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'''曽 天養'''(そう てんよう、''Zeng Tianyang''、[[1790年]]頃 - [[1854年]])は、[[太平天国]]の指導者の一人。'''曽添養'''とも書く。
'''曽 天養'''(そう てんよう、''Zeng Tianyang''、[[1790年]]頃 - [[1854年]])は、[[太平天国]]の指導者の一人。'''曽添養'''とも書く。


[[広西省]][[桂平市|桂平]]出身。早くから[[拝上帝会]]に加入し、[[金田蜂起]]のときには50歳を超えていた。初め御林侍衛となり、後に秋官正丞相となった。[[1854年]]初頭、[[湖北省]][[黄岡市|黄州]]で[[清]]軍を破り、[[湖広総督]]の[[呉文鎔]]を戦死させた。その後[[湖南省]]に入り、8月9日に[[岳陽市|岳州]]付近の城陵機の戦いで[[湘軍]]の水軍を破って指揮官の[[チョ汝航|褚汝航]]を戦死させたが、8月11日に湘軍の[[タチブ|タチプ]](塔斉布)軍と戦闘になり、戦死した。
[[広西省]][[桂平市|桂平]]出身。早くから[[拝上帝会]]に加入し、[[金田蜂起]]のときには50歳を超えていた。初め御林侍衛となり、後に秋官正丞相となった。[[1854年]]初頭、[[湖北省]][[黄岡市|黄州]]で[[清]]軍を破り、[[湖広総督]]の[[呉文鎔]]を戦死させた。その後[[湖南省]]に入り、8月9日に[[岳陽市|岳州]]付近の城陵機の戦いで[[湘軍]]の水軍を破って指揮官の[[褚汝航]]を戦死させたが、8月11日に湘軍の[[タチブ|タチプ]](塔斉布)軍と戦闘になり、戦死した。


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2020年8月15日 (土) 00:37時点における版

曽 天養(そう てんよう、Zeng Tianyang1790年頃 - 1854年)は、太平天国の指導者の一人。曽添養とも書く。

広西省桂平出身。早くから拝上帝会に加入し、金田蜂起のときには50歳を超えていた。初め御林侍衛となり、後に秋官正丞相となった。1854年初頭、湖北省黄州軍を破り、湖広総督呉文鎔を戦死させた。その後湖南省に入り、8月9日に岳州付近の城陵機の戦いで湘軍の水軍を破って指揮官の褚汝航を戦死させたが、8月11日に湘軍のタチプ(塔斉布)軍と戦闘になり、戦死した。