975|pp=85-90|ps=マレー沖海戦}}{{Efn|八、マレー沖海戰{{Sfn|南方圏要覧|1942|pp=204-205|ps=(原本389-390頁)八、マレー沖海戰}} 開戰匆々ハワイ海戰においてアメリカ太平洋艦隊主力はわが海軍精鋭の敢行した大奇襲作戰によつて脆くも潰え去つたのであるが、マレー方面においてはわが上陸作戰を阻止すべくイギリスが世界にその最新鋭を誇る戰艦「プリンス・オブ・ウエールズ」と高速戰艦「レパルス」の出動となつたのである。この二戰艦がマレー半島沖を北上中なる旨の報告が哨戒中の潜水艦からもたらされたのは十二月九日の午後であつた。航空部隊は直ちに基地を出撃したが、その日は惡天候のためつひに敵艦隊を發見することが出來なかつた。十日午前三時四十分潜水艦から敵艦がシンガポールに遁走中なる旨の報があつた。かくてわが航空隊は暁方より索敵をつゞけたが、つひに午前十一時四十五分、北緯四度、東經百三度五十五分の點において敵主力が驅逐艦三隻を從へて航行中を發見、午前零時四十五分爆撃機隊の猛撃は開始された。かくてイギリスが「不沈戰艦」として誇るプリンス・オブ・ウエールズ及びレパルスの二艦と大型驅逐艦一をマレー沖の藻屑と化せしめ、イギリス東洋艦隊の主力を潰滅せしめたのである。さきのハワイ海戰の戰果とともにこの戰果は世界戰史上その例を見ないものである。/'''プリンス・オブ・ウエールズ號'''(東洋艦隊司令長官トーマス・フイリツプス坐乗、艦長J・C・リー大佐)要目=一九四一竣工、排水量三万五千トン、速力三十ノツト、主砲十四インチ砲十門、高角機銃二十五聯装三基、二十聯装一基、八聯装空ポムポム砲四基、搭載機四機/'''レパルス號'''(艦長J・G・テナント大佐)要目=一九一六年竣工(一九三六年改装)排水量三万二千トン、速力二十九ノツト、主砲十五インチ砲六門、副砲四インチ砲十二門、高角砲四インチ砲八門、二十一インチ魚雷發射管八基、搭載機四機。}}。 |
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== 艦名の由来 == |
== 艦名の由来 == |
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== 艦歴 == |
== 艦歴 == |
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=== ビスマルク戦 === |
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プリンス・オブ・ウェールズはキャメル・レアード社バーケンヘッド造船所にて[[ワシントン海軍軍縮条約]]明け直後の[[1937年]][[1月2日]]に建造を開始し[[1939年]][[5月3日]]に進水、艤装途中の1940年8月には[[ドイツ空軍]]の攻撃を受けた。[[1941年]]1月19日に[[ジョン・リーチ]]([[:en:John Leach (Royal Navy officer)]])艦長の指揮下就役したが、[[3月31日]]まで完成しなかった。 |
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プリンス・オブ・ウェールズはキャメル・レアード社バーケンヘッド造船所にて[[ワシントン海軍軍縮条約]]明け直後の[[1937年]][[1月2日]]に建造を開始、[[1939年]][[5月3日]]に進水した。艤装途中の1940年8月には[[ドイツ空軍]]の攻撃を受けた。[[1941年]]1月19日に艦長{{仮リンク|ジョン・リーチ (イギリス海軍)|en|John Leach (Royal Navy officer)|label=ジョン・リーチ}}大佐の指揮下で就役したが、[[3月31日]]まで完成しなかった。なお俳優の{{仮リンク|エズモンド・ナイト|en|Esmond_Knight}}が砲術士官(予備士官)としてウェールズに配属されていた{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|p=69}}{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|pp=117-119}}。 |
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プリンス・オブ・ウェールズは[[ウィンストン・チャーチル|チャーチル]]首相のお気に入りであり、就役直後は「世界最強」と |
プリンス・オブ・ウェールズは[[ウィンストン・チャーチル|チャーチル]]首相のお気に入りであり、就役直後は彼に「世界最強」と言わしめた戦艦であったが、完成が遅れ十分な訓練が出来ないまま[[第二次世界大戦]]に投入されることになる。 |
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5月、[[ドイツ海軍_(国防軍)|ドイツ海軍]] ({{lang|de|Kriegsmarine}}) は戦艦や[[重巡洋艦]]による[[通商破壊]]を目論んで[[ライン演習作戦]]を発動した{{Sfn|壮烈!ドイツ艦隊|1985|pp=100-101|ps=「ライン」演習作戦}}{{Sfn|撃沈戦記|1988|pp=336-338|ps=「ビスマルク」大西洋へ}}。その頃のプリンス・オブ・ウェールズは乗員の慣熟訓練が未了であり{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|p=61}}、また主砲の故障等の問題を抱えていた{{Sfn|撃沈戦記|1988|pp=339-340|ps=水平線上の艦影}}{{Sfn|壮烈!ドイツ艦隊|1985|pp=110-111|ps=防禦力で劣る巡洋戦艦}}。艦内では、[[ヴィッカース|ヴィッカース・アームストロング社]]の民間人工員が工事を続けていた{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|p=68}}。 |
|||
[[5月20日]]昼すぎ{{Sfn|巨大戦艦ビスマルク|2002|pp=130-131}}、[[スウェーデン海軍]]の航空巡洋艦[[ゴトランド_(巡洋艦)|ゴトランド]] (''{{lang|sv|HMS Gotland}}'') が[[カテガット海峡]]でドイツ海軍の戦艦[[ビスマルク (戦艦)|ビスマルク]] (''{{lang|en|Bismarck}}'') および護衛部隊と遭遇し、[[スウェーデン|本国]]に連絡する{{Sfn|撃沈戦記|1988|p=338}}。その情報は、ただちにイギリスに伝えられた{{Sfn|巨大戦艦ビスマルク|2002|pp=132-135|ps=(9)情報はイギリス海軍省に}}{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|pp=22-24}}。イギリス軍は航空哨戒を厳重におこない{{Sfn|ヒトラーの戦艦|2002|pp=211-214|ps=ドラマのはじまり}}、[[5月21日|21日]]に[[ノルウェー]]南西部[[ベルゲン]]南方のグリムスター・フィヨルドで、[[ギュンター・リュッチェンス]]中将が指揮する戦艦ビスマルクと重巡[[プリンツ・オイゲン (重巡洋艦)|プリンツ・オイゲン]] (''{{lang|en|Prinz Eugen}}'') を発見した{{Sfn|壮烈!ドイツ艦隊|1985|pp=106-110|ps=「ビスマルク」出撃}}{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|pp=65-66}}。[[オークニー諸島]][[スカパ・フロー]]所在の[[本国艦隊#戦間期~第二次大戦|本国艦隊]]司令長官[[ジョン・トーヴィー]]大将はいくつかの対応策を指示しており{{Sfn|巨大戦艦ビスマルク|2002|pp=154-159|ps=(11)スカパ・フローに緊張走る}}{{Sfn|木俣、大西洋・地中海|2004|pp=140-141}}、その一環として本国艦隊の主力艦艇を二つに分割した{{Efn|トーヴィー大将自身は、旗艦[[キング・ジョージ5世 (戦艦)|キング・ジョージ5世]]、空母[[ヴィクトリアス (空母)|ヴィクトリアス]]、巡洋戦艦[[レパルス (巡洋戦艦)|レパルス]]を率いることになっていた{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|p=62}}{{Sfn|ヒトラーの戦艦|2002|pp=214-216|ps=〈ビスマルク〉はどこに}}。トーヴィー戦隊は[[5月22日]]夜に出撃した{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|p=78}}。}}。 |
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本国艦隊副司令長官/{{仮リンク|巡洋戦艦戦隊|en|Battlecruiser Squadron}}司令官{{仮リンク|ランスロット・ホランド|en|Lancelot Holland}}中将に対しては、巡洋戦艦[[フッド (巡洋戦艦)|フッド]]、新鋭戦艦プリンス・オブ・ウェールズ、駆逐艦6隻{{Efn|駆逐艦6隻の内訳は、[[:en:HMS_Electra_(H27)|エレクトラ]]、[[アンソニー_(A級駆逐艦)|アンソニー]]、[[:en:HMS_Echo_(H23)|エコー]]、[[イカルス_(駆逐艦)|イカルス]]、[[アケイティーズ_(駆逐艦・2代)|アキティーズ]]、[[アンテロープ_(駆逐艦)|アンテロープ]]であった{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|p=69}}。}}を引き連れ、ビスマルク部隊を捕捉するために[[アイスランド]]方面に進出するよう命じた{{Sfn|壮烈!ドイツ艦隊|1985|pp=106-110|ps=「ビスマルク」出撃}}。 |
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[[5月21日]]深夜、フッド(ホランド中将旗艦)とプリンス・オブ・ウェールズは、本国艦隊旗艦キング・ジョージ5世 (''{{lang|en|HMS King George V}}'') に見送られて[[スカパ・フロー]]を出発した{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|p=70}}。[[5月23日]]夜、デンマーク海峡を哨戒中の重巡2隻からビスマルク部隊発見の通報をうけたホランド戦隊は、駆逐艦を残して進撃した{{efn|リュッチェンス部隊に触接したのは{{Sfn|巨大戦艦ビスマルク|2002|p=167|ps=(ドイツ機動部隊、イギリス重巡と遭遇)}}、第一巡洋艦戦隊(司令官{{仮リンク|フレデリック・ウェイク・ウォーカー|en|Frederic Wake-Walker}}少将)の重巡洋艦[[ノーフォーク (重巡洋艦)|ノーフォーク]](旗艦)と[[サフォーク (重巡洋艦)|サフォーク]]であった{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|pp=89-96}}{{Sfn|木俣、大西洋・地中海|2004|pp=143-144}}。またフッドとウェールズに随伴していた駆逐艦部隊のうち、燃料不足で駆逐艦2隻が離脱し、残りは荒天候下でも高速を発揮できる戦艦2隻についてゆけなくなった{{Sfn|撃沈戦記|1988|p=339b}}。}}。 |
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{{main|デンマーク海峡海戦}} |
{{main|デンマーク海峡海戦}} |
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[[1941年]][[5月24日]]に最初の戦闘に遭遇した。[[通商破壊]]を目論んで[[ライン演習作戦]]で[[大西洋]]に進出してきた[[ドイツ海軍]]の[[戦艦]][[ビスマルク (戦艦)|ビスマルク]]と[[重巡洋艦]][[プリンツ・オイゲン (重巡洋艦)|プリンツ・オイゲン]]を、[[デンマーク海峡]]で巡洋戦艦[[フッド (巡洋戦艦)|フッド]]とともに迎え撃ち、砲撃戦を行った。この海戦でフッドが[[ビスマルク (戦艦)|ビスマルク]]の砲撃を受け、轟沈してしまった。プリンス・オブ・ウェールズも最初の斉射を放った直後にA(1番)砲塔が故障したが、第3射がビスマルクの燃料タンクとボイラー室に損害を与えた<ref>Garzke, p. 179</ref>。しかし、操舵艦橋に被弾したため退避した。リーチ艦長は無事であったものの航海長が戦死した<ref>Garzke, p. 180</ref>。司令官のホランド中将が戦死したためウォーカー少将の指揮下に入ったが、5月25日に燃料不足のためビスマルク追跡を打ち切った<ref>Barnett, p. 297-299</ref>。その後、本国の[[ロサイス]]に戻ったプリンス・オブ・ウェールズは6週間に渡る修理を行った。 |
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[[5月24日]]朝、アイスランド近海の[[大西洋]]上において{{Sfn|木俣、大西洋・地中海|2004|pp=146-147|ps=(ビスマルク追跡図-1)(1941年5月23日午後7時22分~24日午前8時)}}、ホランド戦隊(フッド、ウェールズ)はリュッチェンス部隊(ビスマルク、プリンツ・オイゲン)を発見し、砲撃戦を開始した{{Sfn|巨大戦艦ビスマルク|2002|pp=175-200|ps=(14)フッド轟沈}}([[デンマーク海峡海戦]]/アイスランド沖海戦){{Sfn|ビスマルクの最期|1982|pp=124-125|ps=(デンマーク海峡海戦~ヴィクトリアス攻撃まで)}}。ドイツ側は、先頭艦がプリンツ・オイゲン、後方にビスマルクが航行していた{{Sfn|壮烈!ドイツ艦隊|1985|p=115}}。フッドは先頭をすすむプリンツ・オイゲンをビスマルクと間違えて砲撃し{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|pp=136-137}}、プリンス・オブ・ウェールズはビスマルクを狙ったので{{Sfn|ヒトラーの戦艦|2002|pp=218-222|ps=〈フッド〉轟沈}}、ホランド戦隊の砲火は分散してしまった{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|p=143}}。ドイツ側は2隻ともフッドを目標にして砲撃を開始した{{Sfn|巨大戦艦ビスマルク|2002|p=180}}。なおリュッチェンス部隊の後方には重巡洋艦[[ノーフォーク (重巡洋艦)|ノーフォーク]] (''{{lang|en|HMS Norfolk, 78}}'') と[[サフォーク (重巡洋艦)|サフォーク]] (''{{lang|en|HMS Suffolk, 55}}'') とが追走しており{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|p=143}}、戦艦同士の砲撃戦の最中も時折ビスマルクにむけて砲撃していたが、遠距離砲撃のため命中しなかった{{Efn|ノーフォークにはウォーカー少将が座乗していたが、ホランド中将(フッド)の方が先任であるため、デンマーク海峡海戦では精彩を欠いた{{Sfn|巨大戦艦ビスマルク|2002|p=183}}。ホランド中将はウォーカー少将の重巡2隻でプリンツ・オイゲンを片付けるつもりだったが、無線封止をしていたので意図が伝わらなかった{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|p=121}}。また砲戦中のため、命令を出す時機を逸した{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|p=143}}。}}。 |
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プリンス・オブ・ウェールズは大西洋を渡り、チャーチル首相ら一行を乗せて[[ニューファンドランド・ラブラドール州]]アルゼンチン沖に到着、8月10日から[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[フランクリン・ルーズベルト|ルーズベルト]]大統領との会談が始まり、12日にプリンス・オブ・ウェールズの艦上で[[大西洋憲章]]が締結された。9月、プリンス・オブ・ウェールズは[[地中海]]で、[[マルタ]]への船団を護衛する[[ハルバード作戦]]に参加した<ref name="greene181b">Jack Greene and Alessandro, pp.181-191</ref>。この作戦中、プリンス・オブ・ウェールズは味方の[[フェアリー フルマー|フルマー戦闘機]]を2機撃墜してしまっている<ref name="greene181b"/>。 |
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砲戦開始から10分も経過しないうちに{{Sfn|巨大戦艦ビスマルク|2002|p=194|ps=(アイスランド沖海戦航跡図)}}、ビスマルクの第五斉射がフッドの第二煙突と後部マストの中間に命中した{{Sfn|撃沈戦記|1988|pp=342-344|ps=第五斉射の一弾}}。フッドは轟沈し、プリンス・オブ・ウェールズ乗組員に衝撃を与えた{{Efn|ウェールズのリーチ艦長は、後日の調査会でフッド轟沈時のスケッチを提出している{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|pp=147-150}}。}}。 |
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ウェールズはフッドの残骸を回避するため右に舵をとり、プリンツ・オイゲンとビスマルクに近づくことになった{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|pp=150-151}}。しかもフッドとほぼ同じ航跡だったため、ドイツ側は照準を修正せず効果的な射撃をおこなうことができた{{Sfn|巨大戦艦ビスマルク|2002|p=188}}。ウェールズの艦橋にビスマルクの主砲弾が命中し、艦橋乗組員のうち3名(リーチ艦長、掌信号長、航海科士官1名)以外は全員戦死した{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|p=152}}。艦橋下部の航跡記録係士官は、[[伝声管]]から血がしたたり落ちてきて、被弾と惨事に気付いたという{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|p=152}}。この海戦でウェールズに命中した弾丸は、ビスマルクの15インチ砲弾4発、オイゲンの8インチ砲弾3発であった{{Sfn|ヒトラーの戦艦|2002|p=221}}。航海長<ref>Garzke, p. 180</ref>を含む士官2名、下士官11名が戦死、士官1名と下士官兵8名が負傷する{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|p=156}}。羅針艦橋、レーダー操作室、艦載機揚収クレーン、副砲4門と方位盤、短艇と艦載機が破壊されたり損傷をうけた{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|p=154}}。吃水線下への命中弾では、400トンの浸水被害が生じた{{Sfn|ヒトラーの戦艦|2002|p=221}}。さらに砲戦中のウェールズの主砲が次々に故障した{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|p=155}}。トーヴィー戦隊(キング・ジョージ5世、レパルス、ヴィクトリアス)が南東400マイルまで来ているの知ったリーチ艦長は退避を決断する{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|p=155}}。ウェールズは、プリンツ・オイゲンの魚雷の射程に入る直前に転舵し、リュッチェンス部隊と距離をとった{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|p=154}}。砲戦開始から21分が経過していたという{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|p=156}}。ビスマルクの艦長[[エルンスト・リンデマン]]大佐はプリンス・オブ・ウェールズを追撃して撃沈することを望んだが、リュッチェンス提督は通商破壊作戦やトーヴィー戦隊の接近などを総合的に判断し、手負いのウェールズを見逃した{{Sfn|巨大戦艦ビスマルク|2002|pp=191-193}}。午前6時32分、リュッチェンス提督は上級司令部に「巡洋戦艦1、おそらくフッドを撃沈。帯同の戦艦キング・ジョージ五世もしくは[[レナウン (巡洋戦艦)|レナウン]]は損傷を負って逃走。2隻の重巡はなお触接を維持」と報告した{{Sfn|巨大戦艦ビスマルク|2002|p=198}}。 |
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デンマーク海峡海戦で、プリンス・オブ・ウェールズは主砲の故障に悩まされた{{Sfn|ヒトラーの戦艦|2002|p=221}}。最初の斉射を放った直後にA(1番)砲塔が故障したが、第3射がビスマルクの燃料タンクとボイラー室に損害を与えた<ref>Garzke, p. 179</ref>。総合すると、ビスマルクに14インチ主砲弾3発、プリンツ・オイゲンに14インチ主砲弾1発(不発)を命中させた{{Efn|プリンツ・オイゲンの煙突基部付近で回収された巨弾の断片は、巡洋戦艦[[フッド (巡洋戦艦)|フッド]]のものとされた{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|p=166}}。だが分析の結果、ウェールズの主砲弾であることが判明した{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|p=419}}。}}。ウェールズがビスマルクに与えた損害は、予想以上に大きかった{{Sfn|巨大戦艦ビスマルク|2002|p=195}}。艦中央部に命中した1発は、不発だった{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|p=166}}。2発目は重要区画に飛び込み、2番ボイラー室でボイラー2基を使用不能にし、乗組員5名が負傷した{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|p=166}}。艦首左舷水線部に命中した1発(不発)は、燃料タンク2つを貫通し、燃料供給弁も壊した{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|p=167}}。ビスマルクは1,000トンあまりの燃料を使えなくなり、作戦行動に支障をきたすようになった{{Sfn|巨大戦艦ビスマルク|2002|p=196}}。さらに艦前部への浸水で前方に2度乃至3度、左に9度傾斜し、バランスをとるために艦尾区画に注水しなければならなかった{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|p=168}}。速度は最大で28ノットに低下し、壊れた燃料タンクから油の尾をひくようになった{{Sfn|巨大戦艦ビスマルク|2002|p=197}}。ドックに入って修理しないかぎり、長期の作戦行動をとれなくなったのである{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|p=170}}。リュッチェンス提督はプリンツ・オイゲンのみに通商破壊作戦を続行させ、ビスマルクをフランス西部の基地に帰投させる決断を下した{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|p=171}}。 |
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ビスマルク尾行を続ける{{仮リンク|フレデリック・ウェイク・ウォーカー|label=ウェイク・ウォーカー|en|Frederic Wake-Walker}}少将は、フッド生存者の捜索を駆逐艦にまかせ、ひきつづき重巡2隻を率いて追跡を続けた{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|p=159}}。損傷したプリンス・オブ・ウェールズはウォーカー少将の指揮下に入り{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|p=176}}、重巡2隻と合流してビスマルク追跡任務に従事した{{Sfn|ヒトラーの戦艦|2002|pp=222-224|ps=当てのない追跡行}}{{Sfn|巨大戦艦ビスマルク|2002|p=218|ps=(北大西洋におけるビスマルク追撃態勢)}}。ビスマルクの方も、しつこいウォーカー戦隊3隻(ノーフォーク〈旗艦〉、サフォーク、ウェールズ)をビスマルクの護衛艦とみなすことにしたという{{Sfn|巨大戦艦ビスマルク|2002|p=211}}。[[5月24日]]午後、チャーチルと、[[海軍本部_(イギリス)|海軍本部]]の[[ダドリー・パウンド]]元帥([[第一海軍卿]])は、ウォーカー戦隊がビスマルクの随伴部隊と化したことを憂慮していた{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|p=185}}。パウンドは「プリンス・オブ・ウェールズをして戦闘再開せしむることに関し、如何に考慮しありや?」と打電した{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|p=186}}。事実上の叱責であり、ウォーカー少将はビスマルクに砲戦を挑む決意を固めた{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|p=187}}。リュッチェンス部隊では、プリンツ・オイゲンが通商破壊作戦続行のために分離し、ビスマルク単艦となった{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|pp=192-193}}{{Sfn|巨大戦艦ビスマルク|2002|pp=216-217}}。ウォーカー戦隊3隻は再びビスマルクと砲火を交え、プリンス・オブ・ウェールズは12斉射をおこなったところで前部の主砲2門が動作不能となり射撃を中止した{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|p=194}}。距離28,000以上の遠距離砲戦で、砲撃条件も悪かった{{Sfn|巨大戦艦ビスマルク|2002|p=220}}。ビスマルクも散発的に主砲で応戦した程度で、双方とも命中弾を得なかった{{Efn|リュッチェンス提督は上級司令部に「19時14分 キング・ジョージ五世と短時間交戦したが、戦果なし。プリンツ・オイゲン、燃料補給のため離脱。敵は現在もなお触接を堅持」と報告した{{Sfn|巨大戦艦ビスマルク|2002|p=221}}。}}。 |
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つづいてイギリス空母[[ヴィクトリアス (空母)|ヴィクトリアス]] (''{{lang|en|HMS Victorious, R38}}'') の[[フェアリー_ソードフィッシュ|ソードフィッシュ]]9機がビスマルクに雷撃を敢行し{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|pp=199-203}}{{Sfn|木俣、大西洋・地中海|2004|p=151}}、魚雷1本を命中させたが損害軽微であった{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|pp=208-210}}{{Sfn|巨大戦艦ビスマルク|2002|pp=224-230|ps=(18)ソードフィッシュ雷撃機との死闘}}。空襲から約1時間後、プリンス・オブ・ウェールズは距離15,000メートル彼方のビスマルクにむけて主砲2斉射をはなち、ビスマルクも主砲の斉射で応戦した{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|p=212}}。命中弾のない砲撃戦は短時間で終わり、ウェールズはビスマルクと距離をとった{{Sfn|巨大戦艦ビスマルク|2002|p=230}}。 |
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またビスマルク追跡中に、イギリス輸送船団遭難者の救助をおこなっていたアメリカ合衆国沿岸警備隊の監視船モウドック(1,800トン)と遭遇したウォーカー戦隊は、これをビスマルクと誤認して沈めようとした{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|p=206}}。そうこうしているうちに、ウォーカー戦隊はビスマルクを見失った{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|pp=217-219}}{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|pp=252-253|ps=(5月25日朝から5月27日まで、各艦航跡図)}}{{Sfn|巨大戦艦ビスマルク|2002|p=241|ps=(ビスマルク、触接を断つ)}}。プリンス・オブ・ウェールズは、燃料不足になって離脱した巡洋戦艦レパルスの代艦として、トーヴィー長官の指揮下に入った{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|p=223}}{{Sfn|木俣、大西洋・地中海|2004|p=155|ps=(ビスマルク追跡図-2)(1941年5月24日午前8時~27日午前10時36分)}}。だがウェールズやヴィクトリアスも燃料不足となり{{Sfn|ヒトラーの戦艦|2002|pp=222-224|ps=当てのない追跡行}}、[[5月25日]]に補給のため[[アイスランド]]にむかった{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|p=247}}。その後、本国の[[ロサイス]]に戻ったプリンス・オブ・ウェールズは6週間に渡る修理を行った。 |
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=== 地中海の戦い === |
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プリンス・オブ・ウェールズは大西洋を渡り[[カナダ]]へ移動、チャーチルら一行を乗せて[[ニューファンドランド・ラブラドール州]][[プラセンティア湾]]の[[:en:Naval_Station_Argentia|アルゼンチア海軍基地]]に到着、8月10日から[[アメリカ合衆国|アメリカ]]大統領[[フランクリン・ルーズベルト|ルーズベルト]]との会談が始まる{{Efn|ルーズベルト大統領は重巡洋艦[[オーガスタ_(重巡洋艦)|オーガスタ]] (''{{lang|en|USS Augusta, CA-31}}'') でアルゼンチア海軍基地に到着しており、駆逐艦[[:en:USS_McDougal_(DD-358)|マクドゥガル]] (''{{lang|en|USS McDougal, DD-358}}'') でウェールズに乗艦した。}}。[[8月12日|12日]]、プリンス・オブ・ウェールズの艦上で[[大西洋憲章]]が締結された。 |
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9月、プリンス・オブ・ウェールズは[[地中海戦域_(第二次世界大戦)|地中海戦線]]に投入される。[[クレタ島の戦い#連合軍の撤退|クレタ島撤退作戦]]後、[[イベリア半島]]南東部[[ジブラルタル]]を拠点とする[[H部隊]] (''{{lang|en|Force H}}'') を増強するため、本艦と[[ネルソン級戦艦]]2隻([[ネルソン (戦艦)|ネルソン]]、[[ロドニー (戦艦)|ロドニー]])などが[[地中海]]に派遣された{{sfn|地中海の戦い|1993|pp=119-120}}。9月下旬、ジブラルタルから[[マルタ]]への増援船団を護衛する[[ハルバード作戦]]に参加した<ref name="greene181b">Jack Greene and Alessandro, pp.181-191</ref>。イタリア海軍の新鋭戦艦2隻([[リットリオ (戦艦)|リットリオ]]、[[ヴィットリオ・ヴェネト (戦艦)|ヴィットリオ・ヴェネト]])などが出撃したが、戦艦同士の砲撃戦は起きなかった。輸送作戦は成功した{{sfn|地中海の戦い|1993|p=132}}。この作戦中、プリンス・オブ・ウェールズは味方の[[フェアリー フルマー|フルマー戦闘機]]を2機撃墜してしまっている<ref name="greene181b"/>。 |
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=== 東洋艦隊派遣 === |
=== 東洋艦隊派遣 === |
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[[Image:HMS Prince Of Wales in Singapore.jpg|thumb|left|シンガポールに到着したプリンス・オブ・ウェールズ]] |
[[Image:HMS Prince Of Wales in Singapore.jpg|thumb|left|シンガポールに到着したプリンス・オブ・ウェールズ]] |
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10月25日にチャーチル首相の強い要請で、今後予想される[[日本軍]]南下の抑止力として、プリンス・オブ・ウェールズのインド洋への派遣が決まった{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|p=415}}。パウンド元帥は、自分を補佐していた[[トーマス・フィリップス]]中将にこの部隊の指揮をとらせた{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|p=415}}{{Efn|フィリップス中将は11月25日付で海軍大将に昇進した。}}。さらに[[中国艦隊 (イギリス)|支那方面艦隊]]を解隊して[[東洋艦隊 (イギリス)|東洋艦隊]]に統合することにした{{Efn|イギリス中国艦隊(支那方面艦隊)はプリンス・オブ・ウェールズがシンガポールに到着した12月2日付で解隊された{{Sfn|戦史叢書80|1975|pp=85-90|ps=マレー沖海戦}}。}}。東洋艦隊がこのような最新戦艦を持つことは前例がなく、ドイツとヨーロッパで戦争遂行中に、日本と開戦間近と見られていたとはいえ主力艦を東洋に回航したのは相当な意味があった。チャーチル首相とイギリス軍は、プリンス・オブ・ウェールズ及びレパルスにより、イギリスの植民地であるマレー半島や[[オーストラリア]]、さらには当時イギリス軍が制海権を持っていた[[インド洋]]への日本軍の侵攻を阻止または断念させる事を目的としていたのである{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|p=415}}。その観測の根拠はそれほど的外れなものではなかった。チャーチル首相は[[ビスマルク (戦艦)|ビスマルク]]1隻にイギリス海軍が翻弄され、さらに姉妹艦[[ティルピッツ (戦艦)|ティルピッツ]]1隻が大きな戦略上の障害になっていることを説いた<ref>M.ミドルブルック「戦艦」早川書房 1979</ref> 。 |
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10月25日にチャーチル首相の強い要請で、今後予想される[[日本軍]]南下の抑止力として、プリンス・オブ・ウェールズのインド洋への派遣が決定された。11月28日には[[コロンボ]]に到着し、12月2日には[[レパルス (巡洋戦艦)|レパルス]]と共にイギリスの[[植民地]]であり、海軍の拠点であるシンガポールへ到着した。[[東洋艦隊 (イギリス)|東洋艦隊]]の旗艦として[[トーマス・フィリップス]]大将の指揮下に入った。空母[[インドミタブル (空母)|インドミタブル]]が合流する予定であったが、[[ジャマイカ]]を出港直後に座礁したため合流できなかった<ref name="C12">Chesneau, p. 12</ref>。それに代わる空母[[ハーミーズ (空母・初代)|ハーミーズ]]も速力が足らず配備されなかった<ref>{{cite|title = HMS Hermes, British aircraft carrier, WW2|url = http://www.naval-history.net/xGM-Chrono-04CV-Hermes.htm|publisher = Naval-History.Net|accessdate = 2010-01-27}}</ref>。 |
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プリンス・オブ・ウェールズは11月28日[[セイロン島]][[コロンボ]]に到着し{{Sfn|戦史叢書80|1975|p=44}}、[[12月2日]]には巡洋戦艦[[レパルス (巡洋戦艦)|レパルス]]と共に[[マレー半島]]南端に位置する[[シンガポール]]に到着した{{Sfn|戦史叢書80|1975|p=48}}。ここはイギリスの[[植民地]]であり、同時にイギリス軍の重大拠点でもあった{{Sfn|戦史叢書80|1975|p=69}}。マレー半島防衛のために{{仮リンク|極東軍 (イギリス)|label=イギリス極東軍|en|British_Far_East_Command}}(司令長官{{仮リンク|ロバート・ブルック・ポッファム|en|Robert Brooke-Popham}}大将)が準備していた計画を{{仮リンク|マタドール作戦 (1941)|label=マタドール作戦|en|Operation Matador (1941)}}と呼ぶ{{Sfn|戦史叢書80|1975|pp=82-85|ps=マレー上陸作戦}}。ウェールズは東洋艦隊の旗艦としてフィリップス大将の指揮下に入り、有事の際は[[フィリピン]]をのぞく東洋連合軍海軍を統一指揮することになっていた{{Sfn|戦史叢書80|1975|p=88}}。なお空母[[インドミタブル (空母)|インドミタブル]] (''{{lang|en|HMS Indomitable, 92}}'') が合流する予定であったが{{Sfn|ニミッツ|1962|p=15}}、[[ジャマイカ]]を出港直後に座礁したため合流できなかった<ref name="C12">Chesneau, p. 12</ref>。それに代わる空母[[ハーミーズ (空母・初代)|ハーミーズ]] (''{{lang|en|HMS Hermes, 95}}'') も速力が足らず配備されなかった<ref>{{cite|title = HMS Hermes, British aircraft carrier, WW2|url = http://www.naval-history.net/xGM-Chrono-04CV-Hermes.htm|publisher = Naval-History.Net|accessdate = 2010-01-27}}</ref>。そして、他の空母を欧州戦線や地中海戦線から引き抜き、極東に派遣できる余裕はなかった{{Sfn|ニミッツ|1962|p=15}}。 |
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東洋艦隊がこのような最新戦艦を持つことは前例がなく、ドイツとヨーロッパで戦争遂行中に、日本と開戦間近と見られていたとはいえ主力艦を東洋に回航したのは相当な意味があった。チャーチル首相とイギリス軍は同艦及びレパルスにより、イギリスの植民地であるマレー半島や[[オーストラリア]]、さらには当時イギリス軍が制海権を持っていた[[インド洋]]への日本軍の侵攻を阻止または断念させる事を目的としていたのである。その観測の根拠はそれほど的外れなものではなかった。チャーチル首相は[[ビスマルク (戦艦)|ビスマルク]]1隻でイギリス海軍が翻弄され、さらに[[ティルピッツ (戦艦)|ティルピッツ]]1隻が大きな戦略上の障害になっていることを説いた<ref>M.ミドルブルック「戦艦」早川書房 1979</ref> 。 |
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開戦直前の時点 |
太平洋戦争開戦直前の時点における英国は、プリンス・オブ・ウェールズを世界最強とみなしていた{{Sfn|戦史叢書80|1975|p=89}}。日本海軍が有する[[長門型戦艦|長門型]]を含め、対抗できる日本側の戦艦戦力は存在しないとされていた。日本海軍が新世代戦艦を建造していることは列強各国にも知られていたが、その性能は16インチ砲9門ないし10門、基準排水量40,000~42,000トン、速力27-30ノットという推定であった{{Sfn|福井、日本戦艦物語(II)|1992|pp=283-285|ps=大和の情報収集に失敗した米海軍}}{{Efn|これが[[大和型戦艦]]で、1番艦の[[大和 (戦艦)|大和]]{{Sfn|福井、日本戦艦物語(II)|1992|p=202}}(1937年11月4日起工、1940年8月8日進水、1941年12月16日竣工)は{{Sfn|福井、日本戦艦物語(II)|1992|pp=192-193|ps=世界空前の巨大戦艦}}、18インチ砲9門、基準排水量64,000トン、速力27ノットであった。}}。日本軍の陸上部隊の輸送には対抗上、戦艦の護衛が必須と思われ、これを調達出来ない日本軍はマレー半島での作戦遂行が著しく困難になる筈と考えられていた。 |
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何よりも当時の常識では、行動中の新式戦艦が航空機に撃沈された事例は無かった{{Sfn|戦史叢書95|1976|p=229a}}{{Efn|name="ハワイ、マレー海戦p30"|<strong>七、マレー戰の驚異</strong>{{Sfn|ハワイ海戦、マレー沖海戦|1942|pp=30-31|ps=(原本36-38頁)}} 撃沈した隻數はハワイ海戰の場合よりも少ないから、世上或はマレー海戰の戰果をヨリ小さいと考へるものがあれば、それは大間違ひである。戰果に甲乙なく、共に世界的且つ歴史的の大戰勝であり、さうして今後の海戰略に重大なる示唆を與へ、更に敵主力の進攻戰に期間的終止符を打つた點で全く相匹敵するものである。/ 異なる所はハワイ戰が敵の主力を根據地碇泊中に撃滅したのに對し、マレー戰は洋上の機動に於て撃滅した點にある。即ち空中魚雷と爆彈とによる攻撃戰の二つの場合が、殆ど時を同じうして東と南とで實演され、共に成功の標本を作り上げたわけである。/ 筆者は我が海軍航空部隊が、世界的新鋭戰艦プリンス・オブ・ウエールズ號に對し、必殺の攻法によつて大打撃を與へ得るだらうとは考へたが、彼れを撃沈することは出來ないであると豫想してゐた。[[レナウン級巡洋戦艦|レパルス、レナウン型の高速戰艦]]は、五月二十七日に[[フッド (巡洋戦艦)|フツド]]が撃沈された如く、高速戰艦固有の弱點の爲に撃滅の可能性はあると思つたが、キング・ジオージ・五世級の新戰艦に至つては、餘程多數の魚雷と重爆彈とを命中させなければ沈めることが出來ないし、斯かる命中は洋上の機動戰に於ては不可能だと考へたからである。/ プリンス・オブ・ウエールス號は『空軍に對する戰艦の将來』を調査したインスキツプ委員會の報告に基き當時イギリスにも流行した戰艦無用論を尻目にかけて起工された新工夫の代表艦である。即ち空中からの攻撃に對しては特殊鋼を以て特殊の型式による防備を施し、水中攻撃に對しても強力なる抵抗力を附與し、その爲に防禦鋼の重量が一萬四千トンに達したといふ記録を持つ。/ 一方に對空攻撃武器としては、五吋高角速射砲八門の外に、[[ヴィッカース QF 2ポンド砲|四聯集装のポムポム砲]]― 一装は半吋強の機關砲八門から成る― 二基を備へ、即ち六十四門から噴水の如く間斷なく打ち上げる彈幕で敵の急降下爆撃機を事前に粉碎する用意を持つてゐた。}}。 |
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さらに、イギリス軍は日本軍機の性能を過小評価していた{{Sfn|戦史叢書80|1975|p=89}}。対峙する日本海軍においても、その航空戦力発展に大きく寄与してきた[[連合艦隊]]司令長官[[山本五十六]]大将でさえ<ref>阿川弘之「山本五十六(下)」新潮文庫 ISBN 978-4-10-111004-2 </ref>、1941年(昭和16年)12月10日朝の旗艦[[長門 (戦艦)|長門]]において[[三和義勇]]連合艦隊参謀に「[[レナウン (巡洋戦艦)|リナウン]]も[[キング・ジョージ5世_(戦艦)|キングジョージ]]もやれるかな。リナウンは撃沈できるがキングジョージは大破だろう」と声をかけた{{Sfn|追悼山本五十六|2010|p=215}}{{Efn|三和によれば、山本長官の発言は相手の自信の程度を確かめるための話術であったという{{Sfn|戦史叢書80|1975|p=87}}。}}。山本と三和は、イギリス新鋭戦艦を撃沈できるかどうかに[[ビール]]を賭けた{{Sfn|智将小沢治三郎|2017|p=56}}{{Efn|キング・ジョージ5世とプリンス・オブ・ウェールズはキングジョージ5世級戦艦の同型艦、レナウンとレパルスは[[レナウン級巡洋戦艦]]の同型艦である{{Sfn|追悼山本五十六|2010|p=215}}。}}。 |
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イギリス軍が東洋艦隊に最新鋭戦艦と[[:en:Fast_battleship|高速戦艦]]を配備したという情報は日本軍の作戦計画に影響を与え、連合艦隊は馬来部隊に潜水戦隊と陸上攻撃機を増強して対応した{{Sfn|戦史叢書95|1976|pp=164-166|ps=南方部隊(挿図第二表参照)}}{{Sfn|智将小沢治三郎|2017|pp=22-24}}。さらに南方部隊本隊と馬来部隊の水上部隊で対処することにした{{Sfn|戦史叢書80|1975|pp=55a-56|ps=馬来方面作戦部隊}}。日本軍の[[南方作戦]]において、海軍側の総指揮官は[[第二艦隊 (日本海軍)|第二艦隊]]司令長官[[近藤信竹]]中将(南方部隊指揮官、旗艦[[愛宕 (重巡洋艦)|愛宕]])で、[[高雄型重巡洋艦]]2隻<!-- 第四戦隊([[愛宕 (重巡洋艦)|愛宕]]、[[高雄 (重巡洋艦)|高雄]]、[[摩耶 (重巡洋艦)|摩耶]]、[[鳥海 (重巡洋艦)|鳥海]])。摩耶は第三艦隊(比島部隊)に臨時編入、鳥海は南遣艦隊(馬来部隊)に臨時編入。-->と[[金剛型戦艦|金剛級高速戦艦]]2隻([[金剛 (戦艦)|金剛]]、[[榛名 (戦艦)|榛名]])を有していた{{Sfn|聯合艦隊作戦室|1997|pp=26-27|ps=作戦室の店開き}}{{Efn|第三戦隊(司令官[[三川軍一]]中将){{Sfn|戦史叢書10|1967|p=170}}の金剛型4隻(金剛、比叡、榛名、霧島)のうち、三川中将直率の第1小隊([[比叡 (戦艦)|比叡]]、[[霧島 (戦艦)|霧島]])は南雲機動部隊護衛艦艇として[[真珠湾攻撃|ハワイ作戦]]に参加{{Sfn|戦史叢書95|1976|pp=162-164|ps=ハワイ作戦部隊}}、不在{{Sfn|戦史叢書10|1967|p=257}}。}}。 |
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何よりも当時の常識では行動中の新式戦艦が航空機に撃沈された事例は無かったのである([[山本五十六]]でさえ「レパルスはやれるがプリンス・オブ・ウェールズは無理だろう」とマレー沖海戦時に語っている<ref>阿川弘之「山本五十六(下)」新潮文庫 ISBN 978-4-10-111004-2 </ref>)。 |
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[[マレー作戦]]を担当していたのは[[南遣艦隊]]司令長官[[小沢治三郎]]中将(馬来部隊指揮官、旗艦[[鳥海 (重巡洋艦)|鳥海]])で{{Sfn|智将小沢治三郎|2017|pp=22-24}}{{Sfn|軍艦鳥海航海記|2018|pp=27-28}}、おもに陸軍輸送船団の護衛を担う{{Sfn|戦史叢書80|1975|p=55b}}{{Sfn|戦史叢書95|1976|pp=167-168|ps=馬来部隊及びジャワ西部への進攻部隊(挿図第二表参照)}}。指揮下に[[最上型重巡洋艦]]4隻{{Sfn|巡洋艦戦記|2011|pp=259-263|ps=(3)ついに英二戦艦を逸す}}<!-- 第七戦隊司令官[[栗田健男]]少将、熊野、鈴谷、三隈、最上 -->、[[水雷戦隊#第三水雷戦隊|第三水雷戦隊]]と二個潜水戦隊{{Sfn|智将小沢治三郎|2017|pp=22-24}}{{Sfn|戦史叢書98|1979|pp=123-125|ps=一 南西方面における潜水艦戦/開戦初頭における作戦/兵力展開}}、さらに増強された基地航空部隊を有していた{{Sfn|戦史叢書95|1976|pp=181-182|ps=馬来部隊}}{{Sfn|戦史叢書95|1976|pp=173-175|ps=南方作戦部隊}}。 |
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現場の南方部隊本隊や馬来部隊では、同部隊の昼間砲撃力ではイギリス東洋艦隊に明らかに劣るため艦隊決戦に勝機を見いだせず、夜戦に活路を見出すしかないと思われていた{{Sfn|戦史叢書95|1976|p=228}}{{Sfn|愛宕奮戦記|2008|p=45}}。 |
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一方で、この方面の攻略を担当した[[近藤信竹|近藤]]艦隊([[第二艦隊 (日本海軍)|第二艦隊]])は[[金剛型戦艦|金剛級高速戦艦]]2隻([[金剛 (戦艦)|金剛]]・[[榛名 (戦艦)|榛名]])を中心としていたが、昼間砲撃力ではイギリス東洋艦隊に明らかに劣り、夜戦に活路を見出すしかないと思われていた。ただし、日本軍が特に警戒していたのはプリンス・オブ・ウェールズよりもむしろ38cmをもつレパルスによる[[アウトレンジ戦法|アウト・レンジ砲撃]]であった。(実際には仰角の違いから主砲の最大射程はレパルスより金剛型戦艦の方が大きい。) また[[宇垣纏]]連合艦隊参謀長は『吾人の眼よりせば茲に飛び込むは我潜あり、機雷あり、大巡数隻水戦あり、加ふるに高速戦艦二隻ある上、南部佛印に我攻撃機隊の相當優勢なるものあるを知るや知らずや、無謀と云はざれば其の傍若無人振りを賞すべきなり』と余裕を持っている<ref>[[#戦藻録(1968)]]39頁</ref>。英戦艦2隻は、まさに『鴨がねぎを負って現れたる海戦を何と命名するや』というマレー沖海戦に臨むことになった<ref name="戦藻録42">[[#戦藻録(1968)]]42-46頁『十二月十日 水曜日 雨 (X-2) アバリ、ビカン上陸成功。馬来沖海戦。特別攻撃隊。ギルバート占領』</ref>。 |
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<!-- [[金剛型戦艦]]は高速ではあるが攻撃力・防御力とも劣り、最新鋭戦艦の戦力は日本側を遙かに凌駕していた{{Sfn|戦史叢書80|1975|p=86}}。ただし日本軍が特に警戒していたのは、14インチ主砲10門で最新鋭の[[キング・ジョージ5世級戦艦]]よりも、むしろ[[巡洋戦艦]]レパルス([[第一次世界大戦]]時建造)の15インチ砲6門による[[アウトレンジ戦法|アウト・レンジ砲撃]]であった{{efn|なおレパルスよりも更に巨大で強力だった巡洋戦艦[[フッド (巡洋戦艦)|フッド]](15インチ砲8門)はドイツ新鋭戦艦[[ビスマルク (戦艦)|ビスマルク]]に砲撃戦で撃沈され、そのビスマルクを葬ったのが戦艦[[キング・ジョージ5世 (戦艦)|キング・ジョージ5世]]と[[ロドニー (戦艦)|ロドニー]]であった。}}。--> |
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既述のように日本連合艦隊はイギリス戦艦2隻の増援に対して馬来部隊に[[陸上攻撃機]](基地航空部隊)を増強しており、キング・ジョージ5世(ウェールズ)についても「撃沈は無理でも大破させることは可能」、リナウン(レパルス)は撃沈できると判断していた{{Sfn|戦史叢書80|1975|p=88}}。[[宇垣纏]]少将(当時、連合艦隊参謀長)は「 吾人の眼よりせば茲に飛び込むは我[[潜水艦|潜]]あり、[[機雷]]あり、[[重巡洋艦|大巡]]数隻[[水雷戦隊|水戦]]あり、加ふるに高速戦艦二隻ある上、[[フランス領インドシナ|南部佛印]]に我攻撃機隊の相當優勢なるものあるを知るや知らずや、無謀と云はざれば其の傍若無人振りを賞すべきなり 」と余裕を持っている{{Sfn|戦藻録|1968|p=39}}。英戦艦2隻は「 [[マガモ|鴨]]が[[ネギ|ねぎ]]を負って現れたる海戦を何と命名するや 」というマレー沖海戦に臨むことになった{{efn|宇垣纏『戦藻録』(1941年12月10日記事)〔 十二月十日 水曜日 雨 (X-2) アバリ、ビカン上陸成功。馬来沖海戦。特別攻撃隊。ギルバート占領 〕{{Sfn|戦藻録|1968|pp=42-46}}。}} |
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=== 最期 === |
=== 最期 === |
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{{main|マレー沖海戦}} |
{{main|マレー作戦|マレー沖海戦}} |
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1941年(昭和16年)[[12月8日]]未明に実施された[[マレー作戦]]を機に[[太平洋戦争]]{{Sfn|戦史叢書80|1975|pp=102-103|ps=大東亞戦争と呼称決定}}{{Sfn|別冊歴史読本(45)|2009|pp=96-97|ps=(1941.12.8~45.2.15)マレー攻略作戦}}([[大東亜戦争]])がはじまった{{Sfn|軍艦鳥海航海記|2018|pp=37-38}}{{Sfn|智将小沢治三郎|2017|pp=44-49}}{{Efn|馬来部隊のマレー半島コタバル上陸は、[[真珠湾攻撃]]よりも一時間はやく[[12月8日]]午前2時15分から実施された{{Sfn|戦史叢書80|1975|p=75}}。}}。 |
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東洋艦隊では主力艦艇で{{仮リンク|Z部隊 (イギリス海軍)|label=Z部隊|en|Force_Z}} (''{{lang|en|Force,Z}}'') を編成した。フィリップス提督は[[イギリス空軍]]の支援を要請したが、実施されなかった{{Sfn|戦史叢書80|1975|p=89}}。Z部隊(戦艦プリンス・オブ・ウェールズ、巡洋戦艦レパルス、駆逐艦4隻{{efn|駆逐艦4隻の内訳は{{Sfn|撃沈戦記|1988|p=105}}、[[エクスプレス_(駆逐艦)|エクスプレス]]、[[テネドス_(駆逐艦)|テネドス]]、[[:en:HMS_Electra_(H27)|エレクトラ]]、[[ヴァンパイア (駆逐艦・初代)|ヴァンパイア]]であった。}}は同[[12月8日|8日]]夕刻に[[シンガポール]]を出撃し{{Sfn|戦史叢書80|1975|p=89}}、[[マレー半島]]の[[コタバル]]と[[ソンクラー県|シンゴラ]]へ向かう[[大日本帝国陸軍|日本陸軍部隊]]{{Efn|この部隊は[[第25軍 (日本軍)|第25軍]](司令官[[山下奉文]]中将)が指揮していた{{Sfn|別冊歴史読本(45)|2009|p=97}}{{Sfn|智将小沢治三郎|2017|pp=25-34|ps=全滅を賭したコタバル上陸作戦}}。12月8日早朝、同部隊はコタバル上陸作戦を敢行して成功した{{Sfn|戦史叢書80|1975|pp=83-84}}。}}を乗せた輸送船団の攻撃に向かった{{Sfn|ニミッツ|1962|p=28}}{{Sfn|聯合艦隊作戦室|1997|p=31|ps=(マレー沖海戦図)}}。これを馬来部隊(指揮官・小沢治三郎中将、南遣艦隊司令長官)率いる水上艦部隊と、[[サイゴン|サイゴン方面]]の飛行場に配備された基地航空部隊が迎え撃った{{Sfn|戦史叢書95|1976|pp=181-182|ps=馬来部隊}}。 |
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Z部隊は[[アナンバス諸島]]を迂回して、日本軍輸送船団の上陸地点シンゴラにむかった{{Sfn|戦史叢書80|1975|p=89}}。[[12月9日]]15時15分、日本軍の潜水艦[[伊号第百六十五潜水艦|伊65]]がZ部隊を発見した{{Sfn|智将小沢治三郎|2017|p=51}}。伊65は「敵[[レナウン級巡洋戦艦|レパルス型戦艦]]2隻見ゆ、地点コチサ11、針路340度、速力14ノット」と報告する{{Sfn|聯合艦隊作戦室|1997|pp=29a-30|ps=英戦艦出現}}{{Sfn|戦史叢書98|1979|pp=125-127|ps=マレー沖海戦}}。南方部隊は全水上部隊を集結させて翌朝決戦の意図を示した{{Sfn|戦史叢書80|1975|p=86}}。馬来部隊は重巡や水雷戦隊による夜戦の用意をおこないつつ{{Sfn|戦史叢書80|1975|p=86}}{{Sfn|巡洋艦戦記|2011|pp=260-261}}、麾下の第二十二航空戦隊(基地航空部隊)による夜間攻撃を試みた{{Sfn|聯合艦隊作戦室|1997|p=29b}}。Z部隊では情勢を検討し、21時45分に反転して帰途についた{{Sfn|戦史叢書80|1975|p=90}}。 |
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[[12月10日]]午前0時、陸攻は南遣艦隊旗艦の重巡[[鳥海 (重巡洋艦)|鳥海]](小沢中将旗艦)を英戦艦と間違えて照明弾を投下、夜間雷撃の準備にはいり、鳥海が敵味方識別を懸命に訴える一幕もあった{{Sfn|聯合艦隊作戦室|1997|p=29b}}{{Sfn|軍艦鳥海航海記|2018|p=40}}。この頃、潜水艦[[伊号第百五十八潜水艦|伊58]]がZ部隊の反転を確認して各方面に通報したが{{Sfn|智将小沢治三郎|2017|p=51}}、上級司令部までに届かなかった{{Sfn|戦史叢書98|1979|p=126}}。Z部隊では「日本軍がクワンタンに上陸中」との情報を入手し、同[[12月10日|10日]]午前2時20分に同地へむかったが日本軍と遭遇せず、反転してシンガポールにむかった{{Sfn|戦史叢書80|1975|p=90}}。 |
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[[Image:HMS Prince of Wales and HMS Repulse underway with a destroyer on 10 December 1941 (80-G-413520).jpg|thumb|right|マレー沖海戦で日本軍機の攻撃を受け回避行動を行うプリンス・オブ・ウェールズ(画面左前方)とレパルス(画面左後方)。]] |
[[Image:HMS Prince of Wales and HMS Repulse underway with a destroyer on 10 December 1941 (80-G-413520).jpg|thumb|right|マレー沖海戦で日本軍機の攻撃を受け回避行動を行うプリンス・オブ・ウェールズ(画面左前方)とレパルス(画面左後方)。]] |
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[[太平洋戦争]]開戦直後の[[1941年]][[12月10日]]、日本軍の上陸を阻止するため出撃したプリンス・オブ・ウェールズは[[大日本帝国海軍|日本海軍]]航空機([[九六式陸上攻撃機|九六式陸攻]]、[[一式陸上攻撃機|一式陸攻]])の雷撃及び爆撃により、僚艦のレパルスと共に[[マレー半島|マレー]]沖にて沈没した。 |
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第2波空襲開始早々 |
同[[12月10日|10日]]昼間、Z部隊は[[南シナ海]]において行われた'''マレー沖海戦'''で、[[九六式陸上攻撃機]]([[美幌海軍航空隊]]、[[元山海軍航空隊]])と[[鹿屋海軍航空隊]]{{Sfn|戦史叢書95|1976|p=179}}の[[一式陸上攻撃機]]の大部隊に襲撃された{{Sfn|戦史叢書95|1976|pp=227-229|ps=マレー方面航空作戦、マレー沖海戦}}{{Sfn|聯合艦隊作戦室|1997|pp=30-32|ps=マレー沖海戦}}。日本時間午前11時45分、[[帆足正音]]予備少尉が指揮する九六陸攻(索敵)がZ部隊を発見して通報した{{Sfn|智将小沢治三郎|2017|p=53}}。同機の誘導により、まず美幌空の九六式陸攻8機による水平爆撃からはじまり、レパルスに爆弾1発が命中して小破した{{Sfn|智将小沢治三郎|2017|p=53}}。続いて元山空の九六式陸攻の雷撃がはじまる{{Sfn|智将小沢治三郎|2017|p=53}}。第2波空襲開始早々、プリンス・オブ・ウェールズの推進軸付近に命中した[[魚雷]]により推進軸が捩れ曲がり、回転するタービン・シャフトの先端が隔壁を連打して破壊した<ref name="C13">Chesneau, p. 13</ref>。ウェールズはこの致命的な損傷により大浸水を生じ、同時に操舵不能となり、冠水により発電機が故障したため電力も落ちて後部にある4基の13.3cm連装両用砲と舵機が使用不能になった。速力が低下し、傾斜して両用砲の運用が困難になり、舵も効かなくなった同艦は第3次空襲で相次いで魚雷を受け、回避運動も対空射撃もままならなくなった。合計6本の魚雷と1発の500kg爆弾が命中した{{Sfn|智将小沢治三郎|2017|p=54}}。この間に魚雷推定4本~5本程度が命中したレパルスは{{Sfn|戦史叢書95|1976|p=229a}}、転覆して沈没した{{Sfn|智将小沢治三郎|2017|p=54}}。航行不能になっていたウェールズでは、13時15分に総員退去が命じられ、13時20分に転覆、沈没した<ref name="C13" />。日本軍記録では魚雷7本、500kg爆弾2発命中(英軍記録魚雷6本、爆弾1発)、日本時間14時50分沈没となっている{{Sfn|戦史叢書95|1976|p=229a}}。フィリップス中将と{{Sfn|智将小沢治三郎|2017|p=55}}、プリンス・オブ・ウェールズのリーチ艦長を含む数百人が艦と運命を共にした。日本側は雷撃50機、爆撃25機がZ部隊を攻撃し、3機を喪失した{{Sfn|戦史叢書80|1975|p=87}}。なお、プリンス・オブ・ウェールズとレパルスの戦死者が士官47名、兵793名と比較的少ないのは、日本軍の航空機が駆逐艦による救助作業を全く妨害しなかったためである<ref>『20世紀全記録 クロニック』[[小松左京]]、[[堺屋太一]]、[[立花隆]]企画委員。[[講談社]]、1987年9月21日、p613。</ref>。 |
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=== 影響 === |
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これ以前の空母艦載機による[[タラント空襲]]や、3日前に同じ日本軍の航空機によって行われた[[真珠湾攻撃]]では、「停泊中」の戦艦が航空攻撃により沈められ、サラミス湾空襲では作戦行動中の戦艦が航空攻撃で沈められたりしているが、これらは港に停泊中を奇襲され充分な対応ができないうちに被害を受けたり、旧式化した練習戦艦が被害を受けた結果であった。だが、マレー沖では充分な装備を持ち、万全の準備を行っていた「行動中」の新式戦艦が航空機の攻撃だけで撃沈された。対空砲多数を装備した新式戦艦でも航空機の攻撃には勝てない事が明らかとなった。 |
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マレー沖海戦以前にも、イギリス空母[[アーク・ロイヤル_(空母・初代)|アーク・ロイヤル]] (''{{lang|en|HMS Ark Royal, 91}}'') の[[フェアリー_ソードフィッシュ|ソードフィッシュ]]が雷撃でドイツ戦艦ビスマルクの舵を破壊し{{Sfn|巨大戦艦ビスマルク|2002|pp=287-303|ps=(27)致命的な一撃}}、同艦の撃沈に貢献した{{Sfn|ヒトラーの戦艦|2002|pp=225-227|ps=ソードフィッシュの雷撃}}{{Sfn|壮烈!ドイツ艦隊|1985|pp=127-130|ps=「ビスマルク」壮烈な最期}}。また空母[[イラストリアス_(空母・初代)|イラストリアス]] (''{{lang|en|HMS Illustrious, R87}}'') のソードフィッシュによる[[タラント空襲]]や{{Sfn|戦史叢書10|1967|p=143}}、3日前に南雲機動部隊の艦上機によって行われた[[真珠湾攻撃]]では、「停泊中」の戦艦が航空攻撃により沈められた{{Sfn|戦史叢書10|1967|pp=482a-484|ps=五 兵術思想に及ぼした影響}}。[[ギリシャ・イタリア戦争]]におけるサラミス湾空襲では戦艦[[キルキス (戦艦)|キルキス]] (''{{lang|en|[[ミシシッピ (BB-23)|Kilkis]]}}'') と{{仮リンク|レムノス (戦艦)|label=レムノス|en|Greek_battleship_Lemnos}} (''{{lang|en|[[アイダホ (BB-24)|Lemnos]]}}'') が[[Ju_87_(航空機)|Ju 87]]の[[急降下爆撃]]で沈められたりしているが、これらは港に停泊中を奇襲され充分な対応ができないうちに被害を受けたり、旧式化した練習戦艦が被害を受けた結果であった。だが、マレー沖では充分な装備を持ち、万全の準備を行っていた「行動中」の新式戦艦が航空機の攻撃だけで撃沈された{{Sfn|戦史叢書95|1976|pp=229b-230|ps=南西方面航空作戦戦果の評価と影響}}。戦前の予測では、新式戦艦を航空機で沈めるのは難しいとされていた{{Sfn|戦史叢書80|1975|p=88}}{{Sfn|戦史叢書95|1976|pp=193-194|ps=雷撃}}。だが航空機には勝てない事が明らかとなり{{Sfn|追悼山本五十六|2010|p=216}}、航空機の掩護がなければ艦船の行動や作戦実行がきわめて難しいことが認識された{{Sfn|戦史叢書80|1975|pp=117-119|ps=海軍傭兵思想への影響}}。ただし本海戦は戦艦側に上空警戒機が1機もなく{{Sfn|戦史叢書95|1976|pp=229c-230}}、このために陸攻の攻撃が成功したとする論調もあった{{Sfn|智将小沢治三郎|2017|p=55}}{{Sfn|戦史叢書10|1967|p=483}}{{Efn|1942年(昭和17年)2月20日の[[ニューギニア沖海戦]]では、空母[[レキシントン (空母)|レキシントン]]を攻撃した[[一式陸上攻撃機]]が直衛の[[F4F (航空機)|F4F戦闘機]]に迎撃され、全滅に近い損害をうけながら、全く戦果をあげられなかった{{Sfn|戦史叢書80|1975|pp=177-178|ps=ラバウル沖航空戦}}。}}。 |
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宇垣纒は「 極東艦隊司令長官旗艦として急遽回航せる計りの最新鋭艦も其の無暴なる行動に依り脆くも飛行機の為に海底の藻屑となる 」「 昨日来の経過は確に航空機の威力を確認せざるを得ず。嘗ては[[ビスマルク (戦艦)|ビスマーク]]を葬るに参加せる新鋭の本戦艦も案外防禦力薄弱にして、獨の復讐江戸の讐を長崎にて打ちたる格好となれり 」と感想を述べている{{Sfn|戦藻録|1968|pp=42-46}}。 |
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戦略的にも大きな意味があった{{Sfn|別冊歴史読本(45)|2009|pp=110-111|ps=(1941.12.10)マレー沖海戦/英首相チャーチルを苦悩させた新鋭戦艦の撃沈}}{{Sfn|戦史叢書80|1975|pp=121-123|ps=英国への影響}}。[[シンガポールの戦い|シンガポール占領]]を目指す日本軍にとって最大の障害と見られた東洋艦隊主力が壊滅したことは{{Sfn|ニミッツ|1962|p=30}}、マレー作戦をふくめた南方作戦全体の作戦展開に弾みをつけることになった{{Sfn|戦史叢書95|1976|pp=229c-230}}{{Sfn|聯合艦隊作戦室|1997|pp=32-37|ps=軌道に乗ったマレー作戦}}。プリンス・オブ・ウェールズの撃沈の報告を聞いたイギリスのチャーチル首相は絶句し「 戦争全体でその報告以上に私に直接的な衝撃を与えたことはなかった 」<!--In all of the war I have never received a more direct shock.-->と著書の『第二次世界大戦回顧録』で語っている{{Sfn|智将小沢治三郎|2017|p=55}}。また[[イギリスの議会|イギリス議会]][[庶民院_(イギリス)|下院]]で本艦喪失を報告した時には「 マレーとハワイにおいて与えられた喪失の重大性を過小評価してはならない。また我々を襲ってきた新たな敵の力をも。また絶対の勝利を収めるのに必要な大きな兵力を極東に創造し、整理し、盛り上げることに要する時間の長さも、過少評価してはならない 」と述べた{{Sfn|戦史叢書80|1975|p=122}}。 |
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宇垣連合艦隊参謀長は『極東艦隊司令長官旗艦として急遽回航せる計りの最新鋭艦も其の無暴なる行動に依り脆くも飛行機の為に海底の藻屑となる』『昨日来の経過は確に航空機の威力を確認せざるを得ず。嘗ては[[ビスマルク (戦艦)|ビスマーク]]を葬るに参加せる新鋭の本戦艦も案外防禦力薄弱にして、獨の復讐江戸の讐を長崎にて打ちたる格好となれり』と感想を述べている<ref name="戦藻録42"/>。 |
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プリンス・オブ・ウェールズ沈没のニュースに、日本は大いに沸いた{{Sfn|戦史叢書80|1975|p=113}}。各主要新聞はトップで報じ、[[大本営]]も[[12月10日]]午後4時5分の[[大本営発表|発表]]でイギリス東洋艦隊撃滅を報じ{{Sfn|ハワイ海戦、マレー沖海戦|1942|pp=30-31|ps=(原本36-38頁)}}、「無敵海軍」「海の荒鷲」を[[プロパガンダ|宣伝]]した{{Sfn|戦史叢書80|1975|p=113}}。[[参謀総長]]([[杉山元]]陸軍大将)から報告を受けた[[昭和天皇]]は「ソレハヨカッタ」と喜んでいる{{Sfn|高松宮日記第3巻|1995|pp=333-334}}。[[軍令部]]でも[[シャンパン]]で祝杯を挙げたという{{Sfn|高松宮日記第3巻|1995|pp=333-334}}。連合艦隊旗艦[[長門 (戦艦)|長門]]作戦室では「キングジョージ5世(ウェールズ)沈没」の速報が流れると歓声があがり{{Sfn|戦史叢書80|1975|p=87}}、普段は無表情な山本長官が非常に上機嫌であったという{{Sfn|追悼山本五十六|2010|p=216}}。山本は三和に「(ビール)10ダースでも15ダースでもいくらでも出そう」と笑顔で語った{{Sfn|智将小沢治三郎|2017|p=56}}。また翌日、プリンス・オブ・ウェールズを撃沈した航空隊員の1人である壱岐春記大尉は、搭乗機で現場を訪れる。命を落とした乗組員の鎮魂のために花束を投下した{{Sfn|無敵荒鷲魂|1942|p=78|ps=原本135頁}}。 |
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戦略的には、最大の障害と見られた東洋艦隊主力が壊滅したことは、日本軍のこの方面における作戦展開に非常に大きな意味があった<ref name="高松宮(3)333">[[#高松宮日記3巻]]333-334頁</ref>。 |
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プリンス・オブ・ウェールズの撃沈の報告を聞いたイギリスのチャーチル首相は絶句し「戦争全体でその報告以上に私に直接的な衝撃を与えたことはなかった」<!--In all of the war I have never received a more direct shock.-->と著書の第二次世界大戦回顧録で語っている。一方、[[参謀総長]]([[杉山元]]陸軍大将)から報告を受けた[[昭和天皇]]は「ソレハヨカッタ」と喜んでいる<ref name="高松宮(3)333"/>。[[軍令部]]でも[[シャンパン]]で祝杯を挙げたという<ref name="高松宮(3)333"/>。また翌日、プリンス・オブ・ウェールズを撃沈した航空隊員の1人である壱岐春記[[大尉]]は搭乗機で現場を訪れ、命を落とした乗組員の[[鎮魂]]のために花束を投下した。 |
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馬来部隊指揮官の小沢治三郎中将(南遣艦隊司令長官)は、旗艦鳥海に英戦艦2隻沈没とフィリップス提督戦死の報が届いた時、その死を悼んで静かに涙を流した{{Sfn|智将小沢治三郎|2017|pp=57-58}}。野村守軍医大佐(当時、南遣艦隊軍医長)によれば、休憩室の小沢をたずねて祝辞をのべたところ「自分もいつかは彼と同じ運命を辿らねばなるまい」と静かに答えたという{{Sfn|智将小沢治三郎|2017|pp=57-58}}。また「自分もいずれ、我々にも同じ運命がくる」と暗澹たる口調で呟いたという<ref>[[半藤一利]]編 『太平洋戦争 日本軍艦戦記』[[文藝春秋]][[文春文庫]]ビジュアル版、1985年 209頁「不運の英艦隊指揮官-トム・S・V・フィリップス」</ref>。 |
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== 海底のプリンス・オブ・ウェールズと違法サルベージ== |
== 海底のプリンス・オブ・ウェールズと違法サルベージ== |
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沈没地点 {{Coord|3|33|36|N|104|28|42|E}}は比較的浅い海(水深68m)であり、レパルスほどではないにしてもプリンス・オブ・ウェールズも比較的到達容易な水深に沈んでおり、晴天時には海面から船体が確認できるほどである。プリンス・オブ・ウェールズを海の藻屑とした宇垣参謀長は |
沈没地点 {{Coord|3|33|36|N|104|28|42|E}}は比較的浅い海(水深68m)であり、レパルスほどではないにしてもプリンス・オブ・ウェールズも比較的到達容易な水深に沈んでおり、晴天時には海面から船体が確認できるほどである。プリンス・オブ・ウェールズを海の藻屑とした宇垣参謀長は「否水深三〇米引揚は極めて容易、我戦艦籍に二隻を加ふるも近き事なるべく藻屑とならざるべし」として、プリンス・オブ・ウェールズとレパルスの浮揚および日本戦艦籍編入をねらっていたが、実現しなかった{{Sfn|戦藻録|1968|pp=42-46}}。[[軍令部]]でも引き揚げを狙い、サルベージの派遣手続きを取っている{{Sfn|高松宮日記第3巻|1995|pp=333-334}}。1942年(昭和17年)1月下旬、小沢長官は海防艦「[[占守 (海防艦)|占守]]」と第一掃海隊([[掃海艇]]部隊)に、ウェールズとレパルスの沈没位置を特定するよう命じた{{Sfn|日本海防艦戦史|1994|pp=22-23|ps=英戦艦をさがした海防艦}}。[[2月1日]]、占守はウェールズの位置を確認して[[浮標]]を設置した{{Sfn|日本海防艦戦史|1994|pp=22-23|ps=英戦艦をさがした海防艦}}。 |
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船体は完全に転覆した状態で沈んでおり、舷側には大小4箇所の破損穴が海底調査で発見されている。船首部の破損穴は完全に貫通している。また右舷外側スクリューシャフト基部の破損穴は500キロ爆弾の爆発によって生じた可能性があると海底調査では記載されている。海底調査は2回実施されており、最近の調査では破損穴の1つが土砂で埋まっており観察できない状態になっていることが報告された。沈没時に弾薬庫の誘爆がなかったので、船体には大きな損傷は認められていない。 |
ウェールズの船体は完全に転覆した状態で沈んでおり、舷側には大小4箇所の破損穴が海底調査で発見されている。船首部の破損穴は完全に貫通している。また右舷外側スクリューシャフト基部の破損穴は500キロ爆弾の爆発によって生じた可能性があると海底調査では記載されている。海底調査は2回実施されており、最近の調査では破損穴の1つが土砂で埋まっており観察できない状態になっていることが報告された。沈没時に弾薬庫の誘爆がなかったので、船体には大きな損傷は認められていない。 |
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日本軍の戦闘報告では魚雷命中数は6本以上となっているが、海底調査での破孔の数との乖離は、爆弾の至近弾の見間違いや同一命中を複数カウントされているためで、ドイツの戦艦ビスマルクの船体調査でも同じ事が報告されている。 |
日本軍の戦闘報告では魚雷命中数は6本以上となっているが、海底調査での破孔の数との乖離は、爆弾の至近弾の見間違いや同一命中を複数カウントされているためで、ドイツの戦艦ビスマルクの船体調査でも同じ事が報告されている。 |
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2014年に中国の違法サルベージ業者によりレパルスと共に破壊行為を受けていることが報じられ、作業を行っていた船員が拘束された。爆発物を船体に取り付けて破壊し、破片をクレーン船で引き上げるという手法で鉄屑が回収されていた<ref>[https://www.independent.co.uk/news/uk/home-news/british-warships-plundered-scrap-metal-chinese-pirates-second-world-war-a8498026.html UK to investigate claims that wrecks of British warships being plundered for scrap metal by Chinese pirates]Independent.co.uk 2018年8月19日</ref> |
2014年に中国の違法サルベージ業者によりレパルスと共に破壊行為を受けていることが報じられ、作業を行っていた船員が拘束された。爆発物を船体に取り付けて破壊し、破片をクレーン船で引き上げるという手法で鉄屑が回収されていた<ref>[https://www.independent.co.uk/news/uk/home-news/british-warships-plundered-scrap-metal-chinese-pirates-second-world-war-a8498026.html UK to investigate claims that wrecks of British warships being plundered for scrap metal by Chinese pirates]Independent.co.uk 2018年8月19日</ref>。 |
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== ギャラリー == |
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== 登場作品 == |
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; 映画『[[ビスマルク号を撃沈せよ!]]』 |
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: デンマーク海峡海戦で艦橋被弾時に負傷{{Sfn|ビスマルクの最期|1982|p=153}}、一時的に視力をうしなった[[:en:Esmond_Knight|エズモンド・ナイト]]が{{Sfn|巨大戦艦ビスマルク|2002|p=190}}、プリンス・オブ・ウェールズの[[:en:John Leach (Royal Navy officer)|ジョン・リーチ]]艦長役として出演する。 |
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; 映画『[[ハワイ・マレー沖海戦]]』 |
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: マレー沖海戦での本艦沈没シーンが、本作戦のクライマックスとなった。 |
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== 出典 == |
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=== 注釈 === |
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* {{Cite book|和書|author=[[宇垣纏]]著|coauthors=[[成瀬恭]]発行人|year=1968||month=1|title=戦藻録 {{small|明治百年史叢書}}|publisher=原書房|isbn=|ref=戦藻録(1968)}} |
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{{Notelist}} |
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* {{Cite book|和書|author=[[高松宮宣仁親王]]著|coauthors=[[嶋中鵬二]]発行人|title=高松宮日記 第3巻 {{small|昭和十五年~十六年}}|publisher=中央公論社|year=1995|month=11|ISBN=4-12-403393-1|ref=高松宮日記3巻}} |
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=== 脚注 === |
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{{reflist|2}} |
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== 参考図書 == |
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<!-- ウィキペディア推奨スタイル、著者五十音順 --> |
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* <!-- イケダ2002 -->{{Cite book|和書|author=[[池田清]]|coauthors=|date=2002-01|origyear=1986|title=重巡摩耶 {{small|元乗組員が綴る栄光の軌跡}}|publisher=学習研究社|series=学研M文庫|isbn=4-05-901110-X|ref={{SfnRef|重巡摩耶|2002}}}} |
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* <!-- ウガキ1968 -->{{Cite book|和書|author=[[宇垣纏]]著|coauthors=[[成瀬恭]]発行人|date=1968-01|title=戦藻録 {{small|明治百年史叢書}}|publisher=原書房|isbn=|ref={{SfnRef|戦藻録|1968}}}} |
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* <!-- オイデ2017 -->{{Cite book|和書|author=生出寿|chapter=|title=智将小沢治三郎 {{small|沈黙の提督 その戦術と人格}}|publisher=潮書房光人社|series=光人社NF文庫|date=2017-07|origyear=1988|ISBN=978-4-7698-3017-7|ref={{SfnRef|智将小沢治三郎|2017}}}} |
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* <!-- キマタ1994 -->{{Cite book|和書|author=木俣滋郎|title=日本海防艦戦史|chapter=|publisher=図書出版社|date=1994-09|series=|isbn=4-8099-0192-0|ref={{SfnRef|日本海防艦戦史|1994}}}} |
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* <!-- キマタ2004 -->{{Cite book|和書|author=木俣滋郎|chapter=(10)グリーンランド沖の大捕物|title=大西洋・地中海の戦い {{small|ヨーロッパ列強戦史}}|publisher=光人社|series=光人社NF文庫|date=2004-02|origyear=1986|ISBN=978-4-7698-3017-7|ref={{SfnRef|木俣、大西洋・地中海|2004}}}} |
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* <!-- グレイ2002 -->{{Cite book|和書|author1=エドウィン・グレイ 著|author2=都島惟男 訳|date=2002-04|title=ヒトラーの戦艦 {{smaller|ドイツ戦艦7隻の栄光と悲劇}}|publisher=光人社|series=光人社NF文庫|isbn=4-7698-2341-X|ref={{SfnRef|ヒトラーの戦艦|2002}}}} |
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* <!-- ケネディ1982 -->{{Cite book|和書|author1=ルードヴィック・ケネディ 著|author2=内藤一郎 訳|coauthors=|date=1982-09|chapter=|title=戦艦ビスマルクの最期|publisher=早川書房|series=ハヤカワ文庫|isbn=4-15-050082-7|ref={{SfnRef|ビスマルクの最期|1982}}}} |
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* <!-- コイタバシ2008 -->{{Cite book|和書|author=小板橋孝策|date=2008-02|title=「愛宕」奮戦記 {{small|旗艦乗組員の見たソロモン海戦}}|publisher=光人社 |series=光人社NF文庫|isbn=978-4-7698-2560-9|ref={{SfnRef|愛宕奮戦記|2008}}}} |
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* <!-- セカイ増67集 -->世界の艦船増刊第67集 |
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* <!-- スギモト2010 -->{{Cite book|和書|author=杉本惇|date=2010-06|title=追悼 山本五十六 {{small|海軍機関誌の「追悼号」が伝える在りし日の山本元帥の姿……。直近の人々が語る貴重な証言集!}}|chapter=山本元帥の思い出 {{small|海軍大佐}} 三和義勇|publisher=新人物往来社|isbn=978-4-404-03867-8|ref={{SfnRef|追悼山本五十六|2010}}}} |
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* <!-- タカマツミヤ3巻 -->{{Cite book|和書|author=[[高松宮宣仁親王]]著|coauthors=[[嶋中鵬二]]発行人|title=高松宮日記 第3巻 {{small|昭和十五年~十六年}}|publisher=中央公論社|date=1995-11|ISBN=4-12-403393-1|ref={{SfnRef|高松宮日記第3巻|1995}}}} |
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* <!-- ナガイヨシユキ、キマタジロウ -->{{Cite book|和書|author1=永井喜之|author2=木俣滋郎|date=1988-10|chapter=第2部 第二次大戦/外国編/7.イギリス巡洋戦艦「フッド」|title=撃沈戦記|publisher=朝日ソノラマ|series=文庫版新戦史シリーズ|isbn=4-257-17208-8|ref={{SfnRef|撃沈戦記|1988}}}} |
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* <!-- ナカジマ1997 -->{{Cite book|和書|author=[[中島親孝]]|date=1997-10|title=聯合艦隊作戦室から見た太平洋戦争 参謀が描く聯合艦隊興亡記|chapter=第一章 万里の波濤〈第二艦隊参謀時代(一)〉|publisher=光人社|series=光人社NF文庫|isbn=4-7698-2175-1|ref={{SfnRef|聯合艦隊作戦室|1997}}}} |
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* <!-- ニミッツ1962 -->{{Cite book|和書|author1=[[チェスター・ニミッツ]]|author2=E・B・ポッター|coauthors=[[実松譲]]・富永謙吾 訳|date=1962-12|title=ニミッツの太平洋海戦史|publisher=恒文社|isbn=|ref={{SfnRef|ニミッツ|1962}}}} |
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* <!-- ハンブル1985 -->{{Cite book|和書|author1=リチャード・ハンブル 著|author2=実松譲 訳|title=壮烈!ドイツ艦隊 {{small|悲劇の戦艦「ビスマルク」}}|publisher=サンケイ出版|series=第二次世界大戦文庫(26)|date=1985-12|isbn=4-383-02445-9|ref={{SfnRef|壮烈!ドイツ艦隊|1985}}}} |
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* <!-- ヒラマ2018 -->{{Cite book|和書|author=平間源之助 著|editor=平間洋一 編|date=2018-12|chapter=|title=軍艦「鳥海」航海記 {{smaller|平間兵曹長の日記 昭和16~17年}}|publisher=イカロス出版|series=|isbn=978-4-8022-0634-1|ref={{SfnRef|軍艦鳥海航海記|2018}}}} |
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* <!-- フクイ1992-05 -->{{Cite book|和書|author=[[福井静夫]]|editor=阿部安雄、戸高一成編|date=1992-08|title=<small>福井静夫著作集 ― 軍艦七十五年回想</small>第二巻 日本戦艦物語〔Ⅱ〕|chapter=|publisher=[[光人社]]|isbn=4-7698-0608-6|ref={{SfnRef|福井、日本戦艦物語(II)|1992}}}} |
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* <!-- ホウエイチョウ10 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 ハワイ作戦|volume=第10巻|date=1967-12|publisher=朝雲新聞社|isbn=|ref={{SfnRef|戦史叢書10|1967}}}} |
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* <!--ホウエイチョウ80 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 大本營海軍部・聯合艦隊<2> {{small|―昭和17年6月まで―}}|volume=第80巻|date=1975-02|publisher=朝雲新聞社|ref={{SfnRef|戦史叢書80|1975}}}} |
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* <!--ホウエイチョウ95 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 海軍航空概史|volume=第95巻|date=1976-03|publisher=朝雲新聞社|ref={{SfnRef|戦史叢書95|1976}}}} |
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* <!--ホウエイチョウ98 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 潜水艦史|volume=第98巻|date=1979-06|publisher=朝雲新聞社|ref={{SfnRef|戦史叢書98|1979}}}} |
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* <!--マル2011 -->{{Cite book|和書|author=「丸」編集部編|date=2011-08|chapter=重巡「最上」出撃せよ {{small|ミッドウェーの惨劇を艦長が吐露する痛恨の手記 ― 曾爾章}}|title=巡洋艦戦記 重巡「最上」出撃せよ|publisher=光人社|series=光人社NF文庫|origyear=1990|ISBN=978-4-7698-2700-9|ref={{SfnRef|巡洋艦戦記|2011}}}} |
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* <!-- ミノ1993 -->{{Cite book|和書|author1=三野正洋|author2=|date=1993-06|chapter=第三期/一九四一年七月から十二月まで|title=地中海の戦い|publisher=朝日ソノラマ|series=文庫版新戦史シリーズ|isbn=4-257-17254-1|ref={{SfnRef|地中海の戦い|1993}}}} |
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* <!-- ミュレンハイム2002 -->{{Cite book|和書|author1=ブルカルト・フォン・ミュレンハイム=レッヒベルク 著|author2=佐和誠 訳|coauthors=|date=2002-07|chapter=|title=巨大戦艦ビスマルク {{small|独・英艦隊、最後の大海戦}}|publisher=早川書房|series=ハヤカワ文庫|isbn=4-15-050269-2|ref={{SfnRef|巨大戦艦ビスマルク|2002}}}} |
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* <!-- レキシドクホン -->{{Cite book|和書|editor=佐藤實|date=2009-08|chapter=|title=未公開写真で初めてわかる大東亜戦争 {{smaller|秘蔵アルバムでよみがえる英霊たちの勇姿}}|publisher=新人物往来社|series=別冊歴史読本45|isbn=978-4-404-03645-2|ref={{SfnRef|別冊歴史読本(45)|2009}}}} |
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<!-- 日本語文献優先 --> |
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* Barnett, Correlli. ''Engage the enemy more closely: the Royal Navy in the Second World War''. New York: W.W. Norton, 1991. ISBN 0-39302-918-2 |
* Barnett, Correlli. ''Engage the enemy more closely: the Royal Navy in the Second World War''. New York: W.W. Norton, 1991. ISBN 0-39302-918-2 |
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* Chesneau, Roger, ed (1980). ''Conway's All the World's Fighting Ships 1922-1946''. Greenwhich: Conway Maritime Press. ISBN 0-85177-146-7. |
* Chesneau, Roger, ed (1980). ''Conway's All the World's Fighting Ships 1922-1946''. Greenwhich: Conway Maritime Press. ISBN 0-85177-146-7. |
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* Garzke, William H., Jr.; Dulin, Robert O., Jr. (1980). ''British, Soviet, French, and Dutch Battleships of World War II''. London: Jane's. ISBN 0-7106-0078-X |
* Garzke, William H., Jr.; Dulin, Robert O., Jr. (1980). ''British, Soviet, French, and Dutch Battleships of World War II''. London: Jane's. ISBN 0-7106-0078-X |
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* Jack Greene and Alessandro, ''The Naval War in the Miditerranean 1940-1943'', Chatham Publishing, 1998, ISBN 1-86176-190-2 |
* Jack Greene and Alessandro, ''The Naval War in the Miditerranean 1940-1943'', Chatham Publishing, 1998, ISBN 1-86176-190-2 |
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*世界の艦船増刊第67集 |
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*[http://dl.ndl.go.jp/ 国立国会図書館デジタルコレクション] - [[国立国会図書館]] |
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== 関連項目 == |
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*[[ルダン島]] - プリンス・オブ・ウェールズが沈む海域近くの島。[[ダイビング]]で見ることができる。 |
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*[[第二次世界大戦中のイギリス海軍の喪失艦一覧]] |
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== 外部リンク == |
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{{Commons|HMS Prince of Wales}} |
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* [http://www.maritimequest.com/warship_directory/great_britain/battleships/prince_of_wales/hms_prince_of_wales.htm Maritimequest HMS Prince of Wales Photo Gallery] |
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* [http://www.pacificwrecks.com/ships/hms/prince_of_wales.html HMS Prince of Wales (53)] |
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2021年4月20日 (火) 04:31時点における版
プリンス・オブ・ウェールズ | |
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プリンス・オブ・ウェールズ | |
基本情報 | |
建造所 | キャメル・レアード社バーケンヘッド造船所 |
運用者 | イギリス海軍 |
級名 | キング・ジョージ5世級戦艦 |
愛称 | PoW |
モットー | 独:"Ich Dirn"/英:"I serve" |
艦歴 | |
起工 | 1937年1月1日 |
進水 | 1939年3月3日 |
竣工 | 1941年3月31日 |
就役 | 1941年1月19日 |
最期 | 1941年12月10日、マレー沖海戦にて戦没。 |
要目 | |
基準排水量 | 36,772 トン |
満載排水量 | 43,786 トン |
全長 | 227.1 m (745 ft) |
水線長 | 225.6 m (740 ft) |
最大幅 | 31.4 m (103 ft) |
吃水 | 10.8 m (35 ft) |
主缶 | 海軍式三胴型重油専焼水管缶×8基 |
主機 | パーソンズ式オール・ギヤードタービン×4基 |
出力 | 125,000 馬力 |
推進器 | スクリュープロペラ×4軸 |
最大速力 | 28ノット (52 km/h) |
航続距離 | 3,100海里 (5,700 km)/27ノット |
乗員 | 1,521名 |
兵装 |
|
装甲 | |
搭載機 | スーパーマリン ウォーラス×4機 |
レーダー |
プリンス・オブ・ウェールズ (HMS Prince of Wales) は、イギリス海軍の戦艦[注釈 1]。キング・ジョージ5世級の2番艦[注釈 2]。艦名は当時の国王ジョージ6世の兄王であるエドワード8世の即位前の称号、王太子(プリンス・オブ・ウェールズ)に由来する。
概要
1937年1月初頭に建造を開始[3]。1941年1月に竣工後、本国艦隊に所属。訓練未了で工事続行中の5月中旬[4]、ビスマルク迎撃作戦に投入される[5]。ランスロット・ホランド中将の指揮下で行動中の5月24日朝、巡洋戦艦フッド (HMS Hood) と共に、ドイツ海軍の新鋭戦艦ビスマルク (Bismarck) および重巡プリンツ・オイゲン (Prinz Eugen) と砲撃戦をおこなう[6](デンマーク海峡海戦)[7]。ビスマルクの砲撃でフッドが轟沈し、ウェールズも艦橋に被弾して避退した[注釈 3]。 その後はフレデリック・ウェイク・ウォーカー少将(旗艦ノーフォーク)の指揮下でビスマルクを追撃するが[10][11]、ウェールズは燃料不足で戦場を離脱した[12][13][14]。
修理後のプリンス・オブ・ウェールズは、首相ウィンストン・チャーチルを乗せて大西洋を横断し、カナダのニューファンドランド島に移動、そこでアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトが乗艦する。会談の結果、8月12日に本艦艦上で大西洋憲章が締結された[注釈 4]。 9月、地中海戦線に投入され、マルタ輸送作戦で活躍した(ハルバード作戦)。10月、極東情勢の悪化にともない東洋艦隊に編入されてシンガポールに移動する[16][17]。
太平洋戦争開戦直後の12月10日、日本軍のマレー作戦を阻止するためマレー半島沖合を行動中のZ部隊[注釈 5]を、馬来部隊[注釈 6]麾下の日本海軍陸上攻撃機が襲撃する[19]。このマレー沖海戦で[20]、プリンス・オブ・ウェールズは魚雷と爆弾多数を受けて沈没した[注釈 7][注釈 8]。 本艦沈没時に[23]、東洋艦隊司令長官トーマス・フィリップス大将と艦長ジョン・リーチ大佐も戦死した[24][注釈 9]。
艦名の由来
イングランドには伝統的に国王が即位後の最初の戦艦には、国王の名前を付ける慣習があった。当時の国王はジョージ6世であったために、当然同級の1番艦はキング・ジョージ6世となるべきであった。しかし父のジョージ5世の治世の間はワシントン軍縮条約によって戦艦が建造されなかった。また先王である兄エドワード8世は世紀のスキャンダルといわれた王冠を賭けた恋により自ら退位しており、短い治世の間にその名を付けた戦艦は建造されなかった。そこで、父王の名前が1番艦に名づけられキング・ジョージ5世となり、兄王はジョージ5世時代の称号である王太子プリンス・オブ・ウェールズとして2番艦に命名された。ジョージ6世自らの名前は、即位前の称号であるヨーク公爵として3番艦デューク・オブ・ヨークに残されている。
艦歴
ビスマルク戦
プリンス・オブ・ウェールズはキャメル・レアード社バーケンヘッド造船所にてワシントン海軍軍縮条約明け直後の1937年1月2日に建造を開始、1939年5月3日に進水した。艤装途中の1940年8月にはドイツ空軍の攻撃を受けた。1941年1月19日に艦長ジョン・リーチ大佐の指揮下で就役したが、3月31日まで完成しなかった。なお俳優のエズモンド・ナイトが砲術士官(予備士官)としてウェールズに配属されていた[26][27]。
プリンス・オブ・ウェールズはチャーチル首相のお気に入りであり、就役直後は彼に「世界最強」と言わしめた戦艦であったが、完成が遅れ十分な訓練が出来ないまま第二次世界大戦に投入されることになる。
5月、ドイツ海軍 (Kriegsmarine) は戦艦や重巡洋艦による通商破壊を目論んでライン演習作戦を発動した[28][29]。その頃のプリンス・オブ・ウェールズは乗員の慣熟訓練が未了であり[4]、また主砲の故障等の問題を抱えていた[30][31]。艦内では、ヴィッカース・アームストロング社の民間人工員が工事を続けていた[32]。
5月20日昼すぎ[33]、スウェーデン海軍の航空巡洋艦ゴトランド (HMS Gotland) がカテガット海峡でドイツ海軍の戦艦ビスマルク (Bismarck) および護衛部隊と遭遇し、本国に連絡する[34]。その情報は、ただちにイギリスに伝えられた[35][36]。イギリス軍は航空哨戒を厳重におこない[37]、21日にノルウェー南西部ベルゲン南方のグリムスター・フィヨルドで、ギュンター・リュッチェンス中将が指揮する戦艦ビスマルクと重巡プリンツ・オイゲン (Prinz Eugen) を発見した[38][39]。オークニー諸島スカパ・フロー所在の本国艦隊司令長官ジョン・トーヴィー大将はいくつかの対応策を指示しており[40][41]、その一環として本国艦隊の主力艦艇を二つに分割した[注釈 10]。 本国艦隊副司令長官/巡洋戦艦戦隊司令官ランスロット・ホランド中将に対しては、巡洋戦艦フッド、新鋭戦艦プリンス・オブ・ウェールズ、駆逐艦6隻[注釈 11]を引き連れ、ビスマルク部隊を捕捉するためにアイスランド方面に進出するよう命じた[38]。
5月21日深夜、フッド(ホランド中将旗艦)とプリンス・オブ・ウェールズは、本国艦隊旗艦キング・ジョージ5世 (HMS King George V) に見送られてスカパ・フローを出発した[45]。5月23日夜、デンマーク海峡を哨戒中の重巡2隻からビスマルク部隊発見の通報をうけたホランド戦隊は、駆逐艦を残して進撃した[注釈 12]。
5月24日朝、アイスランド近海の大西洋上において[50]、ホランド戦隊(フッド、ウェールズ)はリュッチェンス部隊(ビスマルク、プリンツ・オイゲン)を発見し、砲撃戦を開始した[51](デンマーク海峡海戦/アイスランド沖海戦)[52]。ドイツ側は、先頭艦がプリンツ・オイゲン、後方にビスマルクが航行していた[53]。フッドは先頭をすすむプリンツ・オイゲンをビスマルクと間違えて砲撃し[54]、プリンス・オブ・ウェールズはビスマルクを狙ったので[5]、ホランド戦隊の砲火は分散してしまった[55]。ドイツ側は2隻ともフッドを目標にして砲撃を開始した[56]。なおリュッチェンス部隊の後方には重巡洋艦ノーフォーク (HMS Norfolk, 78) とサフォーク (HMS Suffolk, 55) とが追走しており[55]、戦艦同士の砲撃戦の最中も時折ビスマルクにむけて砲撃していたが、遠距離砲撃のため命中しなかった[注釈 13]。
砲戦開始から10分も経過しないうちに[59]、ビスマルクの第五斉射がフッドの第二煙突と後部マストの中間に命中した[60]。フッドは轟沈し、プリンス・オブ・ウェールズ乗組員に衝撃を与えた[注釈 14]。 ウェールズはフッドの残骸を回避するため右に舵をとり、プリンツ・オイゲンとビスマルクに近づくことになった[62]。しかもフッドとほぼ同じ航跡だったため、ドイツ側は照準を修正せず効果的な射撃をおこなうことができた[63]。ウェールズの艦橋にビスマルクの主砲弾が命中し、艦橋乗組員のうち3名(リーチ艦長、掌信号長、航海科士官1名)以外は全員戦死した[64]。艦橋下部の航跡記録係士官は、伝声管から血がしたたり落ちてきて、被弾と惨事に気付いたという[64]。この海戦でウェールズに命中した弾丸は、ビスマルクの15インチ砲弾4発、オイゲンの8インチ砲弾3発であった[65]。航海長[66]を含む士官2名、下士官11名が戦死、士官1名と下士官兵8名が負傷する[67]。羅針艦橋、レーダー操作室、艦載機揚収クレーン、副砲4門と方位盤、短艇と艦載機が破壊されたり損傷をうけた[68]。吃水線下への命中弾では、400トンの浸水被害が生じた[65]。さらに砲戦中のウェールズの主砲が次々に故障した[69]。トーヴィー戦隊(キング・ジョージ5世、レパルス、ヴィクトリアス)が南東400マイルまで来ているの知ったリーチ艦長は退避を決断する[69]。ウェールズは、プリンツ・オイゲンの魚雷の射程に入る直前に転舵し、リュッチェンス部隊と距離をとった[68]。砲戦開始から21分が経過していたという[67]。ビスマルクの艦長エルンスト・リンデマン大佐はプリンス・オブ・ウェールズを追撃して撃沈することを望んだが、リュッチェンス提督は通商破壊作戦やトーヴィー戦隊の接近などを総合的に判断し、手負いのウェールズを見逃した[70]。午前6時32分、リュッチェンス提督は上級司令部に「巡洋戦艦1、おそらくフッドを撃沈。帯同の戦艦キング・ジョージ五世もしくはレナウンは損傷を負って逃走。2隻の重巡はなお触接を維持」と報告した[71]。
デンマーク海峡海戦で、プリンス・オブ・ウェールズは主砲の故障に悩まされた[65]。最初の斉射を放った直後にA(1番)砲塔が故障したが、第3射がビスマルクの燃料タンクとボイラー室に損害を与えた[72]。総合すると、ビスマルクに14インチ主砲弾3発、プリンツ・オイゲンに14インチ主砲弾1発(不発)を命中させた[注釈 15]。ウェールズがビスマルクに与えた損害は、予想以上に大きかった[75]。艦中央部に命中した1発は、不発だった[73]。2発目は重要区画に飛び込み、2番ボイラー室でボイラー2基を使用不能にし、乗組員5名が負傷した[73]。艦首左舷水線部に命中した1発(不発)は、燃料タンク2つを貫通し、燃料供給弁も壊した[76]。ビスマルクは1,000トンあまりの燃料を使えなくなり、作戦行動に支障をきたすようになった[77]。さらに艦前部への浸水で前方に2度乃至3度、左に9度傾斜し、バランスをとるために艦尾区画に注水しなければならなかった[78]。速度は最大で28ノットに低下し、壊れた燃料タンクから油の尾をひくようになった[79]。ドックに入って修理しないかぎり、長期の作戦行動をとれなくなったのである[80]。リュッチェンス提督はプリンツ・オイゲンのみに通商破壊作戦を続行させ、ビスマルクをフランス西部の基地に帰投させる決断を下した[81]。
ビスマルク尾行を続けるウェイク・ウォーカー少将は、フッド生存者の捜索を駆逐艦にまかせ、ひきつづき重巡2隻を率いて追跡を続けた[82]。損傷したプリンス・オブ・ウェールズはウォーカー少将の指揮下に入り[83]、重巡2隻と合流してビスマルク追跡任務に従事した[12][11]。ビスマルクの方も、しつこいウォーカー戦隊3隻(ノーフォーク〈旗艦〉、サフォーク、ウェールズ)をビスマルクの護衛艦とみなすことにしたという[84]。5月24日午後、チャーチルと、海軍本部のダドリー・パウンド元帥(第一海軍卿)は、ウォーカー戦隊がビスマルクの随伴部隊と化したことを憂慮していた[85]。パウンドは「プリンス・オブ・ウェールズをして戦闘再開せしむることに関し、如何に考慮しありや?」と打電した[86]。事実上の叱責であり、ウォーカー少将はビスマルクに砲戦を挑む決意を固めた[87]。リュッチェンス部隊では、プリンツ・オイゲンが通商破壊作戦続行のために分離し、ビスマルク単艦となった[88][89]。ウォーカー戦隊3隻は再びビスマルクと砲火を交え、プリンス・オブ・ウェールズは12斉射をおこなったところで前部の主砲2門が動作不能となり射撃を中止した[90]。距離28,000以上の遠距離砲戦で、砲撃条件も悪かった[91]。ビスマルクも散発的に主砲で応戦した程度で、双方とも命中弾を得なかった[注釈 16]。 つづいてイギリス空母ヴィクトリアス (HMS Victorious, R38) のソードフィッシュ9機がビスマルクに雷撃を敢行し[93][94]、魚雷1本を命中させたが損害軽微であった[95][96]。空襲から約1時間後、プリンス・オブ・ウェールズは距離15,000メートル彼方のビスマルクにむけて主砲2斉射をはなち、ビスマルクも主砲の斉射で応戦した[97]。命中弾のない砲撃戦は短時間で終わり、ウェールズはビスマルクと距離をとった[98]。
またビスマルク追跡中に、イギリス輸送船団遭難者の救助をおこなっていたアメリカ合衆国沿岸警備隊の監視船モウドック(1,800トン)と遭遇したウォーカー戦隊は、これをビスマルクと誤認して沈めようとした[99]。そうこうしているうちに、ウォーカー戦隊はビスマルクを見失った[100][101][102]。プリンス・オブ・ウェールズは、燃料不足になって離脱した巡洋戦艦レパルスの代艦として、トーヴィー長官の指揮下に入った[103][104]。だがウェールズやヴィクトリアスも燃料不足となり[12]、5月25日に補給のためアイスランドにむかった[105]。その後、本国のロサイスに戻ったプリンス・オブ・ウェールズは6週間に渡る修理を行った。
地中海の戦い
プリンス・オブ・ウェールズは大西洋を渡りカナダへ移動、チャーチルら一行を乗せてニューファンドランド・ラブラドール州プラセンティア湾のアルゼンチア海軍基地に到着、8月10日からアメリカ大統領ルーズベルトとの会談が始まる[注釈 17]。12日、プリンス・オブ・ウェールズの艦上で大西洋憲章が締結された。
9月、プリンス・オブ・ウェールズは地中海戦線に投入される。クレタ島撤退作戦後、イベリア半島南東部ジブラルタルを拠点とするH部隊 (Force H) を増強するため、本艦とネルソン級戦艦2隻(ネルソン、ロドニー)などが地中海に派遣された[106]。9月下旬、ジブラルタルからマルタへの増援船団を護衛するハルバード作戦に参加した[107]。イタリア海軍の新鋭戦艦2隻(リットリオ、ヴィットリオ・ヴェネト)などが出撃したが、戦艦同士の砲撃戦は起きなかった。輸送作戦は成功した[108]。この作戦中、プリンス・オブ・ウェールズは味方のフルマー戦闘機を2機撃墜してしまっている[107]。
東洋艦隊派遣
10月25日にチャーチル首相の強い要請で、今後予想される日本軍南下の抑止力として、プリンス・オブ・ウェールズのインド洋への派遣が決まった[16]。パウンド元帥は、自分を補佐していたトーマス・フィリップス中将にこの部隊の指揮をとらせた[16][注釈 18]。さらに支那方面艦隊を解隊して東洋艦隊に統合することにした[注釈 19]。東洋艦隊がこのような最新戦艦を持つことは前例がなく、ドイツとヨーロッパで戦争遂行中に、日本と開戦間近と見られていたとはいえ主力艦を東洋に回航したのは相当な意味があった。チャーチル首相とイギリス軍は、プリンス・オブ・ウェールズ及びレパルスにより、イギリスの植民地であるマレー半島やオーストラリア、さらには当時イギリス軍が制海権を持っていたインド洋への日本軍の侵攻を阻止または断念させる事を目的としていたのである[16]。その観測の根拠はそれほど的外れなものではなかった。チャーチル首相はビスマルク1隻にイギリス海軍が翻弄され、さらに姉妹艦ティルピッツ1隻が大きな戦略上の障害になっていることを説いた[109] 。
プリンス・オブ・ウェールズは11月28日セイロン島コロンボに到着し[110]、12月2日には巡洋戦艦レパルスと共にマレー半島南端に位置するシンガポールに到着した[111]。ここはイギリスの植民地であり、同時にイギリス軍の重大拠点でもあった[112]。マレー半島防衛のためにイギリス極東軍(司令長官ロバート・ブルック・ポッファム大将)が準備していた計画をマタドール作戦と呼ぶ[113]。ウェールズは東洋艦隊の旗艦としてフィリップス大将の指揮下に入り、有事の際はフィリピンをのぞく東洋連合軍海軍を統一指揮することになっていた[114]。なお空母インドミタブル (HMS Indomitable, 92) が合流する予定であったが[115]、ジャマイカを出港直後に座礁したため合流できなかった[116]。それに代わる空母ハーミーズ (HMS Hermes, 95) も速力が足らず配備されなかった[117]。そして、他の空母を欧州戦線や地中海戦線から引き抜き、極東に派遣できる余裕はなかった[115]。
太平洋戦争開戦直前の時点における英国は、プリンス・オブ・ウェールズを世界最強とみなしていた[118]。日本海軍が有する長門型を含め、対抗できる日本側の戦艦戦力は存在しないとされていた。日本海軍が新世代戦艦を建造していることは列強各国にも知られていたが、その性能は16インチ砲9門ないし10門、基準排水量40,000~42,000トン、速力27-30ノットという推定であった[119][注釈 20]。日本軍の陸上部隊の輸送には対抗上、戦艦の護衛が必須と思われ、これを調達出来ない日本軍はマレー半島での作戦遂行が著しく困難になる筈と考えられていた。 何よりも当時の常識では、行動中の新式戦艦が航空機に撃沈された事例は無かった[122][注釈 21]。 さらに、イギリス軍は日本軍機の性能を過小評価していた[118]。対峙する日本海軍においても、その航空戦力発展に大きく寄与してきた連合艦隊司令長官山本五十六大将でさえ[124]、1941年(昭和16年)12月10日朝の旗艦長門において三和義勇連合艦隊参謀に「リナウンもキングジョージもやれるかな。リナウンは撃沈できるがキングジョージは大破だろう」と声をかけた[125][注釈 22]。山本と三和は、イギリス新鋭戦艦を撃沈できるかどうかにビールを賭けた[127][注釈 23]。
イギリス軍が東洋艦隊に最新鋭戦艦と高速戦艦を配備したという情報は日本軍の作戦計画に影響を与え、連合艦隊は馬来部隊に潜水戦隊と陸上攻撃機を増強して対応した[128][18]。さらに南方部隊本隊と馬来部隊の水上部隊で対処することにした[129]。日本軍の南方作戦において、海軍側の総指揮官は第二艦隊司令長官近藤信竹中将(南方部隊指揮官、旗艦愛宕)で、高雄型重巡洋艦2隻と金剛級高速戦艦2隻(金剛、榛名)を有していた[130][注釈 24]。 マレー作戦を担当していたのは南遣艦隊司令長官小沢治三郎中将(馬来部隊指揮官、旗艦鳥海)で[18][134]、おもに陸軍輸送船団の護衛を担う[135][136]。指揮下に最上型重巡洋艦4隻[137]、第三水雷戦隊と二個潜水戦隊[18][138]、さらに増強された基地航空部隊を有していた[19][139]。
現場の南方部隊本隊や馬来部隊では、同部隊の昼間砲撃力ではイギリス東洋艦隊に明らかに劣るため艦隊決戦に勝機を見いだせず、夜戦に活路を見出すしかないと思われていた[140][141]。 既述のように日本連合艦隊はイギリス戦艦2隻の増援に対して馬来部隊に陸上攻撃機(基地航空部隊)を増強しており、キング・ジョージ5世(ウェールズ)についても「撃沈は無理でも大破させることは可能」、リナウン(レパルス)は撃沈できると判断していた[114]。宇垣纏少将(当時、連合艦隊参謀長)は「 吾人の眼よりせば茲に飛び込むは我潜あり、機雷あり、大巡数隻水戦あり、加ふるに高速戦艦二隻ある上、南部佛印に我攻撃機隊の相當優勢なるものあるを知るや知らずや、無謀と云はざれば其の傍若無人振りを賞すべきなり 」と余裕を持っている[142]。英戦艦2隻は「 鴨がねぎを負って現れたる海戦を何と命名するや 」というマレー沖海戦に臨むことになった[注釈 25]
最期
1941年(昭和16年)12月8日未明に実施されたマレー作戦を機に太平洋戦争[144][145](大東亜戦争)がはじまった[146][147][注釈 26]。 東洋艦隊では主力艦艇でZ部隊 (Force,Z) を編成した。フィリップス提督はイギリス空軍の支援を要請したが、実施されなかった[118]。Z部隊(戦艦プリンス・オブ・ウェールズ、巡洋戦艦レパルス、駆逐艦4隻[注釈 27]は同8日夕刻にシンガポールを出撃し[118]、マレー半島のコタバルとシンゴラへ向かう日本陸軍部隊[注釈 28]を乗せた輸送船団の攻撃に向かった[153][154]。これを馬来部隊(指揮官・小沢治三郎中将、南遣艦隊司令長官)率いる水上艦部隊と、サイゴン方面の飛行場に配備された基地航空部隊が迎え撃った[19]。
Z部隊はアナンバス諸島を迂回して、日本軍輸送船団の上陸地点シンゴラにむかった[118]。12月9日15時15分、日本軍の潜水艦伊65がZ部隊を発見した[155]。伊65は「敵レパルス型戦艦2隻見ゆ、地点コチサ11、針路340度、速力14ノット」と報告する[156][157]。南方部隊は全水上部隊を集結させて翌朝決戦の意図を示した[158]。馬来部隊は重巡や水雷戦隊による夜戦の用意をおこないつつ[158][159]、麾下の第二十二航空戦隊(基地航空部隊)による夜間攻撃を試みた[160]。Z部隊では情勢を検討し、21時45分に反転して帰途についた[161]。
12月10日午前0時、陸攻は南遣艦隊旗艦の重巡鳥海(小沢中将旗艦)を英戦艦と間違えて照明弾を投下、夜間雷撃の準備にはいり、鳥海が敵味方識別を懸命に訴える一幕もあった[160][162]。この頃、潜水艦伊58がZ部隊の反転を確認して各方面に通報したが[155]、上級司令部までに届かなかった[163]。Z部隊では「日本軍がクワンタンに上陸中」との情報を入手し、同10日午前2時20分に同地へむかったが日本軍と遭遇せず、反転してシンガポールにむかった[161]。
同10日昼間、Z部隊は南シナ海において行われたマレー沖海戦で、九六式陸上攻撃機(美幌海軍航空隊、元山海軍航空隊)と鹿屋海軍航空隊[164]の一式陸上攻撃機の大部隊に襲撃された[21][165]。日本時間午前11時45分、帆足正音予備少尉が指揮する九六陸攻(索敵)がZ部隊を発見して通報した[166]。同機の誘導により、まず美幌空の九六式陸攻8機による水平爆撃からはじまり、レパルスに爆弾1発が命中して小破した[166]。続いて元山空の九六式陸攻の雷撃がはじまる[166]。第2波空襲開始早々、プリンス・オブ・ウェールズの推進軸付近に命中した魚雷により推進軸が捩れ曲がり、回転するタービン・シャフトの先端が隔壁を連打して破壊した[167]。ウェールズはこの致命的な損傷により大浸水を生じ、同時に操舵不能となり、冠水により発電機が故障したため電力も落ちて後部にある4基の13.3cm連装両用砲と舵機が使用不能になった。速力が低下し、傾斜して両用砲の運用が困難になり、舵も効かなくなった同艦は第3次空襲で相次いで魚雷を受け、回避運動も対空射撃もままならなくなった。合計6本の魚雷と1発の500kg爆弾が命中した[168]。この間に魚雷推定4本~5本程度が命中したレパルスは[122]、転覆して沈没した[168]。航行不能になっていたウェールズでは、13時15分に総員退去が命じられ、13時20分に転覆、沈没した[167]。日本軍記録では魚雷7本、500kg爆弾2発命中(英軍記録魚雷6本、爆弾1発)、日本時間14時50分沈没となっている[122]。フィリップス中将と[169]、プリンス・オブ・ウェールズのリーチ艦長を含む数百人が艦と運命を共にした。日本側は雷撃50機、爆撃25機がZ部隊を攻撃し、3機を喪失した[126]。なお、プリンス・オブ・ウェールズとレパルスの戦死者が士官47名、兵793名と比較的少ないのは、日本軍の航空機が駆逐艦による救助作業を全く妨害しなかったためである[170]。
影響
マレー沖海戦以前にも、イギリス空母アーク・ロイヤル (HMS Ark Royal, 91) のソードフィッシュが雷撃でドイツ戦艦ビスマルクの舵を破壊し[171]、同艦の撃沈に貢献した[172][173]。また空母イラストリアス (HMS Illustrious, R87) のソードフィッシュによるタラント空襲や[174]、3日前に南雲機動部隊の艦上機によって行われた真珠湾攻撃では、「停泊中」の戦艦が航空攻撃により沈められた[175]。ギリシャ・イタリア戦争におけるサラミス湾空襲では戦艦キルキス (Kilkis) とレムノス (Lemnos) がJu 87の急降下爆撃で沈められたりしているが、これらは港に停泊中を奇襲され充分な対応ができないうちに被害を受けたり、旧式化した練習戦艦が被害を受けた結果であった。だが、マレー沖では充分な装備を持ち、万全の準備を行っていた「行動中」の新式戦艦が航空機の攻撃だけで撃沈された[176]。戦前の予測では、新式戦艦を航空機で沈めるのは難しいとされていた[114][177]。だが航空機には勝てない事が明らかとなり[178]、航空機の掩護がなければ艦船の行動や作戦実行がきわめて難しいことが認識された[179]。ただし本海戦は戦艦側に上空警戒機が1機もなく[180]、このために陸攻の攻撃が成功したとする論調もあった[169][181][注釈 29]。 宇垣纒は「 極東艦隊司令長官旗艦として急遽回航せる計りの最新鋭艦も其の無暴なる行動に依り脆くも飛行機の為に海底の藻屑となる 」「 昨日来の経過は確に航空機の威力を確認せざるを得ず。嘗てはビスマークを葬るに参加せる新鋭の本戦艦も案外防禦力薄弱にして、獨の復讐江戸の讐を長崎にて打ちたる格好となれり 」と感想を述べている[143]。
戦略的にも大きな意味があった[20][183]。シンガポール占領を目指す日本軍にとって最大の障害と見られた東洋艦隊主力が壊滅したことは[23]、マレー作戦をふくめた南方作戦全体の作戦展開に弾みをつけることになった[180][184]。プリンス・オブ・ウェールズの撃沈の報告を聞いたイギリスのチャーチル首相は絶句し「 戦争全体でその報告以上に私に直接的な衝撃を与えたことはなかった 」と著書の『第二次世界大戦回顧録』で語っている[169]。またイギリス議会下院で本艦喪失を報告した時には「 マレーとハワイにおいて与えられた喪失の重大性を過小評価してはならない。また我々を襲ってきた新たな敵の力をも。また絶対の勝利を収めるのに必要な大きな兵力を極東に創造し、整理し、盛り上げることに要する時間の長さも、過少評価してはならない 」と述べた[185]。
プリンス・オブ・ウェールズ沈没のニュースに、日本は大いに沸いた[22]。各主要新聞はトップで報じ、大本営も12月10日午後4時5分の発表でイギリス東洋艦隊撃滅を報じ[123]、「無敵海軍」「海の荒鷲」を宣伝した[22]。参謀総長(杉山元陸軍大将)から報告を受けた昭和天皇は「ソレハヨカッタ」と喜んでいる[186]。軍令部でもシャンパンで祝杯を挙げたという[186]。連合艦隊旗艦長門作戦室では「キングジョージ5世(ウェールズ)沈没」の速報が流れると歓声があがり[126]、普段は無表情な山本長官が非常に上機嫌であったという[178]。山本は三和に「(ビール)10ダースでも15ダースでもいくらでも出そう」と笑顔で語った[127]。また翌日、プリンス・オブ・ウェールズを撃沈した航空隊員の1人である壱岐春記大尉は、搭乗機で現場を訪れる。命を落とした乗組員の鎮魂のために花束を投下した[187]。
馬来部隊指揮官の小沢治三郎中将(南遣艦隊司令長官)は、旗艦鳥海に英戦艦2隻沈没とフィリップス提督戦死の報が届いた時、その死を悼んで静かに涙を流した[188]。野村守軍医大佐(当時、南遣艦隊軍医長)によれば、休憩室の小沢をたずねて祝辞をのべたところ「自分もいつかは彼と同じ運命を辿らねばなるまい」と静かに答えたという[188]。また「自分もいずれ、我々にも同じ運命がくる」と暗澹たる口調で呟いたという[189]。
海底のプリンス・オブ・ウェールズと違法サルベージ
沈没地点 北緯3度33分36秒 東経104度28分42秒 / 北緯3.56000度 東経104.47833度は比較的浅い海(水深68m)であり、レパルスほどではないにしてもプリンス・オブ・ウェールズも比較的到達容易な水深に沈んでおり、晴天時には海面から船体が確認できるほどである。プリンス・オブ・ウェールズを海の藻屑とした宇垣参謀長は「否水深三〇米引揚は極めて容易、我戦艦籍に二隻を加ふるも近き事なるべく藻屑とならざるべし」として、プリンス・オブ・ウェールズとレパルスの浮揚および日本戦艦籍編入をねらっていたが、実現しなかった[143]。軍令部でも引き揚げを狙い、サルベージの派遣手続きを取っている[186]。1942年(昭和17年)1月下旬、小沢長官は海防艦「占守」と第一掃海隊(掃海艇部隊)に、ウェールズとレパルスの沈没位置を特定するよう命じた[190]。2月1日、占守はウェールズの位置を確認して浮標を設置した[190]。
ウェールズの船体は完全に転覆した状態で沈んでおり、舷側には大小4箇所の破損穴が海底調査で発見されている。船首部の破損穴は完全に貫通している。また右舷外側スクリューシャフト基部の破損穴は500キロ爆弾の爆発によって生じた可能性があると海底調査では記載されている。海底調査は2回実施されており、最近の調査では破損穴の1つが土砂で埋まっており観察できない状態になっていることが報告された。沈没時に弾薬庫の誘爆がなかったので、船体には大きな損傷は認められていない。
日本軍の戦闘報告では魚雷命中数は6本以上となっているが、海底調査での破孔の数との乖離は、爆弾の至近弾の見間違いや同一命中を複数カウントされているためで、ドイツの戦艦ビスマルクの船体調査でも同じ事が報告されている。
2014年に中国の違法サルベージ業者によりレパルスと共に破壊行為を受けていることが報じられ、作業を行っていた船員が拘束された。爆発物を船体に取り付けて破壊し、破片をクレーン船で引き上げるという手法で鉄屑が回収されていた[191]。
ギャラリー
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プリンス・オブ・ウェールズの紋章。
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1941年8月18日撮影。
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艦橋から見下ろした前部主砲
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大西洋憲章(大西洋会談)のチャーチル首相とルーズベルト大統領(1941年8月10日)。
登場作品
- 映画『ビスマルク号を撃沈せよ!』
- デンマーク海峡海戦で艦橋被弾時に負傷[192]、一時的に視力をうしなったエズモンド・ナイトが[193]、プリンス・オブ・ウェールズのジョン・リーチ艦長役として出演する。
- 映画『ハワイ・マレー沖海戦』
- マレー沖海戦での本艦沈没シーンが、本作戦のクライマックスとなった。
出典
注釈
- ^ (上)逃げまどふ英艦[1] 左(中央)はプリンス・オブ・ウエールズ、最後方がレパルス、手前は我が猛爆をうけて逃げまどふ英驅逐艦。/(中)プリンス・オブ・ウエールズの性能 排水量三五,〇〇〇トン、一九四一年四月竣工、速力三〇節以上、十四インチ砲十門、五.二五インチ砲十六門を装備し搭載機四、英國主力艦中の最新鋭艦である。/(下)レパルスの性能 排水量三二,〇〇〇トン 一九一六年竣工、速力二九節、十五インチ砲六門、四インチ砲十二門、四インチ高角砲八門搭載機四を装備してゐる 猶、プリンス・オブ・ウエールズは、昨年八月北大西洋上に於てルーズヴエルト、チヤーチル洋上會談が同甲板上で行はれ、かつ友邦ドイツのビスマルク撃沈にも参加した艦であることは記憶に新たなるところであり、レパルスは一九四〇年十月獨潜水艦のスカパーフロー襲撃の際辛くも撃沈を免れた艦である。
- ^ 同級は、35.56 cm (14インチ) 砲を4連装2基(前部、後部に各一基)連装1基(前部に配置)計10門を装備する[2]。
- ^ ウェールズはビスマルクに何発かの命中弾を与え、小破させた[8]。ビスマルクはウェールズとの交戦による損傷が原因で燃料不足になり、大西洋での通商破壊作戦を諦めてフランス西部のドイツ海軍基地に帰投することにした[9]。
- ^ マレー沖海戰[15] 英の東洋艦隊早くも茲に潰滅す。/ 十二月十日 マレー東岸クワンタン沖に我が爆撃機、雷撃機隊は英が不沈戰艦と傲語するプリンス・オブ・ウエールズ及び戰艦レパルスを捕捉して挺身猛撃、海鷲獨特の必中彈を浴びせてこれを轟撃沈せしめた。/プリンス・オブ・ウエールズの長官艇の遺品/ 昭和十六年四月完成、三萬五千噸、最新鋭主力艦たるこのプリンス・オブ・ウエールズの艦上同年八月にチャーチル、ルーズヴエルト會談が行はれた。寫眞は艦上のチヤーチル(後甲板を散歩するチャーチル写真)/ レパルス(上)プリンス・オブ・ウエールズの最後―午後零時四十三分撮影。レパルスは命中彈で氣息奄々、午後二時二十九分轟沈。プリンス・オブ・ウエールズは艦中央から艦尾にかけ數發の命中彈をうけて、暫時遁走せるも、同二時五十分、英東洋艦隊司令長官サー・トーマス・フィリツプスを乗せたまゝ大爆發を起して沈没。
- ^ 戦艦プリンス・オブ・ウェールズ(東洋艦隊旗艦)、巡洋戦艦レパルス、駆逐艦4隻(エクスプレス、テネドス、エレクトラ、ヴァンパイア)。
- ^ 馬来部隊指揮官は、南遣艦隊司令長官小沢治三郎海軍中将であった[18]。
- ^ プリンス・オブ・ウェールズと共に巡洋戦艦レパルス (HMS Repulse) も沈没した[21]。
- ^ 12月10日16時5分、大本営海軍部発表[22]〔 帝国海軍は開戦劈頭より英東洋艦隊、特にその主力艦二隻の動静を注視しありたるところ 昨九日午後帝国海軍潜水艦は敵主力艦の出動を発見 午後帝国海軍航空部隊と緊密なる協力の下に捜索中、本十日午前十一時半マレー東部クワンタン沖に於て再び我が潜水艦これを確認せるをもって 帝国海軍航空部隊は機を逸せずこれに対し勇猛果敢なる攻撃を加へ 午後二時二十九分戦艦レパルスは瞬時にして轟沈し 同時に最新式戦艦プリンス・オブ・ウェールズは忽ち左に大傾斜暫時遁走せるも間もなく午後二時五十分大爆発を起し遂に沈没せり ここに開戦第三日にして早くも英国東洋艦隊主力は全滅するに至れり 〕
- ^ 八、マレー沖海戰[25] 開戰匆々ハワイ海戰においてアメリカ太平洋艦隊主力はわが海軍精鋭の敢行した大奇襲作戰によつて脆くも潰え去つたのであるが、マレー方面においてはわが上陸作戰を阻止すべくイギリスが世界にその最新鋭を誇る戰艦「プリンス・オブ・ウエールズ」と高速戰艦「レパルス」の出動となつたのである。この二戰艦がマレー半島沖を北上中なる旨の報告が哨戒中の潜水艦からもたらされたのは十二月九日の午後であつた。航空部隊は直ちに基地を出撃したが、その日は惡天候のためつひに敵艦隊を發見することが出來なかつた。十日午前三時四十分潜水艦から敵艦がシンガポールに遁走中なる旨の報があつた。かくてわが航空隊は暁方より索敵をつゞけたが、つひに午前十一時四十五分、北緯四度、東經百三度五十五分の點において敵主力が驅逐艦三隻を從へて航行中を發見、午前零時四十五分爆撃機隊の猛撃は開始された。かくてイギリスが「不沈戰艦」として誇るプリンス・オブ・ウエールズ及びレパルスの二艦と大型驅逐艦一をマレー沖の藻屑と化せしめ、イギリス東洋艦隊の主力を潰滅せしめたのである。さきのハワイ海戰の戰果とともにこの戰果は世界戰史上その例を見ないものである。/プリンス・オブ・ウエールズ號(東洋艦隊司令長官トーマス・フイリツプス坐乗、艦長J・C・リー大佐)要目=一九四一竣工、排水量三万五千トン、速力三十ノツト、主砲十四インチ砲十門、高角機銃二十五聯装三基、二十聯装一基、八聯装空ポムポム砲四基、搭載機四機/レパルス號(艦長J・G・テナント大佐)要目=一九一六年竣工(一九三六年改装)排水量三万二千トン、速力二十九ノツト、主砲十五インチ砲六門、副砲四インチ砲十二門、高角砲四インチ砲八門、二十一インチ魚雷發射管八基、搭載機四機。
- ^ トーヴィー大将自身は、旗艦キング・ジョージ5世、空母ヴィクトリアス、巡洋戦艦レパルスを率いることになっていた[42][43]。トーヴィー戦隊は5月22日夜に出撃した[44]。
- ^ 駆逐艦6隻の内訳は、エレクトラ、アンソニー、エコー、イカルス、アキティーズ、アンテロープであった[26]。
- ^ リュッチェンス部隊に触接したのは[46]、第一巡洋艦戦隊(司令官フレデリック・ウェイク・ウォーカー少将)の重巡洋艦ノーフォーク(旗艦)とサフォークであった[47][48]。またフッドとウェールズに随伴していた駆逐艦部隊のうち、燃料不足で駆逐艦2隻が離脱し、残りは荒天候下でも高速を発揮できる戦艦2隻についてゆけなくなった[49]。
- ^ ノーフォークにはウォーカー少将が座乗していたが、ホランド中将(フッド)の方が先任であるため、デンマーク海峡海戦では精彩を欠いた[57]。ホランド中将はウォーカー少将の重巡2隻でプリンツ・オイゲンを片付けるつもりだったが、無線封止をしていたので意図が伝わらなかった[58]。また砲戦中のため、命令を出す時機を逸した[55]。
- ^ ウェールズのリーチ艦長は、後日の調査会でフッド轟沈時のスケッチを提出している[61]。
- ^ プリンツ・オイゲンの煙突基部付近で回収された巨弾の断片は、巡洋戦艦フッドのものとされた[73]。だが分析の結果、ウェールズの主砲弾であることが判明した[74]。
- ^ リュッチェンス提督は上級司令部に「19時14分 キング・ジョージ五世と短時間交戦したが、戦果なし。プリンツ・オイゲン、燃料補給のため離脱。敵は現在もなお触接を堅持」と報告した[92]。
- ^ ルーズベルト大統領は重巡洋艦オーガスタ (USS Augusta, CA-31) でアルゼンチア海軍基地に到着しており、駆逐艦マクドゥガル (USS McDougal, DD-358) でウェールズに乗艦した。
- ^ フィリップス中将は11月25日付で海軍大将に昇進した。
- ^ イギリス中国艦隊(支那方面艦隊)はプリンス・オブ・ウェールズがシンガポールに到着した12月2日付で解隊された[24]。
- ^ これが大和型戦艦で、1番艦の大和[120](1937年11月4日起工、1940年8月8日進水、1941年12月16日竣工)は[121]、18インチ砲9門、基準排水量64,000トン、速力27ノットであった。
- ^ 七、マレー戰の驚異[123] 撃沈した隻數はハワイ海戰の場合よりも少ないから、世上或はマレー海戰の戰果をヨリ小さいと考へるものがあれば、それは大間違ひである。戰果に甲乙なく、共に世界的且つ歴史的の大戰勝であり、さうして今後の海戰略に重大なる示唆を與へ、更に敵主力の進攻戰に期間的終止符を打つた點で全く相匹敵するものである。/ 異なる所はハワイ戰が敵の主力を根據地碇泊中に撃滅したのに對し、マレー戰は洋上の機動に於て撃滅した點にある。即ち空中魚雷と爆彈とによる攻撃戰の二つの場合が、殆ど時を同じうして東と南とで實演され、共に成功の標本を作り上げたわけである。/ 筆者は我が海軍航空部隊が、世界的新鋭戰艦プリンス・オブ・ウエールズ號に對し、必殺の攻法によつて大打撃を與へ得るだらうとは考へたが、彼れを撃沈することは出來ないであると豫想してゐた。レパルス、レナウン型の高速戰艦は、五月二十七日にフツドが撃沈された如く、高速戰艦固有の弱點の爲に撃滅の可能性はあると思つたが、キング・ジオージ・五世級の新戰艦に至つては、餘程多數の魚雷と重爆彈とを命中させなければ沈めることが出來ないし、斯かる命中は洋上の機動戰に於ては不可能だと考へたからである。/ プリンス・オブ・ウエールス號は『空軍に對する戰艦の将來』を調査したインスキツプ委員會の報告に基き當時イギリスにも流行した戰艦無用論を尻目にかけて起工された新工夫の代表艦である。即ち空中からの攻撃に對しては特殊鋼を以て特殊の型式による防備を施し、水中攻撃に對しても強力なる抵抗力を附與し、その爲に防禦鋼の重量が一萬四千トンに達したといふ記録を持つ。/ 一方に對空攻撃武器としては、五吋高角速射砲八門の外に、四聯集装のポムポム砲― 一装は半吋強の機關砲八門から成る― 二基を備へ、即ち六十四門から噴水の如く間斷なく打ち上げる彈幕で敵の急降下爆撃機を事前に粉碎する用意を持つてゐた。
- ^ 三和によれば、山本長官の発言は相手の自信の程度を確かめるための話術であったという[126]。
- ^ キング・ジョージ5世とプリンス・オブ・ウェールズはキングジョージ5世級戦艦の同型艦、レナウンとレパルスはレナウン級巡洋戦艦の同型艦である[125]。
- ^ 第三戦隊(司令官三川軍一中将)[131]の金剛型4隻(金剛、比叡、榛名、霧島)のうち、三川中将直率の第1小隊(比叡、霧島)は南雲機動部隊護衛艦艇としてハワイ作戦に参加[132]、不在[133]。
- ^ 宇垣纏『戦藻録』(1941年12月10日記事)〔 十二月十日 水曜日 雨 (X-2) アバリ、ビカン上陸成功。馬来沖海戦。特別攻撃隊。ギルバート占領 〕[143]。
- ^ 馬来部隊のマレー半島コタバル上陸は、真珠湾攻撃よりも一時間はやく12月8日午前2時15分から実施された[148]。
- ^ 駆逐艦4隻の内訳は[149]、エクスプレス、テネドス、エレクトラ、ヴァンパイアであった。
- ^ この部隊は第25軍(司令官山下奉文中将)が指揮していた[150][151]。12月8日早朝、同部隊はコタバル上陸作戦を敢行して成功した[152]。
- ^ 1942年(昭和17年)2月20日のニューギニア沖海戦では、空母レキシントンを攻撃した一式陸上攻撃機が直衛のF4F戦闘機に迎撃され、全滅に近い損害をうけながら、全く戦果をあげられなかった[182]。
脚注
- ^ ハワイ海戦、マレー沖海戦 1942, p. 31(原本38-39頁)
- ^ 福井、日本戦艦物語(II) 1992, pp. 353–354列強の戦艦建造計画について ◇イギリス海軍
- ^ 福井、日本戦艦物語(II) 1992, pp. 195–196世界をあげての巨艦時代
- ^ a b ビスマルクの最期 1982, p. 61.
- ^ a b ヒトラーの戦艦 2002, pp. 218–222〈フッド〉轟沈
- ^ 巨大戦艦ビスマルク 2002, pp. 18–19(ライン演習作戦各部隊行動図)
- ^ 壮烈!ドイツ艦隊 1985, pp. 115–118巡洋戦艦「フッド」轟沈
- ^ 壮烈!ドイツ艦隊 1985, pp. 118–121ビスマルクに三弾命中
- ^ 巨大戦艦ビスマルク 2002, pp. 201–209(15)突然の変針命令
- ^ 壮烈!ドイツ艦隊 1985, p. 122.
- ^ a b 巨大戦艦ビスマルク 2002, p. 218(北大西洋におけるビスマルク追撃態勢)
- ^ a b c ヒトラーの戦艦 2002, pp. 222–224当てのない追跡行
- ^ 壮烈!ドイツ艦隊 1985, p. 125.
- ^ Barnett, p. 297-299
- ^ 大東亞戰爭海軍作戰寫眞記録(1) 1942, p. 26原本22-23頁
- ^ a b c d ビスマルクの最期 1982, p. 415.
- ^ 壮烈!ドイツ艦隊 1985, p. 153.
- ^ a b c d 智将小沢治三郎 2017, pp. 22–24.
- ^ a b c 戦史叢書95 1976, pp. 181–182馬来部隊
- ^ a b 別冊歴史読本(45) 2009, pp. 110–111(1941.12.10)マレー沖海戦/英首相チャーチルを苦悩させた新鋭戦艦の撃沈
- ^ a b 戦史叢書95 1976, pp. 227–229マレー方面航空作戦、マレー沖海戦
- ^ a b c 戦史叢書80 1975, p. 113.
- ^ a b ニミッツ 1962, p. 30.
- ^ a b 戦史叢書80 1975, pp. 85–90マレー沖海戦
- ^ 南方圏要覧 1942, pp. 204–205(原本389-390頁)八、マレー沖海戰
- ^ a b ビスマルクの最期 1982, p. 69.
- ^ ビスマルクの最期 1982, pp. 117–119.
- ^ 壮烈!ドイツ艦隊 1985, pp. 100–101「ライン」演習作戦
- ^ 撃沈戦記 1988, pp. 336–338「ビスマルク」大西洋へ
- ^ 撃沈戦記 1988, pp. 339–340水平線上の艦影
- ^ 壮烈!ドイツ艦隊 1985, pp. 110–111防禦力で劣る巡洋戦艦
- ^ ビスマルクの最期 1982, p. 68.
- ^ 巨大戦艦ビスマルク 2002, pp. 130–131.
- ^ 撃沈戦記 1988, p. 338.
- ^ 巨大戦艦ビスマルク 2002, pp. 132–135(9)情報はイギリス海軍省に
- ^ ビスマルクの最期 1982, pp. 22–24.
- ^ ヒトラーの戦艦 2002, pp. 211–214ドラマのはじまり
- ^ a b 壮烈!ドイツ艦隊 1985, pp. 106–110「ビスマルク」出撃
- ^ ビスマルクの最期 1982, pp. 65–66.
- ^ 巨大戦艦ビスマルク 2002, pp. 154–159(11)スカパ・フローに緊張走る
- ^ 木俣、大西洋・地中海 2004, pp. 140–141.
- ^ ビスマルクの最期 1982, p. 62.
- ^ ヒトラーの戦艦 2002, pp. 214–216〈ビスマルク〉はどこに
- ^ ビスマルクの最期 1982, p. 78.
- ^ ビスマルクの最期 1982, p. 70.
- ^ 巨大戦艦ビスマルク 2002, p. 167(ドイツ機動部隊、イギリス重巡と遭遇)
- ^ ビスマルクの最期 1982, pp. 89–96.
- ^ 木俣、大西洋・地中海 2004, pp. 143–144.
- ^ 撃沈戦記 1988, p. 339b.
- ^ 木俣、大西洋・地中海 2004, pp. 146–147(ビスマルク追跡図-1)(1941年5月23日午後7時22分~24日午前8時)
- ^ 巨大戦艦ビスマルク 2002, pp. 175–200(14)フッド轟沈
- ^ ビスマルクの最期 1982, pp. 124–125(デンマーク海峡海戦~ヴィクトリアス攻撃まで)
- ^ 壮烈!ドイツ艦隊 1985, p. 115.
- ^ ビスマルクの最期 1982, pp. 136–137.
- ^ a b c ビスマルクの最期 1982, p. 143.
- ^ 巨大戦艦ビスマルク 2002, p. 180.
- ^ 巨大戦艦ビスマルク 2002, p. 183.
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- 国立国会図書館デジタルコレクション - 国立国会図書館
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- 同盟通信社出版部 編「英東洋艦隊主力全滅す」『大東亞戰爭【第一輯】ハワイ海戰 マレー沖海戰』同盟通信社、1942年2月 。
関連項目
- 戦艦
- マレー沖海戦
- 英国東洋艦隊潰滅
- プリンス・オブ・ウェールズ (空母)
- ルダン島 - プリンス・オブ・ウェールズが沈む海域近くの島。ダイビングで見ることができる。
- 第二次世界大戦中のイギリス海軍の喪失艦一覧
- イギリス海軍の艦隊および管区一覧
外部リンク
- List of Crew[リンク切れ]
- Maritimequest HMS Prince of Wales Photo Gallery
- HMS Prince of Wales (53)
- Overview Expedition Job 74(PDF)
- Stern Damage (PDF)
- Hull Indentation(PDF)
- Death of a Battleship(PDF)