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: 松前藩儒[[平沼雪山]]の墓碑。[[弘化]]2年(1845年)1月建立。尾藤水竹題額、[[山田三川]]銘、渡辺篤親序。松前町字松城光善寺にある。[[褚遂良|褚法]]・[[顔真卿|顔風]]の融合を見せる{{sfn|永田|1972|pp=36-37}}。 |
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2020年8月15日 (土) 00:33時点における版
時代 | 江戸時代後期 |
---|---|
生誕 | 文化3年(1806年) |
死没 | 明治6年5月6日(1873年5月31日) |
別名 | 徽言(名)、士励(字)、唯一(通称)、韓(修姓)[1] |
墓所 | 江戸上野高巌寺、中野区萬昌院功運寺 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 松前昌広、崇広、修広[2] |
藩 | 松前藩 |
氏族 | 石井氏 |
父母 | 石井善蔵、海保久美 |
子 | 石井堅芚 |
石井 潭香(いしい たんこう)は江戸時代後期の書家。江戸出身。市河米庵・江芸閣に書法を学び、松前藩に仕えた。
生涯
江戸時代
文化3年(1806年)江戸に幕府役人石井善蔵の子として生まれた[2]。文化4年(1807年)父が幕府の蝦夷地直轄化に伴い同地赴任を命じられ[2]、両親と共に松前に移った[2]。幼くして母、成人後に父を喪い、継母と同居した[3]。
文政4年(1821年)12月蝦夷地が松前藩に返還され、江戸に戻った[4]。間もなく市河米庵に入門したが、国内の停滞する書法に飽き足らず[5]、継母を尾藤水竹に預け、長崎に出て清人江芸閣に直接中国の書法を学び、1年余りで帰郷した[1]。
天保4年(1833年)天保の大飢饉により生活が困窮すると、人の勧めに従い、稲作が行われず飢饉の影響が少なかった松前藩に出仕し[6]、世子松前良広に近侍して起居動作を教えた[3]。良広の死去後士班に列したが、給料は少なく、市人に借金を返済できずに訴えられ、藩に建て替えてもらったこともあったという[1]。江戸と松前を頻繁に往復し、天保14年(1843年)の藩士名簿では先手組席に属している[7]。江戸に帰ってからは書塾を開き、江戸詰津山藩士の多くが入門したという[8]。
松浦武四郎と交流があり、その記録によれば、弘化3年(1846年)1月1日、江戸尾藤水竹宅で嶺田楓江・潭香・門田樸斎・五弓雪窓・関藤藤陰・添川廉斎・牧田只介・中山忠三・葉山静雄が第2次探検の送別会を開き、2日楓江と潭香は武四郎を千住大橋まで見送った。その直後、潭香も石狩赴任が決まり、4月10日江差で再会し、宿で一晩語り明かした[9]。
明治時代
明治2年(1869年)官制改定の頃、徴命により東京で太政官大録となった[10]。1銭銅貨・2銭銅貨・1円銀貨等の文字を手がけ[11]、死後加納夏雄の雛形で発行された[12]。
明治6年(1873年)5月6日又は1日65歳で死去し、上野高巌寺に葬られた[12]。現在墓は中野区上高田萬昌院功運寺にある[13]。
手本
- 『宋人絶句帖』[14]
- 『李青蓮蜀道文』[15]
- 『孫真人勧世文』[16]
- 『池上篇』[17]
- 『文昌帝君戒淫文』[18]
- 『帰去来辞』[19]
- 『真書千字文』[20]
- 『唐六如帖』[21]
- 『行書黄山谷題跋』[22]
- 『真書勧世文』[23]
- 『行書池上篇』[24]
- 『行書東坡題跋』[25]
- 『洛霊帖』[26]
- 『愛蓮説』[27]
- 『版宇帖』[28]
- 『黄山谷題跋』[29]
- 『文賦』[30]
- 『桃李園序』[31]
- 『皇帝帖』[32]
- 『草書愛蓮説』[33]
- 『草書千字文』 - 生前刊[34]。
- 『楷書飲中八仙歌』 - 中根香亭後序[34]
- 『楷書帰去来辞』 - 明治13年(1880年)刊[34]。
- 『楷書秋興八首』 - 明治14年(1881年)刊。板垣経信跋[34]。
- 『楷書前出師表』 - 松浦武四郎跋[34]。
- 『楷書古詩帖』[34]
碑文
門人
人物
朝は家族より先に起床し、自ら掃除・炊事・風呂の支度を行った[11]。筆を持つ前には手を洗い、口を漱ぎ、香を焚いた[3]。運筆に影響があるとして、歩く時には右手を懐に仕舞い、傘も左手で持った[1]。文具も他人の手に触れる度にこれを拭った[1]。酒豪だった[1]。
揮毫の依頼が絶えず、仕事は溜まりがちだったが、依頼者が自分の依頼を優先してもらえるよう地位や理屈を持ち出すと、叱責して仕事を断った[11]。
門人柴田九十九の話によれば、潭香は神田明神の大幟を揮毫した際、「神」字の「申」の懸針が長くアンバランスだとして、点を3つ書き加えた。これを見る人々は皆3点があるのを不思議に思ったが、後に朝鮮通信使が来訪した時、この幟を見て「神」字を絶賛したため、人々は初めて潭香の非凡さを知ったという[43]。
友人五弓久文(雪窓)の随筆によれば、香潭は幕末の三筆について市河米庵を「俗書」、巻菱湖を「書中の郷愿」と批難し、貫名海屋を最も評価した[43]。
親族
- 父:石井善蔵 – 上野菊地氏出身。幕府下級役人石井氏を継いだ。蝦夷地山越内関所に勤務し、砂金事業にも関わった[2]。
- 母:久美 – 海保氏[2]。文化8年(1811年)8月13日山越で死去し、阿弥陀堂墓地に葬られ、円融寺に移葬された[44]。
- 継母 – 松前某氏[1]。
- 子:石井輪太郎堅芚 – 松前藩に仕え、明治2年(1869年)父に従い上京した[12]。
脚注
- ^ a b c d e f g 経済雑誌社 1909, p. 151.
- ^ a b c d e f 永田 1972, p. 24.
- ^ a b c d 杉原 1942, p. 32.
- ^ 永田 1972, p. 25.
- ^ 永田 1972, pp. 26–28.
- ^ 永田 1972, p. 29.
- ^ 永田 1972, pp. 29–30.
- ^ a b 入沢 1935, pp. 10–11.
- ^ 吉田 1963, p. 27.
- ^ 永田 1972, p. 31.
- ^ a b c d e 入沢 1935, p. 10.
- ^ a b c 永田 1972, p. 42.
- ^ 滝山氏照 (2013年4月20日). “武蔵中野 吉良上野介墓所・功運寺散歩”. 2018年9月17日閲覧。
- ^ NDLJP:852893
- ^ NDLJP:853286
- ^ NDLJP:852931
- ^ NDLJP:852979
- ^ NDLJP:853147
- ^ NDLJP:852160
- ^ NDLJP:853621
- ^ NDLJP:853074
- ^ NDLJP:852178
- ^ NDLJP:852703
- ^ NDLJP:852195
- ^ NDLJP:852199
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- ^ NDLJP:851990
- ^ NDLJP:853102
- ^ NDLJP:852299
- ^ NDLJP:853150
- ^ NDLJP:853072
- ^ NDLJP:852303
- ^ 永田 1972, pp. 34–35.
- ^ a b c d e f 永田 1972, p. 35.
- ^ 松木明知「松前藩医桜井小膳の塋域」『日本医史学雑誌』第16巻、日本医史学会、1970年12月。
- ^ 永田 1972, pp. 35–36.
- ^ 永田 1972, pp. 36–37.
- ^ がらん (2015年8月12日). “久保寺珺琚(数学者)碑”. 碑像マップ. 2018年9月17日閲覧。
- ^ 永田 1972, pp. 37–38.
- ^ a b 永田 1972, p. 38.
- ^ a b 永田 1972, p. 39.
- ^ 永田 1972, p. 40.
- ^ a b 杉原 1942, p. 33.
- ^ 八雲町史編さん委員会「第13編 宗教」『改訂 八雲町史』八雲町、1983年 。
参考文献
- 『訂正増補 大日本人名辞書』(第6版)経済雑誌社出版、1909年6月。NDLJP:1087059/168。
- 入沢昕江「石井潭香」『書道』第4巻第3号、泰東書道院出版部、1935年3月。
- 杉原夷山「近世書道史談」『書之友』第8巻第10号、雄山閣出版、1942年8月。
- 永田敏雄「石井潭香 ―その生涯と書業」『人文論究』第32号、北海道教育大学函館人文学会、1972年3月。
- 塚本豊次郎『日本貨幣史 別編金座考』財政経済学会、1925年。NDLJP:1014764/54。
- 吉田武三『評伝松浦武四郎』松浦武四郎伝刊行会、1963年。