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「李勣」の版間の差分

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=== 終わりを全うする為に ===
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その後、高宗は武照([[武則天]])を新しく[[皇后]]に立てたいと思い、臣下に下問した。このときの李勣以外の主な人物が[[長孫無忌]]・[[チョ遂良|褚遂良]]・[[于志寧]]であった。長孫無忌と褚遂良は反対し、于志寧は沈黙を守り、李勣はこの会議に欠席していた。高宗はあきらめ切れずに、自ら李勣に対して下問し、李勣は「これは陛下の家事です。なぜ赤の他人である私に聞くのですか。」と答え、これに力を得た高宗は武照を皇后に立てた。この後、武照による専横の時代が始まり、李勣はこの時代を保身のために招いてしまったと後世から批判を受けることになる。李勣からすれば、長年粉骨砕身して仕えてきた太宗からあのような疑いを受けたことが微妙な恨みとして残ったようであり、「そちらがそのように疑うのならこちらは保身に走るしかない」と感じていたようである。
その後、高宗は武照([[武則天]])を新しく[[皇后]]に立てたいと思い、臣下に下問した。このときの李勣以外の主な人物が[[長孫無忌]]・[[褚遂良]]・[[于志寧]]であった。長孫無忌と褚遂良は反対し、于志寧は沈黙を守り、李勣はこの会議に欠席していた。高宗はあきらめ切れずに、自ら李勣に対して下問し、李勣は「これは陛下の家事です。なぜ赤の他人である私に聞くのですか。」と答え、これに力を得た高宗は武照を皇后に立てた。この後、武照による専横の時代が始まり、李勣はこの時代を保身のために招いてしまったと後世から批判を受けることになる。李勣からすれば、長年粉骨砕身して仕えてきた太宗からあのような疑いを受けたことが微妙な恨みとして残ったようであり、「そちらがそのように疑うのならこちらは保身に走るしかない」と感じていたようである。


その後、長孫無忌・褚遂良・于志寧は武則天によって左遷され、長孫無忌と褚遂良は南方の辺境の任地で自殺に追い込まれたり病死したりした。李勣にはもちろんお咎めがなく、むしろ更に信頼されるようになる。[[667年]]~[[668年]]の[[高句麗]]遠征([[唐の高句麗出兵]]、第3次)では唐軍の主将として活躍し、長年の敵であった高句麗を滅ぼすことに成功する。『[[日本書紀]]』[[天智天皇]]紀には「大唐の大将軍英公(英国公李勣)が高麗(こま)を打ち滅ぼした」と記されている。
その後、長孫無忌・褚遂良・于志寧は武則天によって左遷され、長孫無忌と褚遂良は南方の辺境の任地で自殺に追い込まれたり病死したりした。李勣にはもちろんお咎めがなく、むしろ更に信頼されるようになる。[[667年]]~[[668年]]の[[高句麗]]遠征([[唐の高句麗出兵]]、第3次)では唐軍の主将として活躍し、長年の敵であった高句麗を滅ぼすことに成功する。『[[日本書紀]]』[[天智天皇]]紀には「大唐の大将軍英公(英国公李勣)が高麗(こま)を打ち滅ぼした」と記されている。

2020年8月15日 (土) 00:30時点における版

李勣・『清宮殿藏本』より

李 勣(り せき、594年 - 669年)は、中国軍人は懋功(ぼうこう)。滑州衛南県の出身。本貫曹州離狐県。元の姓は徐、元のは世勣で、唐より国姓の李を授けられ、後に太宗李世民避諱して李勣と改めた。李靖と共に初唐の名将とされ、高句麗征服など数々の功績を挙げた。

経歴

出身

徐蓋の子として生まれた。富家の出身で、末の混乱に伴い、近くで翟譲が蜂起したので、17歳の徐世勣はこれに従って反乱軍に身を投じた。徐世勣は年少にもかかわらず、翟譲よりも才能を発揮し、翟譲軍は徐世勣の主導によって動くようになる。

その頃、李密王世充に敗れて逃げてきたので、これを迎え入れて翟譲に代わる首領として李密を押したてる。王世充の軍を奇計を用いて破り、この功績をもって李密より東海郡公とされる。また李密に対して隋の穀倉を奪って飢えた民を集めることを進言して受け入れられ、宇文化及の軍がこの食料を求めて攻撃してきたのでこれを撃退した。しかし619年に李密軍は王世充に大敗し、西で大興城(長安)を陥落させていた李淵に李密と共に降った。徐世勣を迎えた李淵はこれを大いに喜び、徐世勣を「純臣なり」と称揚し、李密の元から自らの直臣として迎え入れ、国姓の李を与えた。以後は李世勣となる。以後は唐の元で統一戦にて李淵の次子・李世民(後の太宗)の軍の中核として活躍し、竇建徳・王世充討伐に功績を挙げた。李世民が即位すると名前を李勣と改め、并州都督とされる。

左遷

しかし太宗も晩年になると李勣の才を恐れ、皇太子李治(高宗)に対して李勣が忠誠を誓うか否か心配になり、ある策謀を行った。それは李勣を畳州都督へと左遷することであった。太宗は李治に対して「もし李勣が左遷されて、任地へ行くことを渋るようであれば即座に殺せ。もし任地へと素直に赴くようであれば、お前が即位した後に中央に呼び戻してやれ。左遷者を登用する事は大恩であり、それにより恩に感じてお前に対して忠誠を尽くしてくれるだろう。」と言い残して、死去した。李勣も太宗の思惑を察知していたので、この詔勅が出た後に家にも帰らずにその足で任地へと赴いた。

李治が即位して高宗になるとすぐに李勣は呼び戻されて中書門下三品(宰相)とされ、一躍朝廷の重鎮のひとりとなる。

終わりを全うする為に

その後、高宗は武照(武則天)を新しく皇后に立てたいと思い、臣下に下問した。このときの李勣以外の主な人物が長孫無忌褚遂良于志寧であった。長孫無忌と褚遂良は反対し、于志寧は沈黙を守り、李勣はこの会議に欠席していた。高宗はあきらめ切れずに、自ら李勣に対して下問し、李勣は「これは陛下の家事です。なぜ赤の他人である私に聞くのですか。」と答え、これに力を得た高宗は武照を皇后に立てた。この後、武照による専横の時代が始まり、李勣はこの時代を保身のために招いてしまったと後世から批判を受けることになる。李勣からすれば、長年粉骨砕身して仕えてきた太宗からあのような疑いを受けたことが微妙な恨みとして残ったようであり、「そちらがそのように疑うのならこちらは保身に走るしかない」と感じていたようである。

その後、長孫無忌・褚遂良・于志寧は武則天によって左遷され、長孫無忌と褚遂良は南方の辺境の任地で自殺に追い込まれたり病死したりした。李勣にはもちろんお咎めがなく、むしろ更に信頼されるようになる。667年668年高句麗遠征(唐の高句麗出兵、第3次)では唐軍の主将として活躍し、長年の敵であった高句麗を滅ぼすことに成功する。『日本書紀天智天皇紀には「大唐の大将軍英公(英国公李勣)が高麗(こま)を打ち滅ぼした」と記されている。

669年、死去。享年76。

伝記資料

  • 旧唐書』巻67 列伝第17「李勣伝」
  • 新唐書』巻93 列伝第18「李勣伝」

関連項目