「大雁塔」の版間の差分
→傾斜問題: 節追加 |
m Bot作業依頼: 「チョ」→「褚」の改名に伴うリンク修正依頼 (褚遂良) - log |
||
5行目: | 5行目: | ||
名前は、[[菩薩]]の化身として[[雁]]の群れから地上に落ちて死んだ1羽を、塔を建てて埋葬したことに由来する。 |
名前は、[[菩薩]]の化身として[[雁]]の群れから地上に落ちて死んだ1羽を、塔を建てて埋葬したことに由来する。 |
||
高さは7層64mで現在は、[[西安市]]の東南郊外にある[[大慈恩寺]]の境内に建っている。玄奘の設計により、当初は5層であった。各階に仏舎利がおさめられ、経典は上層部の石室に置かれた。玄奘自ら、造営に携わったと伝えられる。塔の南門には([[ |
高さは7層64mで現在は、[[西安市]]の東南郊外にある[[大慈恩寺]]の境内に建っている。玄奘の設計により、当初は5層であった。各階に仏舎利がおさめられ、経典は上層部の石室に置かれた。玄奘自ら、造営に携わったと伝えられる。塔の南門には([[褚遂良]]書)の筆による碑が置かれた。当初は表面を磚に覆っただけで土によって作られていたために、老朽化してしまった。そのため、[[長安 (元号)|長安]]年間([[701年]] - [[705年]])、[[武則天]]の統治時代に、全て[[磚]]でつくられ、上まで登れるようになり、現在の7層に落ち着くという変遷を経ている。<ref>途中で10層まで増築された説にはついては異説もある</ref>この様子は、[[杜甫]]や[[岑参]]といった詩人たちによって、詠まれている。 |
||
唐時代に[[進士]]試験の合格者がここで名を記したことから、「雁塔題名」の成語も生まれた。後に宰相になった場合、その名は朱色に書き換えられた。また、訪れるものに自分の名を書くものもあり、唐代の詩人、[[李商隠]]の名が残っている。また、日本から訪れた[[円仁]]も登ったことがあった。 |
唐時代に[[進士]]試験の合格者がここで名を記したことから、「雁塔題名」の成語も生まれた。後に宰相になった場合、その名は朱色に書き換えられた。また、訪れるものに自分の名を書くものもあり、唐代の詩人、[[李商隠]]の名が残っている。また、日本から訪れた[[円仁]]も登ったことがあった。 |
||
13行目: | 13行目: | ||
現在でも、最上層まで登ることが可能である。 |
現在でも、最上層まで登ることが可能である。 |
||
第1層には、仏菩薩の線刻画や、「[[ |
第1層には、仏菩薩の線刻画や、「[[褚遂良#雁塔聖教序|大唐三蔵聖教序]]」([[褚遂良]]書)及び、高宗撰の序記の2石碑が見られる。また、寺中には、[[王維]]や[[呉道玄]]らの絵画も収蔵されている。 |
||
[[2014年]]に「[[シルクロード (世界遺産)|シルクロード:長安-天山回廊の交易路網]]」の一部として[[世界遺産]]に登録された。 |
[[2014年]]に「[[シルクロード (世界遺産)|シルクロード:長安-天山回廊の交易路網]]」の一部として[[世界遺産]]に登録された。 |
2020年8月15日 (土) 00:31時点における版
大雁塔(だいがんとう、簡体字中国語: 大雁塔、拼音: )とは、652年に唐の高僧玄奘三蔵がインドから持ち帰った経典や仏像などを保存するために、高宗に申し出て建立した塔。
概要
名前は、菩薩の化身として雁の群れから地上に落ちて死んだ1羽を、塔を建てて埋葬したことに由来する。
高さは7層64mで現在は、西安市の東南郊外にある大慈恩寺の境内に建っている。玄奘の設計により、当初は5層であった。各階に仏舎利がおさめられ、経典は上層部の石室に置かれた。玄奘自ら、造営に携わったと伝えられる。塔の南門には(褚遂良書)の筆による碑が置かれた。当初は表面を磚に覆っただけで土によって作られていたために、老朽化してしまった。そのため、長安年間(701年 - 705年)、武則天の統治時代に、全て磚でつくられ、上まで登れるようになり、現在の7層に落ち着くという変遷を経ている。[1]この様子は、杜甫や岑参といった詩人たちによって、詠まれている。
唐時代に進士試験の合格者がここで名を記したことから、「雁塔題名」の成語も生まれた。後に宰相になった場合、その名は朱色に書き換えられた。また、訪れるものに自分の名を書くものもあり、唐代の詩人、李商隠の名が残っている。また、日本から訪れた円仁も登ったことがあった。
その後、熙寧年間1068年 - 1077年頃に火事に罹災し、1550年頃に重修されており、人民中国成立後にも修築されている。
現在でも、最上層まで登ることが可能である。
第1層には、仏菩薩の線刻画や、「大唐三蔵聖教序」(褚遂良書)及び、高宗撰の序記の2石碑が見られる。また、寺中には、王維や呉道玄らの絵画も収蔵されている。
2014年に「シルクロード:長安-天山回廊の交易路網」の一部として世界遺産に登録された。
傾斜問題
大雁塔は西北方向に傾いている。康熙58年(1719年)にすでに198ミリメートル傾いていたが、1945年以降地下水の採取のしすぎによって地盤沈下が起きて傾斜速度が早まり、1996年には傾きが1010.5ミリメートルに達した。西安市は1997年にようやく地下水対策を施し、その後は年に1ミリメートルほど傾斜が回復しつつあるという[2][3][4]。
参考文献
- 松浦友久、植木久行『長安洛陽物語』(集英社、1987年、ISBN9784081620029)
脚注
- ^ 途中で10層まで増築された説にはついては異説もある
- ^ 王乐文「大雁塔:倾斜似山倒 回正如抽丝」『人民日报』2007年3月29日 。
- ^ 「傾いた大雁塔、毎年1ミリずつ回復」『人民中国』 。
- ^ 「中国版「ピサの斜塔」、傾斜の進行がストップ!あと1000年で垂直回復?―陝西省西安市」『Record China』2007年11月11日 。
座標: 北緯34度13分12.46秒 東経108度57分33.58秒 / 北緯34.2201278度 東経108.9593278度